散策
荷物と言ってもバッグが一つあるだけ。
部屋に留まっていても、夕方までここには用はない。
付近を捜索して、捕まったエージェントを探すのだろうと思って聞くと「街に行こう」と言い出した。
街は国民議会派が制圧しているから、安全なはず。
対立する国民合意派と国民救済派は、内戦の最初は勢いがあったものの、その拠点は、1000キロ以上離れたトブルクまで押されていた。
だから、今のトリポリは平和。
宗教系テロ組織はリビア人には受け入れられず、衰退した。
残るのはザリバンだけ。
ザリバンが、このトリポリを混乱に陥れることで、国民合意派と国民救済派は再び勢力を盛り返すことになるだろう。
そうなればシリアのような、泥沼の戦場になる。
「なぜ、街に行く?」
「だって、買い物しないといけないじゃない。折角タダ同然で泊まれるんだから、長く滞在したいもの♪」
“長く滞在する” だって? こっちはサッサと任務を終わらせて帰りたいし、部隊や基地司令、それに一番肝心の捕まったエージェントだって、それを願っているはず。
「チョッとエマ!」
先に歩いているエマに抗議してやろうと思って、話しかけると「シッ!」と唇に人差し指を立てて静かにするように合図された。
「誰かに付けられている……」
「どうする。撒く?」
「いいえ、そのままつけさせて、私たちが安全な人間だと思わせるのよ」
なるほど特に今、手立てがない以上、それが得策だろう。
しかし、俺には追手の気配など感じられない。
こういったところが、情報部員の凄さなのだろうと思い、後ろをついて行った。
街のスーパーに入り寝間着や普段着を買い、それからカフェに入ってパンケーキを食べて、ひとつのパフェを二人で食べた。
エマが「あーんして」とスプーンを持ってくるから、あーんして食べると、エマがモジモジしだしたので、エマにも「あーんして」と言って口に運んでやる。
無邪気に喜ぶエマとは逆に、追跡者のことが気になり、辺りを警戒している俺に「もっと楽しそうにしないと、気が付いていることがバレてしまう」と注意され、俺は無理やりエマを見習うようにじゃれついた。
通りの陰に入ってエマが「キスして」と言えばキスもしたし、抱かせてもやった。
ズフル(正午過ぎの礼拝)にも仲良く手を繋いで行ったし、何度も求められるたびにキスをした。
“ムサの手の者か?それともセバ?”
「今は、考えちゃダメ」
時折、追跡者のことが気になったが、言われるまま一日をエマと遊びまわって宿に戻った。
「あー楽しかった」と、エマが背伸びをした。
追跡されているプレッシャーなどみじんも感じさせない、清々しい顔。
凄い度胸だ。
しかし、一体何者が俺たちを付けていたのだろう?
窓際に座り、外を監視した。
「もう大丈夫よ」とエマが俺に言う。
「でも」
「付けられていたのは私の勘違い。ずっと後ろから足音が付いていたのは確かだけれど」
「いったい誰が」
俺の質問に、エマがニッと笑い人差し指を向けて俺を指す。
「俺!?」
「そう。ナトちゃんの足音だった。おかげで楽しかったわ。キスもいっぱいしてもらったし」
「Fuck you!」
騙された!
急に脱力感が出て、ベッドに横になる。
“もー、熱が出そう……”
お店の手伝いをしているのでアスル(遅い午後の礼拝)とマグリブ(日没後の礼拝)は、お店の奥にある小さな礼拝所で交代に行なった。
特にマグリブが終わった時間帯は、お店の前に行列が出来るほど繁盛した。
ナカナカ順番が来ないと他所へ行く。
マグリブとイシャ―(就寝前の礼拝)の間は2時間もなくて、みんなこの間に食事を済ませたがっているから、遅い店は客を他所に取られてしまう。
店内をてんやわんやと駆け回り注文や配膳、それに客の支払いを受け取るエマ。
お皿を洗いながら、空いた時間に簡単な調理を手伝う俺。
熱い火を睨むように、調理に没頭するムサ。
行列を他所の店に取られることなく、全て店内に呼び込んだ。
はじめてにしては、ナカナカのチームワーク。
イシャ―の始まりを伝えるアザーンが鳴り始める頃には、もうクタクタ。
「モスクに行っていいぞ」
「でも……」
「あとの片づけは俺一人でも出来る」
「あざーす♪」
店内を駆け回っていたのに、疲れ一つ見せないエマが調子に乗って俺の手を引く。
俺は躊躇ってムサのほうを振り返る。
「いいぞ、行け。セバが待っているんだろ」
そう言われて、朝にセバがイシャ―の後で会おうと言ったことを思い出した。
もしかしたら、なにか情報が得られるかもしれない。
エマが俺の手を強く引っ張る。
「それでは、お願いします」
「行ってきまーす♪」
足早に駆けてモスクに向かった。
礼拝を終えると、朝出会ったところにセバたちが待っていた。
「よう、エマにアマル。店の手伝いはどうだった?メッチャこき使われただろう」
こいつ、忙しいのを知っているということは、昔手伝ったことが有るってことだと思った。
「疲れたわぁ~」
そう言ってエマがセバに抱き着く。
“さっきまで元気でピンピンしていたのに、いったいどういう女なんだ?”
「疲れを取るのに効果抜群の飲み物を出す店を知っているんだが、一緒に行くか?」
「いくいく♪」
そう言うエマに手を引かれて、俺もついて行く事になった。
連れていかれたのは路地裏の、暗いお店。
女性も何人か居たけれど、圧倒的に男の数が多い。
客層としては、特に人相が悪いというわけでもなく、どこにでもいる中東の男女。
だけれど、客の飲んでいる物は、小麦色の上に白い泡の付いたやつ。
“ビール!”
イスラム教では飲酒は“ハラーム”で禁止されているはず。
ハラームは絶対で、お酒と豚肉、犬や猫科の動物の他、ロバやラバなども禁止されている。
エマも俺も、本当はイスラム教徒じゃないけれど、今はイスラム教徒として振舞っているから絶対に飲んではならない。
特にエマがそのことに気が付いているのか気になった。
プシュッという炭酸が噴き出す音とともに、エマがビールの缶に手を伸ばす。
“ヤバイ!”
これは罠かも知れない。
「ふざけるな!戒律違反だぞ!」
俺は席を立ち、テーブルに置いてあった缶ビールを払い除けた。
床に落ちたビールがブツブツと文句を言う。
エマとセバが驚いて俺の顔を見る。
他の男は怒った顔で俺を睨む。
店の主らしき人物が慌ててモップを持って来て、落ちたビールを除けた。
静まり返る店内。
みんなが俺を見る。
「わりい、わりい。最初に言っていなかった俺がいけねえ。アマルごめんよ。お前さんの言う通り酒は戒律違反だ。だが、これはノンアルコールビールと言って、酒じゃなくジュースなんだ。ホラ」
セバが持っていたビールの缶を俺に見せた。
見せられたのは成分表と、その上に書かれたハラール(許可)の文字。
ビールと言ってもアルコール分が3%未満のものは、政府からハラールの文字の印刷が許されている。
「すまない」
「いいってことよ、飲みなおしだ。厳格なイスラム教徒に乾杯!」
他の者たちも、顔をもとの穏やかな表情に戻し新しいノンアルコールビールを持ち上げた。
――俺とエマも。




