宿直室
勘定を済ませて店から出る。
「どこかで遊びたいか?」
「いや、戦う準備をしなくてはならない。遊ぶのは入隊が決まってから誘ってくれ」
ハンスがニコッと笑みを見せてくれた。
車で部隊へ帰ると、正門の所に見覚えのある顔が三つ並んで居た。
モンタナとブラーム、そしてトーニ。
「隊長遅いぜ、どこに行って……」
車から降りたハンスに向かってトーニが文句を言いかけて止めた。
「おっと、まさか美女とデートだったとは驚き」
モヒカンのモンタナが言い、黒人のブラームが“ヒュー”と茶化すように口笛を鳴らす。
「しっかし、こりゃあ飛び切りの美人だぜ、隊長いつのまにこんな美人と知り合った?」
トーニが俺の顔を覗き込んでハンスに言うものだから、俺もハンスも笑い出してしまった。
その様子を見ても、まだ三人は気が付かない。
「お前ら、もう忘れたのか?あれだけ打ちのめされたと言うのに」
その言葉にモンタナとブラームが「あっ!」と声を上げて驚いた。
「あの時の!?」
それでもトーニだけは、まだ分からならしく「あの時のって、お前らだけ抜け駆けしてどこに行った?」と言うものだから、俺が腰を振って見せてやると、ようやく気が付いて。
「おいおい、どうした事だ、俺様と有ろう男がこんな美女を見間違うだなんて!」と頭を抱え、みんなで笑った。
「隊長、言われた物」
ブラームが、そう言ってハンスに小箱を渡した。
「すまんな」
ハンスはブラームから小箱を受け取ると、代わりに車のキーを渡して、停めておいてくれと頼んで俺に目で行くぞと合図した。
目ざとくトーニがそれを見つけて「隊長、お楽しみかい」と軽口をたたいたものだから、ハンスに「アホ」と言われた挙句、明日はモンタナと一緒に筋トレをするように命令され、モンタナから「喋るのが嫌になるくらい鍛えてやるから、今夜は早く寝る事だな」と言われ悲鳴を上げて連れて行かれた。
「それじゃあ隊長」
ブラームも、そう言って車を出す。
残った俺とハンスは宿直室に向かう階段に足を掛けた。
「もういいよ」
ハンスが一緒に上がってくれるのは嬉しいけれど、迷惑を掛けてもいけないのでそう言うと「遠慮するな、今週の宿直は俺の番だ」と言った。
「それも――」
「その通り。これも予定外で、俺は君のボディーガード役に抜擢された」
そう言って笑い、ブラームから受け取った箱を差し出す。
「これは?」
「ドライヤーだ。風邪をひいては詰まらんだろ」
それからハンスは通路の奥にある無線室へと消えて行った。
部屋に入り、箱を開く。
上等なドライヤー。
異性から始めてもらったものに、二年間張り詰めていた心が解けそうになりズット手に取って見つめていると再びドアがノックされた。
「ハンス!」
小さく声を上げ、慌ててドアを開けると、そこに立っていたのは知らない若い士官。
「こんばんは!」
「はあ……」
ハンスではなかったことに少しがっかりして、気のない返事になったのが自分でも分かった。
「はじめまして、僕はニルス。同期だけど階級はハンスの一つ下で少尉。今日は一緒に宿直なので、宜しく」
ニルスの言葉で、初めてハンスが将校だということが分かった。
「俺はナトー。ニルス少尉、お目に掛かれて光栄です。どうぞ宜しく」
俺が握手の手を差し出すと、ニルス少尉は一瞬戸惑ってから、ゆっくりと手を出してきた。
握った手は汗が凄かったけれど、好青年ぽいその容姿から不快感は無い。
兵士にしては柔らかすぎる手。
握手が終わり、手を離すとニルスは緊張感が取れたようにホッとしているのが見て取れた。
「どうして?」
「えっ?」
「どうして、そんなに緊張していた?」
「いや……ハンスがね、君が僕を気に入らなかった場合、握手の手を差し出した途端に、捻って投げつけるだろうって言うものだから……」
