ワニの住む川②
激しい銃声と、人の悲鳴、それと川の水をひっくり返すような水しぶきの音が響く。
ナトーさんに残っていろと言われた私の位置からは、そこでどんな事が起こっているのかは見る事は出来ないけれど、天国と真反対の事が起きていることだけは分る。
ざわつく心を落ち着かせるために、目をつむり深呼吸してから、言われた通りゆっくりと10数え始める。
途中からボートのエンジンがかかり走り出すが、焦る心を抑えてそのまま数えていると、パパの囁く声が聞こえた気がした。
目を閉じた瞼に映るのは、天空を流れる川の傍でパパと抱き合う私。
目を開けると森に重なり合う木々の向こうに微かな光を感じた。
“こっちだ!”
銃声のする方向からは90度以上も角度がずれているが、私には感じる。
何だか分からないが、何かが確かに私を導こうとしている気がした。
これは屹度、ナトーさんの言う“私しか感じる事の出来ないモノ”
私は迷わず、感じた方へ向かって馬を走らせた。
ボートを追って走る。
ボートを追っているのは俺達だけではない。
ワニもそうだが、何だか川の水もざわついている。
ピラニアだ。
あの膝から下の足を食いちぎられた男をボートに乗せてしまったから、そいつの流す血の匂いがワニやピラニアを呼び寄せている。
いや、呼び寄せているのはそれだけでは無いかも知れない。
あの男をボートに乗せてしまったのは俺のミス。
気付いた時には、男の重心がボートの縁を越えていた。
38口径クラスの拳銃なら、それでも何とか川に落とせたのだが今持っている22口径のワルサーでは、相手を殺すことは出来ても重心を変えさせるほどの衝撃は与える事が出来ない。
案の定ボートは俺から遠ざかる方向に曲がった。
陸上に居るワニは、概ねこっちが不用意に近づかない限り問題はない。
もし追いかけてきても、走って逃げきる事が出来る。
種類によっては人間よりはるかに速く走るものもいるが、たいして持久力がないうえに方向転換が苦手なので追いつかれそうになったときはジグザクに方向を変えて逃げればいい。。
ところが水の中となると話は違う。
水の中では人間が陸上で走るほどのスピードで動けるばかりか、方向転換も自由自在で持久力もあり、いったん噛みつかれるとデスロールと言って水中で回転して噛みついた部位を引き千切る必殺技を仕掛けて来る。
今も川の中には何匹ものワニが、血の匂いを垂らしながら逃げるボートを追い駆けている。
ボートが向こうに曲がった以上、追いかけるためには川を渡るしかない。
準備も用心に掛ける時間もない。
俺は走りながら川幅の狭まった個所を見つけて、勢いよくジャンプした。
もちろんジャンプする前に、最も肝心なことはチェックしておいた。
最も肝心なこととは、着地地点の安全。
着地した場所にワニが密集していたのでは、見事に川を飛び越えられたとしても、自らを餌として投げ入れるだけの行為となってしまうから。
ワニは視力が良い。
泳いでいても目は水上に飛び出しているから、当然その目の上を飛び越えようとしている物体に気付く。
襲って来るか来ないかは相手次第だが、獲物を追うモードに入っている肉食獣なら反射的に襲うはず。
案の定何匹かが顔を上げて口を開く。
身の軽い奴はジャンプして俺を捕えようとする。
俺に出来る事は僅か。
ただ末端の部位を捕えられないように、手足を縮めるだけ。
何かがお尻と腿に当たったが、何とか無事に向こう岸の少し手前に着地できた。
ここで尻もちをついてしまうと後ろに着いた手を持っていかれるから、着地地点を少し前に取り、飛んでいた勢いを殺さずに前に向かって走る。
ズボンの裾を噛まれたが間一髪身を切られることはなかった。
あとは木々の間をジグザクに駆け抜けた。
奴等のボートがこっち側に曲がったと言う事は、川の向こうに居たナトーは奴等を追うためにこの危険な川を渡らなければならなくなったと言う事になる。
大丈夫なのか?
