庭先の白椿
ふとしたきっかけで、マンネリ化していた夫婦にも新しい風が吹き込んで、小さな幸せに気付く時があります。
この物語りは、花屋の片隅でひっそりと生涯を終えるつもりだった白椿の鉢植えが織りなす日常の幸せとは?を、考えて見たものです。
通い慣れたいつもの駅からの帰り道、通りに面した馴染みの花屋の前に漂う香りがふと気になって、僕は立ち止まった。数多く並ぶ他の花を押し退ける程に際立つその香りは、店頭の一番端にポツンと置かれた売れ残りの鉢から放たれていた。
僕は、しゃがんでその鉢に鼻を近づけてみると、間違いないなくこの花の香りだ。その鉢をつくづく見てみると、花は殆ど咲き終わっていて辛うじて最後の一輪を可憐に大きくひろげている八重の白い椿の苗木であった。背丈は30㎝程だが、頂点に花を付けたその姿は凛として可憐だ。そして、何と言ってもその無垢な色が清楚な美人を思わせる。その妙に艶かしい立ち姿が、すっかりと気に入り見入っていると、奥に居た店のお兄さんが声を掛けてきた。
「それ、良かったら、百円に負けときますよ。今年の花は終わりですが、来年には一杯花を付けますから。」
そう言われ、僕は即決で買い求めた。自宅までの道程を僕は鉢を大事に抱えながら、花の香りを楽しんで歩いた。
自宅に着き、玄関に入ると僕は脇に有る下駄箱の上に、鉢をそっと置いた。たちまち周りに香りが発ち込める。妻が出てくると
「あら!何買ってきたの?」と鼻を動かしながら尋ねた。
僕は「これ!」と、鉢を指差した。
「まあ、綺麗な花ね!。それに何て良い香りがするのかしら。でも、咲き終わりよねえ。残念だけど。」と淋しい言葉が返ってきた。
僕は不機嫌そうにネクタイを緩めながら、「だから安かったんだ。でも、素敵だろう。僕は気に入っちゃったんだ。」と言うと、
「本当に綺麗ね!私みたいに」と、まんざらでもない笑顔で言うので、僕の口はあんぐりと開いた。
僕は「花は来年の楽しみにするとして、庭の入口のアーチの脇に植えたいと思うけれど、どうかな?」と、妻に尋ねると妻は「ハイハイ。」と適当な返事をしながらその鉢を持ち上げて、一人まじまじと眺めて悦に入っていた。
翌朝、起きて新聞を取ろうと庭へと出てみると、その苗木は既に妻の手によって植え付けられていた。
「なんだあ、もう植えちゃったのかあ」と、僕が言うと、
「今朝は、何か早く起きちゃったのよ。」との返事だ。
僕は少し淋しさを感じて
「毎日の水遣りは僕がするからさ」と、言うと、
「あら!珍しい。でも、いつまで続くのかしらねえ?。大抵の事は三日坊主だしねえ」と、妻は笑いながら冷めた目を僕に向けた。僕は男の意地に掛けても明日からは妻より早起きして何がなんでもやってやると心に誓っていた。
次の朝から、僕の男の闘いの日々は続いた。花は程なく落ち、その後新緑の芽が伸び、沢山の葉を付け、背丈もグングン伸びていった。毎日の成長を見るのが知らずの内に日課になっていた。季節は巡り、次の春がやって来た。僕は見事に一日も欠かさず水遣りをやりきった。
椿は、20以上の蕾を付け、背丈も1mを超えた。そして、最初の花が咲き出した頃から、覚えのある甘い上品な香りを辺りに放ち始めた。暫くすると、近所の人々にも気付かれたらしく、我が家の前を行き交う散歩や通学の子供達の、「あ、良い香りがする!。」の声が家の中まで聞こえてくる様になり、僕は少し誇らしい気分を味わえた。
その数日後の事、会社帰りにふと気が付くと、花屋の店頭に同じ椿の鉢が並んだ。幾つもの立派な花と蕾を付け、値段は800円である。僕が店のお兄さんに、
「去年買ったこの同じ椿の花が、今年見事に咲きましたよ。」
と、報告すると、店員は、にっこりと頷いて、
「先程、奥さまから伺いましたよ。それで新たにもう一鉢買って帰られました。」と、言う。
僕は少し驚いてから、「あ、そうですか。」と返事をして家路を急いだ。玄関を開けて中へ入ると妻は迎えに出てきて「はい、これ!」と、嬉しそうに鉢を僕に差し出した。僕は花屋でのやり取りを内緒にすることに決めて「どうしたの?これ。」と尋ねた。