「まさか」
そう言って笑う。
「腕に自信は?」
「ないですよ、彼は元KSK(ドイツ連邦陸軍特殊作戦師団)だけど僕は普通入隊ですから」
なるほど、どうりでハンスが強いわけだ。
ハンスに買って貰ったスウェットに着替え、寝る前にもう一度シャワーを浴びた。
今日二回目のシャワー。
でも一回目と違い、体が火照っているのが自分でもハッキリと分かる。
熱いお湯が、その火照りを更に焚きつけて行く。
まるで、この体の感覚は、サオリと一緒に狭いシャワー室に入ったり、ベッドに入ったときの感覚に似ている。
甘い記憶が蘇り、思い出を撫でるように、柔らかく体を洗う。
それはまるで肌を磨いている感覚。
まるで丹念にお化粧をする、女のよう。
そう思うと、急に体を撫でるのを止めてクシャクシャと髪を洗う。
でも、一向に火照りは治まらないどころか、体の奥の方からジンジンと湧き出てくる。
サオリと一緒の時の、甘いゆっくりとしたものではない。
似てはいるけれど、もっともっと体の芯から激しく熱が噴き出して来て、自分では止めることも出来ない。
何故?
一瞬、この火照りにこの身を任せてしまいたくなる。
でも、それではいけない。
今は厳しい試験の最中。
気を緩めてしまっていては、遥々ここに来た意味がなくなる。
手を給湯コックに伸ばし、火照った体を冷ますように、お湯を水に切り替えた。
その冷たさが、体を正気に戻した。
シャワー室を出ると、丁度無線室のドアが開いた。
“ハンス!?”
そう思っただけで胸の鼓動が高まる。
しかし出てきたのはニルス少尉のほう。
高まった胸の鼓動が、元に戻る。
ニルスは俺の顔を見てニコッと微笑みかけ、自分の宿直室に入って行き、俺はそのまま廊下を歩いて自分用に割り当てられた部屋に戻る。
まるで何事も無かったかのように。
ドアを閉めると、急に安心してしまい。深いため息が漏れた。
自分でも、どうしてだか分からない。
椅子に座り、ドライヤーを手に取り、濡れた髪を乾かしながらサオリの写真を眺めると、さっきハンスと一緒に行ったブティックでのことを思い出す。
お店で一番に目に留まった綺麗な青いドレス。
ハンスが似合っていると言ってくれた、フワッとしたスカートの青いドレス。
急に懐かしいサオリの声が耳に届けられる。
“まあ、男の人に恋するようになったら、私が勧めなくても自然にスカートを履くようになるか!”
“まさか――”
俺は、慌ててベッドに入った。
ブランケットを頭までスッポリかぶって、心の中で連呼する。
“まさか! まさか! まさか!”と。
夜中にドアの開く音で目が覚めた。
「じゃあ、あと宜しく」
「オーケー!」
最初の声がハンス、あとの声がニルス。
ドアが閉まり、またドアが開いて、そして閉まる。
最後のドアの締まる音に導かれるように、俺はベッドを出てドアを開けると、そのまま廊下を進みハンスの居る宿直室の前まで来てしまう。
“何故?”
自分でも、どうしてここまで来てしまったのか分からない。
何をしたいのかさえも。
閉められたドアは冷たい氷のように静かに物も言わず開かない。
それは、決して登る事の出来ない、氷壁のよう。
諦めて来た廊下を帰り、部屋に入る。
“なにがしたかったのだろう……”
と、自分に問いかけてみるけれど分からない。
ナトーがドアを閉めて部屋に戻った後、通路の向こう側にある宿直室のドアがゆっくりと開く。
そこは、さっきまでナトーが立っていた氷壁のドア。
ハンスは今閉められたばかりの、通路の向こう側のドアをしばらく眺め、またゆっくりとドアを閉めた。
通路に小さく照らされた橙色の灯には、二匹の蛾が戯れていた。