いくらナトーとは言え、相手は数百キロの獰猛な肉食獣。
しかも川を渡ると言う事は、相手の最も得意なテリトリーに入ると言う事。
川の中であればワニは、ほぼ無敵。
あのライオンやトラだって、水の中で襲われたら勝ち目はない。
加勢に行くか?
いや、加勢が必要であれば、ナトーは俺に行けとは言わなかったはず。
ひょっとしたら、最初から奴等の移動方向を読んでいたのかもしれねえ。
だから俺に事前に川を渡らせた。
思い過ごし?
買いかぶり過ぎ?
いや、違う。
ナトーには屹度、そういう能力が備わっているのだ。
俺はそれ以降、ナトーの事を心配しなかった。
ナトーが俺に行けと言った以上、俺は最高の仕事を成し遂げなければならない。
ボートが広い川を曲がった時、怪我して暴れている仲間をピパともう一人で抱えて川に放り込んだ。
これ以上ワニが追って来ないように、餌として扱われたのだ。
大きな悲鳴が水の中に呑み込まれ、沢山のワニが重なり合う様に餌に食いつく。
“なんて奴だ、仲間じゃあねえか……”
奴等が仲間を川に放り投げる間、俺は陸地を斜めにショートカットして先に進んだ。
兎に角距離を詰めないことには、拳銃じゃ話にならねえ。
一応チアッパも持っては来ているが、このライフルの有効射程もせいぜい100mくらいなものだろう。
しかも接近戦で単発射撃となると、使い方は限られる。
俺は先ず奴の脚を止めるため、チアッパを構えてボートを待つ。
狙うのはエンジン。
こういうボートの場合、たいていはガソリンエンジンなので、当て所に注意しないと火災を発生させてしまう。
船外機のガソリンタンクは、カバーで覆われている上部……。
直ぐにボートがやって来た。
距離は約30m。
止まっているなら、間違いなく当てる事は出来るが。
水上を跳ねながら移動するボートのエンジンだけを狙うとなれば、かなり難しい。
スコープで狙いを定めトリガーを引く。
パン!
軽い音が響いたあと、金属音が聞こえた気がした。
“当たったのか!?”
確認するために頭を持ち上げると、銃撃に気付いた敵から自動小銃の乱射を受けて慌てて顔を引っ込めた。
エンジン音はまだしている。
“ちくしょう、外したか!?”
チアッパに銃弾を補充し終わり、もう一度射撃体勢に入ろうとしたときに、遅れてやってきたナトーに「伏せていろ!」と声を掛けられた。
その直後に俺の頭の上に銃弾が何発も着弾して、砂まみれになった。
“ひぇ~ナトーに声を掛けられなかったら、これを食らって死んでいたところだったぜ……”
ナトーは俺から10mほど離れた木の陰から走りながら拳銃を数発発射して自動小銃を沈黙させると、そのまま俺の方に走り寄ってきて「チアッパ!」と叫ぶ。
俺が身を起してナトーにライフルを投げるとき、近くを銃弾が通り過ぎる音が聞こえ、ナトーのすぐ後ろの太い木の枝が吹き飛ぶように千切れ飛んだ。
ピパのデザートイーグルから発射される50AE弾の威力。
この距離でも当たれば体がもぎ取れる。
ナトーがチアッパを撃つと、直ぐにエンジンの音から異音がして止まった。
その間もピパはデザートイーグルを撃ち続けている。
ナトーは撃ち終えたチアッパを肩に担ぎワルサーP-22を構えた。
距離は50~60mと言ったところ、いやもう少しある。
俺じゃあ当てられねえ。
ピパは相変わらずデザートイーグルを乱射し続けていたが、ナトーが構えたのを見て、自分も止まった船上に立ち構えなおした。
拳銃による対決。
この距離なら、完全にナトーの勝ち。
ナトーの銃が軽い発射音を立て、ピパが川に落ちた。




