ハイファのもとへ
ニルスからそろそろ時間だと連絡が入ったので、ブラームが先導して屋上に通じるエレベーターに乗った。
レイラには申し訳なかったが、あらかじめ車が迎えに来ると伝えておいたので、殆どの敵は下に降りていて何の障害もなく屋上に上がることが出来た。
真正面には丁度ヘリコプターが着陸して、エージェントが2名降りてくるところだった。
手には用心のためベレッタM92Fを構えている。
「DGSEのエマ大尉だ! ザリバンリビア方面軍司令官のバラク・アサールと、副司令官のレイラ・ハムダンの2名を確保したので、今から連れて行く」
エマが声を掛けて前に進む。
その後に俺がバラクを連れて、ブラームがレイラを連れて続いた。
ブラームはエージェントにレイラを渡して「じゃあな!」と言って戻って行った。
「ああ、ありがとう。また部隊で会おう」
ブラームが引き返して行くのを見送って、バラクに話し掛けた。
「後悔はしていないか?」
バラクに聞いた。
「後悔はしていない。むしろ昔の俺になら後悔はするけれど、今は清々しい気持ちだ。ナトーありがとう。君のおかげだ」
「これからキツイ取り調べが待っているぞ」
「かまわないさ。人を殺さない生活に戻れるなら、それもまた我慢する」
「立派だな。さすがハイファ……」
そのとき俺たちを抜いて前に回ったレイラが縄を解き、エージェントの持っていた銃を取るのが見えた。
「裏切者!」
その声と同時にパンと言う銃声が響いき、バラクが重く俺の肩に崩れて来た。
レイラは次に拳銃を肩に上げ自分のこめかみを撃とうとしたが、一瞬早くエマのキックが、その拳銃を高く蹴り上げて再び拘束された。
「一体何が」
戻ったはずのブラームも、慌てて引き返してきた。
「すまない。でも、どうして?」
エマは項垂れているレイラの手を取って「付け爪よ。この付け爪の一つがナイフになっていたの」
と、それを剥ぎ取った。
「バラク大丈夫か!?」
止めどなく流れる血が、ヘリポートの床を赤く染めていた。
「僕は大丈夫だ」
腹を撃たれていて大丈夫なわけがない。
「行先変更! 直ぐ近くの病院へ飛んで頂戴!」
血の流れるバラクを乗せて、慌てるようにヘリは離陸した。
弾は腹から背中にかけて貫通していて、その両方から止めどなく血が流れている。
俺は必死にその栓を塞ぐように手を押し付けているが、止まらない。
席の向かい側ではレイラが泣いていた。
「なあ、ナトー。僕がどうして心変わりしたか分かるかい」
「バラク。いまは喋っちゃ駄目!」
「答えはこの碧い海さ。ほら僕たちの居た所には砂漠しかなくて、海が無かっただろ。ここへ来て、この碧い地中海を見て思ったんだ。どんなに空が青くても、それを映す鏡が汚れていてはこの海は碧く映らない事を。それで僕自身の心が汚れている事が分かった。姉さんを殺されて、復讐のために人を沢山殺した。でも、そうやって殺された人たちの家族は、どうだろうって。殺された家族もまた復讐のために人を殺したとしたら、復讐の連鎖は止まらない。だから誰かがどこかで、勇気をもって止めなくちゃならないんだ」
バラクの手が、俺の髪を撫でる。
「ハイファ姉さん、もう夜だよ。地中海がもうこんなに暗い」
貧血による記憶の混乱。
「寒くなって来たね。姉さん僕のことを確り抱いて……寒いよ。姉さん、こんなに寒い冬は初めてだ」
もう血を止めるのは諦めてバラクを強く抱いた。
「ナトーと合ったよ。ナトーは姉さんに似て綺麗で優しい子に育っていて僕の事を助けてくれたんだ。お腹の痛くなった僕をひょいと持ち上げて車に乗せてくれたよ」
“ああバラク、死なないで”
俺はバラクの顔を抱き何度も頭を摩って、そう願った。
「ねぇ……姉さん。僕、死んだら地獄に落ちるの? そうだよね、沢山人を殺してしまったから……」
「いいえ、貴方は沢山人を殺したかもしれないけれど、最後には沢山の人を救ったから神様も屹度許してくれるはずよ」
「ほんとうに?!」
「そうよ。神様は過ちは許して下さるの。そして良い行いは覚えてくれるのよ」
「姉さんいろいろ有難う。もう夜だよ、外は真っ暗だ。僕はもう眠たい。でも明日起きたら皆で海を見に行こうよ。ヤザとナトーと僕たちで。海は綺麗だよ。そしてヤザに教えてあげるんだ。何で海が綺麗に見えるのか」
俺の肩に乗せられた手が力なく垂れ下がる。
「うみはね……うみは、あお・い・・そ・ら・を・・・う・つ・・・す」
バラクの首がグッタリと俺の肩に沈んだ。
「バラク!バラク―!!!!」
キラキラと輝く碧い海の向こうにバラクは旅立っていった。
直ぐに病院に着き、緊急に手術が行われた。
エマたちは、バラクを降ろすと、直ぐに大使館に飛んで行った。
俺だけを残してくれて。
明るくて暖かく騒々しい外の世界とは違い、暗く冷たい静かな手術室前の通路は、まるで生と死の間で揺らめいている命に祈りを捧げるためにあるように思え、俺は必死にバラクの命が戻ってくることを祈った。
血の繋がりはないし、幼い時に遊んでもらった記憶も殆ど覚えていない。