「エヘヘ、買ってきちゃった。庭の椿が1本じゃ何か可哀想だと思ってたのよ」と答えるので、僕は「そっかあ」と言いながら靴を脱ぎ、
「明日の朝、良かったら一緒に植えよう」と提案した。妻は「うん」と、思いきり明るい声で返事をした。
翌朝、二人で一緒に庭のアーチのもう片方にその苗木を植えた。背丈は大分小さいが、花振りは負けていない。妻は「バランス悪いかな?」と心配するので、僕は「良いんじゃないか。親娘みたいで。それに、直追い付くさ。」と応えながら、きっとこの先、幾度となく巡りくる毎春にこの香りが辺りを嘗めるように漂い、時を重ね、大木に育っても僕たちをずっと幸せな気分にさせ続けてくれる様にと、心で願った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
あー…とうとう花屋の店頭の隅に追い遣られてしまったわ。毎日毎日、どれだけの人達が私の前を通り過ぎて行ったかしら?。人がふと立ち止まってこちらを観る度に、「え、私かしら?」と思い、顔を赤らめて(とは言っても、花弁は白いままなんだけれども)ポーズをとるものの、幸せそうな笑顔で持ち上げられる鉢は、いつも私では無かったわ。私だってね、一生懸命咲いたのよ。思い切りのエネルギーを使って思い切り美しく…それでも誰にも選ばれず時ばかりが過ぎて行ったわ。買われていくときのあの友の嬉しそうな顔を何度見せつけられた事でしょうね。その度に祝福の心と妬みの心が同時に交錯してたわ。ただ、若くて綺麗なだけじゃないとか、ひねくれた感情が生まれて、(いっその事、グレてやるわ)なんて思ったことも有ったわ。でもそんな醜い心を持つ自分にも嫌になってた。
その内に花の盛りは過ぎていったわ。身につけた花びらは1つ又1つと散っていってしまった。最後にゃ邪魔者扱いされて値段も100円に迄下げられたわよ。プライドもすっかり傷つけられたわ。そんな日々の暮らしの中で私の身も心もくたびれて果てて、すっかり老いてしまったわ。もう誰も見てもくれない。そして、隅っこに置かれてさ…
かってこの場所に置かれた花の運命を私は充分に見てきたわ。私もあの花達と同じ運命、このまま朽ち果てて忘れられ最後には棄てられる。そして、私の存在など誰も覚えても居なくなるのよ。そんな惨めな最期を迎えるくらいならせめて最後くらいは自分自身の為に一花咲かせ思い切りパッと散ってやろうと決めたのよ。そして、最後に残った取って置きの大きな蕾に全精力を注いで咲かせてやるわってね。
どうせこんな売れ残りの姥桜
…違った姥椿だったわね…
の生きた証なんて何も残らないし誰も求めてなんかいやしない。どうせ自己満足だけの生涯だったわってね
だってね。
「花」の一生なんてさ美しく咲いて人を喜ばす事が仕事じゃない?それなのに、仕事もさせて貰えず生涯を終えるのよ。だから自分のために咲いて何処が悪いの?開き直って思い切り華やかに最後の一輪で思い切り芳香も放つ覚悟も決めてたの。
そうしてあの日も終わろうとしていたわ。その夕方のこと、そんな私をじっと見つめてくれる男の人が居たのよ。最初は、なんて物好きな人かしらって思ったわよ。そうしたら私のこと持ち上げて、「これを下さい」って。私は何かの間違いか冗談かと思ったわよ。それに、もし買って帰って家族の人達に散々馬鹿にされて棄てられる位なら私のこと、そっとして置いてよ。私、これ以上惨めな思いなんかしたくないからってね。
でも、その男の人、私のこと「綺麗」って言ってくれたの。花屋さんから持ち帰るときも笑顔で大事そうに抱えて、歩きながら私にずっと話しかけてくれてた。奥様が喜んでくれるかなあって。花は一輪だけだけど、香りも良いなあって。私は涙が止まらなかったわよ。「花の泪」なんてね。勿論人間には観られないんだけれどね。でも、その人が私の生きる小さな希望の光を心に灯してくれたのよ。
そして、家の玄関に入って迎えてくれたのが奧様だった。最初怪訝な顔してたから私は、ほれみたことかって思ったわよ。でも、私を見つめる奥様の瞳は、急に優しさを帯びてきて「綺麗ねえ、それになんて素敵な香りがするのかしら」って、私のこと褒めてくれたの。
