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泉の広場  作者: 泉 ゆう
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悲愴の音

忘れないで。

きっとこれは一つの終わり。

そしてこれが一つの始まり。

どうか思い出して。

忘れないで。

 世界は音に満ちている。

 例えばそれは、隣室の赤子の泣き声だったり街路を轟かすサイレンだったり。

 時にそれは精神を蝕む毒となる。当然だ。仮に眠りに就く時間であるならば、それは騒音でしかない。迷惑極まりないと思っても仕方がないだろう。

 だが騒音と見なしたその音は、人によっては素晴らしい音楽となり得る。


 もしも、あれだけ毎日毎晩、時間を問わずに力いっぱいに泣いていた声が、翌日から全く聞こえなくなってきたら?

 例えばあなたの住居の、すぐ隣の家に炎が高々と燃えているとして、聞こえてくるのが悲鳴や野次馬の声だけだとしたら?


 きっとその時、聞こえないことこそが精神を蝕む毒となる。それでも、


「音なんて無くなっちゃえばいいのに」


 まるで呪うかのようにポツンと呟く少女。ベランダから鮮やかな夕焼けを眺めているのに、その瞳は何も映していないかのようにどこか虚ろ気だった。


 彼女には夢があった。大きなホールを埋めた観客の注目を浴びるピアニスト。音楽誌に名が大々的に掲載されて、世界中のコンサートホールからオファーが掛かる。

 ほんの数時間前に、そんな夢がやぶれたところだ。


 彼女の進む筈だった音楽大学の不合格通知をぐしゃぐしゃに丸めながら溜息を吐き出す。

 天才。神童。幼い頃からピアノを弾いていた彼女は、親や教師にそう言われて育ってきた。友人の前でピアノを弾くと憧れや尊敬を感じられて、それが彼女の矜持を刺激した。

 誰もが彼女がプロの道に進むことを疑うことはなかった。それは彼女自身も当然そうだ。見合うだけの努力をして、見合うだけの実力を手にしていると驕っていたのだろう。


「はぁ。……散歩でもしよ」


 いつもなら、何か嫌なことがあったら真っ先に思い浮かぶのはピアノのことなのだが。生憎、今はピアノから離れたくて仕方がない。

 開いたままにしていた鍵盤蓋をパタンと閉じて、西日の射す部屋を後にした。


 目的地は決めずにただぶらりと歩く。すれ違う小学生の楽しそうな笑顔。仕事帰りのサラリーマンの疲れ切った表情。集会を開いて何やら輪唱している数匹の猫。

 そのどれもが生きていて、それを冷めた目で見つめる自分はまるで死人のようだと感じられた。

 それでもマフラー越しに吐き出す白い息が。ポケットに入れた(かじか)む指先が。一歩踏み出す毎に鳴る靴音が。まだ生きているんだぞ、と嫌でも訴えかけてくる。


 そんなことを考えながら。どれだけ歩いてきたのだろう。空が藍色に染まりだした。お腹も空いたしもう帰ろうか、と振り返ったその時、彼女の耳に重苦しい和音が届いた。


「ピアノの音?」


 奏でられる楽曲はベートーヴェンのピアノソナタ。その中でも特に有名な第八番。力の限りに殴りつけてくるようなフォルテシモ。その標題は、


「『悲愴』……。なんでこんな時に。最悪」


 悪態を吐きながらも、その場から脚を動かさない彼女。この楽曲を練習中なのか、音が飛び飛びでテンポも定まっていない。音の強弱など関係なく、ひたすらにフォルテシモが続いていく。


「下手っぴじゃん。こんなんだったら私の方が……」


 そこまで呟いてハッとした。今、確かにピアノを弾きたいと思ってしまったのだ。自分の心の変化に戸惑っているうちに、ピアノは第二主題へと突入する。

 が、第一主題よりも酷い。楽曲に技量が全く追いついていない。そもそも、楽譜を読んだときや音源を聴いたときに、これは自分に演奏できるのかを考えなかったのだろうか。なぜこの楽曲を選んだのだろうか。


「イライラするなぁ」


 ポケットに突っ込んでいた手を出して腕組みに変え、仁王立ちする。

 狂ったように喚くピアノ。狂乱がようやく終わったかと思えば、また殴り付けるかのような和音。そしてまたすぐ怒鳴り散らす。めちゃくちゃだ。

 それでも一生懸命に弾いている。音楽に真正面から立ち向かって、時に不協和音を生み出してもそれすら楽しそうに。

 そんな拙いピアノの音に、彼女はいつの間にか聴き入っていた。あれだけ不快そうな表情を浮かべていたのに、「がんばれ」と心の中で声援を送ってすらいる。

 そして、おおよそ六分半にも渡る、狂ったような第一楽章が力強いフォルテシモで締めくくられた。彼女は名も知らぬ演奏家に小さく拍手を送って、


「……帰ろう」


 第二楽章が始まる前に、逃げ帰るように足早に家路へと足を運んだ。


「…………」


 部屋に戻って、ピアノ椅子に腰掛ける。羽織ったコートもマフラーもそのままに、ただじっと目の前のグランドピアノを見つめる。

 ピアノが好きだ。ピアノを弾くのが楽しい。ずっとそう思って今まで生きてきた。ずっとそう感じて演奏してきた、筈だ。

 だが、本当にそうだろうか。いつしか褒められる為に、賞賛を得る為に弾いてはいなかっただろうか。先程の支離滅裂な演奏を聴いて、彼女はわからなくなってしまっていた。


 まだ冷たい指先が、そっと鍵盤蓋を持ち上げる。現れた白と黒のコントラスト。その一つに指を掛ける。

 静かな部屋に響き渡る一音。オーケストラでも必ず演奏前に鳴る調律の音。A、すなわちラの音が空間を支配する。

 目を閉じてひたすらにその音に耳を傾ける。まるで彼女自身を調律するように。心の準備を整えるように。


「……うん」


 そして、冷めた指は音楽を刻む。

 奏でる楽曲は、ベートーヴェンのピアノソナタ第八番。その第二楽章。

 絶望の中に光を見い出すように。そっと隣に寄り添うように。歌うように。鍵盤に落ちた涙を拭うように、そっと指を這わせていく――。

 

「……ありがとうございました」


 コンクールでそうするように、演奏を終えた彼女は窓の外に深々とお辞儀をする。拍手の音は聞こえない。声援も褒め称える言葉も聞こえてこない。


 それでも、彼女の心の中は音で満ちていた。


緩やかに歌うように。

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