ブルカの女、ターニャ③
耳を澄ましていると、かすかに足音が聞こえた。
片方の足を引きづっているが、足の運びはハンスのものに間違いない。
ターニャと言う女の足音が聞こえないところをみると、縄で縛って現場に置き去りにしてきたのだろう。
「ヤザ。君たち夫婦は、どうして俺に歌を教えてくれなかったの?」
「歌……どうして?」
「だって、友達の前で歌ったら凄い音痴だって笑われたぞ。これってヤザの遺伝かも」
「俺は、下手じゃない」
「本当?じゃあ、歌ってみせて」
ヤザはスッカリ照れてしまい、しきりに困ったのを隠すように頭を掻く。
このままでは、ハンスの足音が聞こえてしまう。
「じゃあ私が義父とアサム様に歌ってあげるね」
歌はあまり知らない。
しかもペルシャ語の歌はなおさら。
赤十字難民キャンプに居た頃に流行した女性アーティストの『シャーネ』を口歌う。
かなり流行した曲なので2人とも知っているらしく手拍子でリズムを取ってくれ、コーラスの入る場面ではチャンとそれを入れてくれた。
だが歌いながらも、俺の耳はハンスの足音を捕らえて離さない。
足音はもう洞窟の手前。
2人には悪いが、折角盛り上がっている所で修羅場が訪れる……。
ところが、入り口の前でハンスの足音は止まったまま。
“えっ!?ひょっとして、俺の歌を聴いているのか!?”
こうなるとヤザとアサムの心配なんてしていられない。
ハンスの足音を隠すために苦手な歌を唄っているのに、マジで聴かれているとなると恥ずかしくて仕方がなくなってくる。
頭の上からジワリと汗が出てくる。
恥ずかしさが焦りを呼び、平常心を保つのに必死。
“早く入って来て!もう持たない……”
それでもハンスは動いてくれない。
“もう我慢できない”
ハンスが動かないのなら、こっちから動くしかない。
俺はノリノリで歌っている振りを装い、立ちあがり腰を揺らして踊りながらハンスの居る洞窟の入り口に少しずつ近づく。
ハンスが俺の曲が終わるまで待つと言うのなら、俺はそのハンスの攻撃をコントロールしてなるべくヤザとアサムを傷付けないようにしてみせる。
曲ももう終盤。
洞窟の入り口付近にも移動終了。
おそらくハンスからは、俺の後ろ姿は丸見えのはず。
お尻を揺らし、何度も繰り返し空中にDo not hurt(傷つけるな)と書く。
そして曲が終わる。
ハンスに襲われるとも知らない2人が、呑気に拍手をしてくれる。
「どこが音痴なんだ?」
「しかもダンスも上手い。ヤザの娘にしておくのが勿体ないのぅ」
2人は大はしゃぎ。
“ザクッ”
土を踏む音。
いよいよか――だが、違う! “ハンスのものじゃない!”
急に現れた他の足音。
一体今までどこに隠れていた!?
襲われるのは、俺の方。
ハンスは屹度、この新しい足音の主に捕らえられている。
足音を頼りに「イエーイ♪」と陽気に歌い終わったポーズを取る振りをして後ろ回し蹴りを放つ。
ターニャと言う女が、どの位の身長かは分からないので振り上げる脚の高さに気を付けながら蹴り上げた。
高すぎると潜り込まれるし、低すぎると放った脚を抱え込まれる可能性もある。
ハンスを負かしたとあれば、細心の注意が必要だ。
振り上げた足首を柔らかいタッチの手が掴もうとするのが分かり、慌てて折り畳み素早く相手と正対した。
全身スポーツ用のブルカで覆われた、意外に小柄な女。
俺の次の手を警戒してか、まるでワープでもするように、いつの間にか数歩後ろに下がっていた。
“忍者か?!”
とにかく素早い相手であることは確かだ。
間を詰めて、左右からハイキックを放つが、かわされた。
むろん、かわされるのは承知の上。
3発目はハイキックと見せかけて、体を反転させ足を入れ替えて相手の左内転筋に見事ヒットさせる事に成功した。
そのまま体の回転運動を続け、再び入れ替えた足の踵で同じ個所を狙ったが、かすっただけで効果はなかった。
足を引いてかわした敵は前よりになった重心を生かして、そのまま懐に潜り込もうとしてきたが、俺は回転運動をそのままに膝を折り敵の足を払う。
足を払われた敵が少しバランスを崩したところを見逃さず、テンプル(こめかみ)を目掛けてハイキック。
これが当たれば敵は一発で沈むはず。
だが敵も甘くはない。
放ったハイキックを予想していたかのように、頭を両手でガードしたかと思うと、俺の足首を掴もうとしてきた。
ハンスを破った相手。
一筋縄ではいかないのは重々承知の上。
俺はハイキックを放つ反動をそのまま利用して、もう片方の足で相手の左内転筋も狙っていた。
両足が空中にある状態なので、威力は薄くなる。
しかし相手がハイキックを放った足を持つことで、状況は良くなった。
俺の片方の足は相手によって支えられ、俺はそれから逃げる様に敵の内転筋を強く蹴り、逃げることに成功した。
この攻撃は敵にかなりのダメージを与えたと見え、一瞬ふらついた後、敵は動きを止めた。
さて、これから、どう料理してやろうか……。
戦いの途中だが、ハンスの事が気になって振り返った。
目隠しに猿ぐつわ、おそらく耳栓もされているのだろう。
だけど地面の振動は骨から脳に直接伝わるから、俺と敵の動きは分かっているはず。
よそ見していても、わざとジッとして動きを止めているハンスを見ていれば、自ずと相手の動きも分かる。
ハンスの顔がピクッと動いた。
“来た!”
正拳突き。
空手か。
掌で相手の拳を止め、そのまま捻る上げようとすると、逆に手を捕られた。
“合気道!”
慌てて側転して捕られた手を振り解く。
空手と合気道を使うなら、柔道も使うはず。
下手に腕や足を取られると、関節技。
そして首を取られると、締め技で簡単に落とされてしまう。
敵が万が一レスリングでもやっていようものなら、接近戦では細長くて手足の長い俺は不利になる。
あのハンスが負けたのも、それが原因なのか……。
いや、ハンスにとって接近戦は不利にはならないはずだ。
なにしろハンスの体重は、今この目の前にいる敵の体重に対して二倍は優にあるし、力も断然違う。
では、何故負けた?
どう考えても負けるはずが……右足の怪我か!
敵は俺に考え事をする余裕を与えたくないようだ。
低いタックルから、俺の懐に潜り込もうとしてきた。
とっさに放つ膝蹴りで相手の鼻を狙う。
女性にとって顔を傷付けられるのは可哀そうだが、仕方がない。
しかし敵もそれを読んでいたと見えて、掌で蹴りをガードした。
こっちもただ単に顔面に膝蹴りを放ったわけではない。
折りたたんだ脚を引っこ抜くように伸ばし、そのまま溝落ちを蹴り上げた。
ところが振り上げた足の先が空を切る。
敵は腰を捻り、俺の足を脇腹に抱えようとする。
“しまった!最初からこの攻撃は罠だったのだ!”




