弱さの真髄(2)
弱くあり続けたいと思う。その原点は今の自分の思想にあると思います。これまでの私の小説、特に『シンギュラリティ』を読んでもらえればわかると思うのですが、自分はなかなかの悪人だと思います。そしてこれから投稿する予定のものの中にはその過激度に一層の拍車がかかったものもあります。それこそ鬼畜と思われても申し分ないほどに。責めるわけではありませんが、前に紹介した『呪い遊び』や『王様ゲーム』、『猟奇犯罪捜査班・藤堂比奈子』シリーズに感化されてのことだと思います。
小説の中だけなら(今の所)問題はないですが、しかしこのまま似たような作品を構想し、書き続ければ自分の身を破滅させるのではないかと思ってしまうことがあるのです。そうならないためにも自分は弱いのだと自覚することが寛容だと私は考えています。調子に乗って、大きく出れば自制心が薄れ、歯止めが効かなくなるでしょう。自分の今の思想に傲慢さが加われば、他人を不幸にすることは否めない。しかし自分は身体能力、権力、そして何を取っても他より劣る存在である認識すれば、自分より立場が上の人間が自分をコントロールしてくれると考えています。
さらに見上げる存在がいれば、彼らを目標にすることで日々精進できるし、慢心しない。こぞって上を目指す荒くれ者と張り合うつもりは毛頭ありません。自己顕示欲は今の所この小説を書くことで十分に満たされています。なので今はとにかく図に乗らない、身の振り方をわきまえた生き方をすることで落ち着いています。差し出がましい真似は慎む。威張るなんてもってのほか。無用の長物とまでは行かないでも肩身が狭いが今の自分には適していると思います。将来的には虎の威を借る狐な感じでしょうか。孤独を愛する私ですが、結局万が一の時はおんぶにだっこ、自分勝手で申し訳ないですね。
理想としては様々な“力”がギリギリ生命を維持できる程度しか持ち合わせなければ、“今”を生きるのに必死で余計なことを考えずに済むと思っていますが、それは現段階では実現しそうにないですし、自分から力を手放せば、今を懸命に生きる人に失礼ですよね。力を彼らに譲歩できれば幸いなんでしょうが、生憎社会はそんなにうまくできていません。
最後に一つ思ったのですが、たとえどれだけの人間が自分の上に立とうとも、自分だけは自分の中の自分よりも上に立っていなければならない。もし心の自分が優勢を取った時、それは自分が本当の自分を抑えられなくなる時だと思うのです。人間の裏の顔が表の顔では隠すことができなくなってしまう時。私の場合それは人間が人間でなくなる時だと思うのです。なので端的にいうと他人からは自分は弱い存在で思われたい一方で、自分自身は自分が気に病むほど弱い存在ではないと自分に言い聞かせなければならない。なんだか哲学的な言い方になってしまいましたが、なんとなくはご理解いただけたでしょうか。
というわけで、これからも皆さんのご期待に添えれるように、畜生は物語の中、そして自分の頭の中に留めておきます。そしてその思想が行動や言動に現れないよう常に気を引き締めて、不遜な態度を取らないように精進して生きますので、これからもよろしくお願いいたします。
言葉を濁らせましたが、要するに自分が弱いと自覚していなければ、自分の思想を実際に行動に起こしてみたくならないか。要するに犯罪を手に染めてしまわないか、心配なわけです。なので自制心を保つために自分は弱いことを自覚することが肝要ではないかと考えたわけです。
来週は若輩者の私が理想とする子供の育て方についてです。実現させるつもりはありませんが…