弱さの真髄
突然ですが、私は常々弱くありたいと思うのです。この言い方だとまるで今の自分が天下無双の剛勇で向かう所敵なしのように感じますが、そうではなく、私は弱いです。そしてこのまま弱いままであり続けたいのです。特に精神的と社会的において弱くありたいのです。回りくどい言い回しですね。要は自分は臆病なのです。自分が何か起こした時、自分はその責任を取れる勇気がないのです。責任を取るくらいなら一層のこと私は自分の考えを押し殺し、人の言うことを素直に聞き入れます。決して差し出がましい真似はしない。それで失敗したら、命令を下したその人物に全ての責任を負わせ、私は哀れな被害者づらを決め込む。そういう生き方が一番苦労がないのではないかと考えています。社会的な地位、男らしさ、豪胆さは自分をつけ上がらせるだけ。構築されたプライドが自分の首を絞めるだけ、そのように感じます。
人は誰しも完璧を求める存在ですが、いまだその自分の求める完璧を成し遂げたものはいないと思います。人は進化し続けていかないと生きていけない種族です。しかし一度完璧をなしてしまえばもうそれ以上の上達は見込めないことになります。その場に止まり続けるのが怖くて、人々は完璧の定義を実現不可能な領域にまで押し上げてしまっているのです。変化は嫌いでも進化は好き、人間とはどこまでも自分勝手な生き物です。
ちょっと話がずれましたね。完璧ではない人間は失敗をします。大人になるにつれ、何がいいことで何が悪いことなのか判別できるようになりますが、それでも物事が自分の思い通りにいかないこと、自分の期待や予想とは違う方向に向かうことはあります。そしてもしその物事の方向性を判断を下したのが私であった場合、私はその責任を取らなければいけません。ちょっと抽象的すぎてわかりづらいと思うので、例をあげましょう。私はおそらく自動車を運転することはないでしょう。それは万が一事故を起こしてしまった場合のことを考えてしまうからです。その際責任を追及されるのが怖いのです。多くの自動車メーカーが車による事故を防ごうと、安全性をどんどんと高めていっていますが、それでも私は安心できません。自動運転機能で、機会が運転してくれれば事故は減ると思います。しかしゼロと言い切れるでしょうか。先ほど言ったように人間は完璧ではありません。その不安定な人間が運転するよりも精密な機械が運転してもらった方が、より安全性は増すと思いますが、それでも事故が金輪際起こらなくなると思いますか。私はこの機械が不完全な人間が作った産物である時点で、その機械も不完全であると思ってしまうのです。なのでたとえ機械任せの運転でも、万が一事故を起こしてしまった場合追及されるのは運転席に座っている人間なのです。ならば私は助手席か後部座席で温々と座っていたいのです。たとえそれで運転手が事故を起こし、私が死んだとしても死してなお周りから後ろ指を指されるよりはマシだと私は考えます。
似たような理由で、自転車にも乗らないと思います。一般的な人よりもさらに身体的に不完全な自分が自転車に乗れば事故を起こす確率は上がります。そしていくら自転車とはいえ、生身の歩行者よりは強いです。この二人が事故を起こせば責任はどちらかというと自転車側に傾くでしょう。何より自転車も自動車このように事故のことを考えていてしまっては、正常に運転することもままならないでしょう。ならば私は交通機関かもしくは自分の足を使って他人から守られる、気を配られる存在、他人の優しさに漬け込んでいた方がどんなに気楽かと思ってしまうのです。
来週は社会的な弱さについてもう少し言及していきたいと思います。