私は、その時決断したの。生涯をこの2人の為に捧げようって。この一瞬だけでも私に愛情を注いでくれる2人は、私にとっては命の恩人、だから精一杯尽くそうって。
そして、翌朝になって奥様が私のこと狭い鉢から出して広い庭の陽当たりの良い場所に植えてくれたの。家族にしてくれたのよ。周りの地面に生える芝生さんも樹樹の先輩方も皆新入りの私を温かく迎えてくれた。そしてね、植える時に奥様が私に話してくれたの。御主人が自分にプレゼントなんて買ってきてくれたのは数年ぶりの事だって。とても嬉しかったから、私のこと宝物だから、1番陽当たりの良い場所に植えるからねって。
それから、あなたは今年は花振りは終わりだけれども、来年は沢山のお花を付けてねって。私にも口が有れば大声で「私を大切に思ってくれてありがとう」って御礼を述べて嬉し涙の1つくらい流したかった。そして、その植えてくれた場所は、本当に暖かかった。花屋の店頭なんかよりずっと素敵な場所よ。自動車も目の前通らないし、散歩する人達も犬たちも、皆大人しくて何処か品もある。私は何としてもこの2人の愛に応えていこうって決めて、来年の為に勇気を持って最後の花びらを落としたの。
そして、私は丸裸、枝と葉っぱだけの身になりました。
その次の朝から、御主人は毎朝起きてくると私に「おはようさん」って挨拶してくれた。そして、新聞を取り出した後、私に水をかけてくれた。毎朝よ。勿論、雨の日の水は無かったけれど、挨拶は毎日してくれた。
その御主人が仕事に出掛けると、今度は奥様が庭に出てきて洗濯物を干しながら話しかけてくれるのよ。「枝が伸びてきたわね」とか、「葉が大きくなったわね」とかね。そして剪定の為に1番太い幹を切り落とす時も、「折角伸びたのに御免ね。でも、これを切った方が来年、あなたはもっと美しくなれるから」って謝りながら私のこと切ったの。だからかな、切られたとき私は爽やかで清々しい気分だったわ。それにこの御夫婦なら、私は何されてもいいわって思ってもいたしね。
そして季節は進んで、夏は1日に2回水を頂いた。秋が終わって寒い冬の季節を迎えた頃になっても、まるで枯れ枝みたいな私に変わらぬ愛情を注いでくれた。植物にとって笑顔で見つめられる程の悦びは無いわ。そして冬の本番、たった1度だけ大雪が降り積もったの。とても寒かったわ。私、風邪引いちゃうって思った。でも、その時にも他の樹は、そのままにされたけど、私の葉の上や、茎に積もった雪を優しく払い落としてくれた。そして、暫くして少し暖かな初春も無事に迎えられたの。
そんな日々の積み重ねが有って春が終わり、初夏を間近に控えていた頃、20個余りの蕾を付けることが出来たのよ。私も嬉しくて、花を咲かせるのにウキウキわくわくしてたわ。本当にお待たせしました。美しい本当の私の姿を見て見てってね。
やがて1つの蕾が開き、一輪の花が咲いたとき、2人は手に手を取って喜んでくれてた。その時の2人の顔を私は一生忘れないわ。
そしてね、幾つかの蕾が開き、競演するころには辺りに良い香りも漂い始めて、庭の外を歩く人達にも私の香りが届き、存在に気付いてくれた人は歩く足を止め「あら、良い香り」なんて言ってくれて褒めてもくれた。私はなんて幸せなのだろうって思いました。周りの樹樹や、空を飛ぶ鳥さん虫さん達も揃って声援を送って応援してくれた。そしてね、花が7分咲き位のコロかな?奥様が私に素敵なプレゼントをくれた。そう、私に妹が出来たのよ。1才違いの妹は、門を挟んだ反対側に対になるように植えてくれたの。だから、私はここのご主人や家族の優しさを話しかけて励ましたの。「あなたはとても可愛いらしいわよ。花振りは小さいけれど、素敵よ。今はまだ背も低いけれども来年には私のように背も高くなって立派になれるわ。何の心配も要らないのよ」ってね。
そしてこの先ずっと仲良く2人で綺麗なハーモニー奏でましょうって言ってね。
そして、その白椿の姉妹はその言葉通り翌年には大きさも揃ってその後も毎年、沢山の花を咲かせ香りを放ち続けた。今ではその背丈も塀の高さを優に超え、外の道を行き交う大勢の人々にも評判となり、その界隈では名所として知られて、永年に渡って幸せな人生…いや、「花生」を過ごしましたとさ。