しかし初めて会った時から、バラクは特別な存在に思えた。
屹度、俺自身引き出すことのできない記憶の奥の方で、赤ちゃんだった俺を慈しんでくれた記憶が強く残っていたのだろう。
バラクも、そうだった。
もっともバラクの方は俺が赤ちゃんのとき既に大人だったから記憶はあるだろうが、あのアジトで十数年振りに会った俺にたいして、まるで親戚か家族のように無条件で受け入れてくれた。
フッと廊下に心地好い風が抜け、お祈りを捧げていた頭を上げた。
“色々と弟の世話をしてくれて有難う。ナトーのおかげでバラクも清い心で旅立つ事が出来ます。本当にありがとう”
細面の誰が見ても優しそうな顔立ちにブロンズの長い髪の女性が、冷たい廊下に透けて見えていた。
「ハイファ!? ……お母さん!」
ハイファらしいその女性は、俺の言葉に慈しみの笑みを浮かべて消えて行った。
それと同時に、手術室のドアが開く。
「バラク!」
出て来た医者のもとに慌てて駆け寄ると、厳格そうなその顔は目を閉じたまま首を横に振った。
ドアの向こう側には、まだ手術台の上に寝ているバラクの姿。
看護師さんに連れられて手術室に入ると、まるで日曜日にお昼寝をしているようなバラクの顔があった。
その顔は、俺の悲しみとは裏腹に、幸せに満ちていた。
「触って……触ってもいいですか?」
「どうぞ」
感情を抑えるような看護師さんの声に従い、その寝ている頬を撫でた。
今迄に経験したことのない、冷たい皮膚の感触。
その頬に、涙が一滴落ちるのをきっかけに、俺の目からは止めどなく涙が溢れる。
「バラク! バラクー!」
手術室の床に崩れ落ちるようにして、バラクの傍でいつまでも泣き崩れた。
バラクの命の火は既に消えた。
その魂は、迎えに来てくれたハイファ母さんが優しく天国に導いてくれた。
それから俺は大使館に向かった。
エマのいる部屋に入ると、そこには手錠を掛けられたレイラもいた。
「バラクは?」
エマに聞かれたので「もう、ここには戻っては来ない」と告げる。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
あの、強気なレイラが何度も泣きながら謝る。
バラクの死が影響したのか、それとも自分も死のうとした事が原因なのか分からないが、すっかり憑き物が落ちたようにおとなしくなった。
開け放たれた窓の外から1台の車の止まる音が聞こえた。
「迎えが来たよ」
窓の外を見ていたエマが、優しく微笑んで教えてくれる。
「ああ、あとは宜しく」
背を向けて立ち去ろうとしたとき、エマに呼び止められた。
「ナトー! 本当に、ありがとう」
俺は、それには応えずに、ただ後ろ向きのまま親指を立ててドアを閉めた。
大使館の階段の前には白いバンが止っていた。
任務を終えたニルスとブラームかと思って近づくと、そこにはハンスが1人いるだけだった。
「どうする?」
「なにが?」
乗り込もうとしたときにハンスが聞いて来た。
「闇の酒場ででも飲んでいくか?」
結構な常識人のくせに、俺を気遣って無理しているのが可笑しくてフッと笑った。
「何が可笑しい?」
「いや、ハンスも、なんだかんだ言っても男の子なんだなって思って」
「別に女扱いはしていない」
「そうだね」
「やけに聞き分けがいいな。 どうする?」
「そうね、部隊迄ぶっ飛ばしてもらおうかな」
「了解! ナトー2等軍曹殿」
そう言って敬礼をして車は急発進した。
砂漠の続く長い道。
さっきまで青かった空の端が朱色に染まり始めていた。
開け放した窓から入り込む風が髪を撫でて心地良い。
「ねえハンス。部隊に帰る前に、ひとつだけお願いがあるんだけど聞いてくれる」
「お願い? 珍しいな、ナトーがお願いだなんて、いいよ」
「星が見たい」
「そんなこと!?」
「そう。そんなこと」
基地に戻っても夜なら星はいつでも見える。
だけど基地に帰り、兵士に戻る前に見たかった。
ハンスは何も言わず、車を減速させて路肩に止めてくれた。
車から降りて、大きな空を仰ぎ見る。
次第に西の空が真っ赤に燃え始めて、その炎を消すように紺色の空が押し寄せ、やがて空は紺色が更に濃くなり黒へと変わってゆく。
星がひとつふたつ見え始め、そのうち雲ひつない空には、満天の星々が輝き出す。
今日、バラクは星になった。
もしも、戦争が無かったらバラクはどうしていただろう?
そして俺もヤザも、ハイファも――。
きっと幸せに平凡な毎日を退屈しながら、泣き笑いを繰り返しているに違いない。
“あっ……”
見上げている黒い空に、ふた筋の明るい線が引かれた。
“流れ星”
ふたつの流れ星は先頭の流れ星を追うように、もう一つの流れ星が平行に並んで明るく瞬いていて、そして直ぐに消えた。
“きっと、ハイファがバラクを天国に誘っているのだ”
それを見届けてから車に戻った。
「もう、いいの?」
「いいよ。いま、大切な人を見送ったから」
ハンスは、何も聞かないで車を出した。
砂漠の夜は寒い。
走る車の窓を開けると、その冷たい空気が頬を撫で、気持ちよかった。




