MDA②
用心しながらゆっくりと身を屈めたが、何もなかった。
一旦ホッとする。
後はバスルーム。
四つん這いの体勢から起き上がろうとしたとき、何者かが直ぐ後ろに迫ってきているのに気が付いた。
“しまった!”
いつもなら気付くはずなのに、まったく気配に気が付かなかった。
完全に後手に回ってしまっている状況。
しかも気配を消したまま俺に近付くなんて、そうとう手強い奴に違いない!
こういう場合は、攻撃や防御を考えるよりも、相手との距離を一旦開ける方がいい。
俺はベッドの上を飛び越えて逃げようとした。
ゴツン!
「キャッ!」
不覚にも、飛び越えるはずだったベッドの向こう側は壁だった。
顔は大丈夫だったが頭を打ち、その反動でベッドに仰向けに倒れてしまい、間髪を入れずに敵が覆いかぶさるように襲って来る。
壁にぶつかるとき、無意識に顔を守るために手を上げたまま弾き返されたので、俺の両腕はベッドの上でも顔の付近まで肘を上げた無防備な形。
手が使えないのなら、膝だ!
しかし、その膝も、俺が繰り出すよりも早く敵が圧し掛かって来た。
“やられた!”
こんな所で、
何の役にも立たないで、
だが、これも運命。
受け入れるしかない。
目を瞑って観念している所に、おでこに何かがぶつかった。
「イテテテテッ!」
“この声は!トーニ!!”
目を開けると、トーニの顔が直ぐ目の前にあった。
コツンと俺のおでこにぶつかったのは、トーニのおでこ。
“生きていた!”
嬉しさのあまり、上げていた腕をトーニの首に絡めてキスをした。
驚いたトーニが首を上げて、俺の唇から離れようとするが、もう逃がしはしない。
キスをしたまま体を回転させて逃がさないように、トーニの体の上で馬乗りになり顔を離す。
トーニが驚いた顔で「ど、どうしちまったんだナトー」と目をパチクリさせたが、お構いなし。
「もう、逃がさない」
そう言って、もう一度キスを求めて顔を近づける。
「おいっ!ナトー!なんかおかしいぞ!!」
「おかしくはない。私だって女。しかも二十歳よ!」
そう言って、仰向けに寝ているトーニに密着してキスを求める。
「や、止めろって!」
「私の事を本気で好きなら、なんでもさせてあげる」
胸でトーニの顔を挟むように押し付ける。
「ど、どうかしているぞナトー!」
「意外と意気地なしね。だったら、コレでどう!?」
トーニに馬乗りになったまま、上半身を起こしてシャツの胸を開こうとした。
「馬鹿野郎確りしろっ!」
パチン。
トーニに頬を打たれると同時に、ドアがドンドンと鳴り、誰かが俺の名を呼んだ。
“いったい誰?”
「降りろ!」
いきなりトーニに押されて、ベッドから落ちる。
その途端、ドアが開き、誰かが入って来るのを起き上がったままポケっと見ていた。
「ナトちゃん大丈夫!」
入って来たのはサオリ。
“なんで、サオリが……”
「っるせえなぁー、俺はまだ寝ると言っているだろう!」
トーニが大きな声を出す。
「サオリ!」
「えっ、サオリさん。なんで!?」
寝たふりをしていたトーニが、がばっと起き上がる。
「大丈夫だったようね……いや、ギリギリだな、これは」
サオリが傍まで来て、トーニと俺を見て独り言のように小さく呟く。
サオリの後からキャスが頭を掻きながら入って来た。
「いったい何なの?」
「テスト……いや、悪い悪戯を仕掛けられたのよ」
「悪い悪戯?」
「アンタ昨夜、キャスに勧められてお酒を呑んだでしょう」
「ああ、ナイトコロンビアっていうカクテルを飲んだが、それが何か?」
「一服盛られたのよ」
「誰に?」
「この男」
サオリがキャスの耳を引っ張る。
「どうして?って一体何を盛った?」
「MDAと言う合成麻薬。俗にいうラヴ・ドラッグよ」
「なんで、そんな事をした?」
「本人の言い分は、悪戯ではなく、テストだそうよ」
「なんのテストだ?」
「麻薬に打ち勝つテスト」
「たかがMDAでも、おかしくなっちまうのか?」
心配そうにトーニが聞いた。
「そうね。特にナトちゃんみたいに、日頃から欲求を抑えている人は思わぬ行動に出たりするものよ」
「例えば?」
「例えば、見ず知らずの人に手あたり次第、キスしてしまうとか」
「あーーーーっ……」
「どうしたのトーニ君、まさかナトちゃんにキスされたの?」
「んな馬鹿な事があるもんか!ナトーは、そんなMDAなんかに負けやしねえ!そ、そりゃあチョッとは女言葉になっちまったが、それだけだ!」
「そうね、さすがナトちゃんだわ」
「しかしキャス!てめー、変な事しやがって!」
トーニがキャスに掴みかかろうとしたのをサオリが止めた。
「なんで止める!こいつはナトーに!」
「静まりなさい!」
いつになくトーニに厳しい態度で制止するサオリ。
「いい?これから貴方たちが立ち向かうのは麻薬カルテルなのよ。麻薬に自分だけは大丈夫と言うのは通用しません。現にナトちゃんの様に用心深い人間でも、簡単に一服盛られてしまったでしょ」
「そりゃあキャスが……」
「キャスは貴方たちの部隊の人間?」
「いや、違う」
「いつ知り合った?」
「昨日」
「ほらね。確かに感じの好い人だけど、それだからって安心できないの。むしろ敵は感じの好い人に化けて、麻薬を進めて来る。それを肝に銘じておきなさい」
それだけ言うと、サオリはナトーの手を引っ張って連れて行った。
部屋にまだ残っていたキャスがトーニを見てニヤリと笑う。
「トーニ、なんか好い事あったか?」
「んなもん、あるわけねーだろ!」
トーニがキャスに向けて枕を投げつけたが、キャスはヒョイと避けて、部屋から出て行った。
「チキショー!……」
トーニは、そのままベッドに仰向けに寝た。
『もう逃がさない』
『おかしくはない。私だって女。しかも二十歳よ!』
『例えば、見ず知らずの人に手あたり次第、キスしてしまうとか』
ナトーの言った言葉と行動、そしてサオリの言葉が頭の中で交錯する。
つまりナトーの、あの行動は、単純にMDAによる所業。
別に俺じゃなくても、誰でも良かったのだ。
“MDAの馬鹿やろー!”




