交流
広州での私の学歴はこんなところでしょうか。この二年で私の言語ランキングは変わり、英語と日本語が飛躍的に向上、中国語は現状維持といった具合となりました。フェーズは英語は四、中国語は五と二年間で上がることはありませんでしたが、英語に関しては十分すぎるぐらい上達したとこの時は感じていたと思います。
この広州での思い出といえば、日本人たちとつるんでいたことでしょうか。インターといえどもやはり国籍が同じ同士の方が言葉も難なく通じるし、親近感が湧きます。そのため休み時間は大抵同じ国籍の人同士が集まっていました。上海時代ではそもそも学校内に日本人が数人しかいなかったためか、日本人同士で集まることはあまりありませんでした。クラスに一人も日本人がいなかったこともあってか私はよく中国人とつるんでいました。しかし広州に来てからは日本語の授業もあってか他の日本人と会う機会が多くなりました。そのため休み時間や昼ごはんは日本人同士でいることが多かったです。
やはり同じ国籍同士の方が仲良くなれるのでしょうか、私は七年生の時初めて学校の同級生を自分の家に呼んだことがありました。これまで同級生の家にお呼ばれすることはあっても自分から招くことはしませんでした。それこそ上海時代のジェームスの家に二回ほど遊びに行ったことがあります。一回は彼のバースデーパーティに、二回目はハロウィンパーティの時にと。さすがお金持ちというだけあって家も広く、こんなに頻繁にパーティができるのかと今思えば感心します。まあとはいえ私は個人的に人と付き合うことはあまり好きではないし、大勢集まる場所にいるのも好まなかったため楽しめなかったという印象があります。しかしその概念が広州に来て変わったのだと思います。学校の外でも彼らと一緒にいたいと思ったのかなと思います。まあかといって私の家は豪邸でもないしパーティも開かきません。ただ家にあるゲームで遊んだ程度です。
ゲームといえばうちには様々なテレビゲームがありました。任天堂やSONYのゲーム機、そしてゲームソフト。私は一人で遊ぶのが好きだったので一人用のゲームが多い中、いくつか複数人と遊べるソフトもありました。全て合わせて三十近くのゲームソフトがあったと思います。なぜこんなにあったのかというと、実は上海の日本人学校からずっと一緒にいた友達と遊ぶためでした。彼とは上海の日本人学校の時に知り合いました。それはつまり小学一年生の頃です。同じマンションに住んでいたのでどちらかの家で一緒に中国語の勉強をしたのを覚えています。二年生の時は離れ離れになってしまったが三年生の時に中国に戻って来てからはまた一緒に過ごすようになりました。二学期から私はインターに通い始めますが、彼はそのまま日本人学校にとどまっていました。しかし学校が違えど住んでいたマンションは同じだったので土日にはいつも一緒に遊んでいました。
小学三年生ぐらいの年頃はやはりゲームが好きです。相手の家にもゲーム機はありましたが、ソフトがうちにある方が面白いということだったのでほとんどうちで遊んでいました。だいたい土曜日の午前十時には遊びに来ていて午後五時に帰っていきました。それが日曜日もありました。つまり土日はほぼ一日中テレビを占領していました。正直他の家族がその間何をしていたのか覚えていません。小学三年生といえばあまり宿題の方も多くなかったので、さっさと済ませてあとは遊び三昧です。当時の私たちにとっては順風満帆な生活かもしれませんが、親にとっては二日間テレビを占領されてしまっているようなものなので、辛かったと思います。そんな彼は私より一年早く広州に行きました。そして一年間だけ広州の日本人学校に通うと、六年生、私が広州に来たと同時に私と一緒に同じインターに通い始めました。この広州の時も暇さえあれば遊んでいました。そしてたまに夕ご飯も共にしたりそのまま大浴場も行くほど仲が良かったです。先ほど七年生の時初めて日本人の同級生を家に呼んだと言いましたが、もちろんその中には彼もいました。その後八年生からは離れ離れになり、疎遠となってしまったいましたが連絡は取れるし、一度高校生時代に面と向かって再会したこともありました。彼は今日本の大学で勉強しています。何を目指しているのかは分かりませんが、まあまたいつでも会える時が来るだろうと思っています。それこそ今はオンラインで顔を見合わせることができるのですから。