死について(2)
死は生きるものにとってはどんなに抗っても避けられない運命です。生まれ変わりを信じているわけではありませんが、死ぬものがいれば生まれるものがいる。それがこの世界の道理です。死は輪廻転生における大事な要素。自分が死ななければ他の誰かが生まれてこれないかもしれない。どんな人間であっても命の値は同じ。死期が近い命と誕生を控える新たな命、それらを交換するのだと私は解釈しています。自分がずっとこの世にとどまり続ければ他の誰かが生まれてこれない。そしてその誰かは将来この世に栄光をもたらしてくれるかもしれない。そう思うと死ぬことは決して悪いことだとは思いません。
しかしこれはあくまで私の個人的な意見。多くの人は死ぬことを恐れています。なぜ死ぬのを怖がっているのでしょうか。痛いのが嫌だから? だから安楽死という手段が誕生したのでしょうか。死後が未知の領域だから? だから死後の世界、いわゆる天国や地獄というものがどんなところかを書物に記したり、絵に描いたりしたのでしょうか。孤独になるのが嫌だから? だから昔は権力のあるものが死ぬと、副葬品としてその死者が大事していたものや、彼を慕っていた人間を殺して一緒に埋葬していたんでしょうか。なぜだかわかりませんが、私自身も死を恐れています。しかし死を恐れているからと言ってもう避けれない死を前にして懸命に逃げようとは思いません。
勘違いしないで欲しいのですが、私は別に死にたいと言っているわけではありません。ただいつでも死を受け入れる準備をしています。もし私に突然の死が迫ったとしてもそれが私の人生なのだと潔く受け入れたい。カッコつけてる。自分だけいい子ぶるな。本当に死に直面した時は絶対醜く死から逃れようとする。という声もありましょう。反論する気もありません。これはあくまで私の理想なのですから。
私が死ねば誰かが悲しむ。と誰かは言うと思います。当然そのことも考えています。私は引っ込み思案で、人間関係もろくに構築できないのに、本当は寂しがり屋という面倒でわがままな性格ですが、独りではないことを知っています。家族もいるし、私をよく知るもの、私のことを友達と呼んでくれた人たちもいます。彼らは悲しむことでしょう。しかし私のことを本当に大事に思っている彼らなら私の意思を尊重してくれるのではないでしょうか。他人を信じすぎでしょうか。ですが少なくとも私はそう願いたい。私が毎日、いつ死が来てもいいように、悔いなく生活していたと知ったら、少しはその悲しみも和らぐんではないでしょうか。気がかりなのは、今まで親や親族が私を養うためにつぎ込んでくれたお金を無駄にしてしまうことです。それは謝りたい。だけどそのおかげで私は十分不自由のない暮らしを、充実した毎日を過ごさせてもらったと告げれば、無駄とはならないんじゃないんでしょうか。
まだ若いのに。と誰かは口ずさむでしょう。では若ければ死なないのでしょうか。いいえ、死は平等です。若かろうが老いていようが関係ありません。死は常に生と隣り合わせ。生きていれば死は突然、なんの前触れもなくやってきます。私はこう思います。生きている限り死からは逃れられない。だったら人々皆いつでも死に直面してもいいように、未練が残らないように“今”を生きるべきではないのでしょうか。なんか物議を醸しそうな話題ですね。
最初の段落を読んでいて、思ったのですが人口って実は制限があるのではないかと思います。ただ誕生するだけではいずれ資源が底を尽き、生物が全滅。だから生まれた分だけ殺すことでいい具合にバランスが取れているのではないかと。作為的に感じますが、それは人間のなせる技ではありません。自然の摂理に組み込まれているのかもしれません。しかしその自然の摂理を壊そうとしているのが我々人間ではないでしょうか。我々は有限ある命を窮屈に感じ、長生きしたいという思いから死から逃れようとする。結果死亡率が低下し、人口が増えた。そして今まで取れていた生態系に不均衡が生じ始めた。たくさんの生物が滅亡に追い込まれたのはこのせいではないでしょうか。随分と人間に批判的で強い言い方をしてしまいましたね。私らしくもない。ただの戯言だと思ってください。