第58話 先生の旧友
そこは薄暗い部屋だった。そこは薄汚れた部屋だった。
昼間だと言うのにカーテンは締め切られ、床一面そこら中に紙きれが散乱している。
カーテンの隙間から漏れる陽光の先には、年期の入った作業台が一つ。それに一人の女が腰かけていた。ブラジャーのような胸バンドに、パンツのような短パンを履いた女だ。
床に散らばる国宝級の知識が詰まった紙きれを裸足で踏みつけながら、女は退屈そうに宙に浮かぶ紙と羽ペンを眺めている。溢れ落ちそうな胸を抱くようにして腕を組み、女の意思通りにスラスラ動く羽ペンは、今も尚現在進行形で国宝級に値する魔法の知識を紙に刻み続けている最中である。
そしてふいに、そのペン先が止まった。
「ふぅ。そろそろ休憩するか」
糸が切れたように宙に浮かんでいた羽ペンが作業台の上に転がり、紙は床の国宝級の紙山の一部に加わる。
右手を軽く持ち上げ指先を少し動かすと、離れた場所に置いてあったリンゴが宙に浮かび、女の手の中にスッポリと収まった。シャリっと小気味いい音を奏でながら、女は一口リンゴを頬張る。
その時、コンコンと木製の扉を叩く軽やかな音が部屋に響き、扉が開き一人の少女が部屋に入ってきた。
「失礼します、アイシャ様」
水色の髪に天色のローブを羽織った少女。見知った顔だ。
「ティファではないか。どうした? さては私のリンゴを奪いに来たのではないだろうな?」
女の軽口にティファが口を尖らせる。
「違いますよ。アイシャ様にお客様をお連れしました」
「私に客人?」
ミーティアの者ならわざわざティファが連れてくる必要はない。つまり客人と言うのは、つい2、3時間前に海を真っ二つに割り堂々と正面から侵入してきた輩のことだろう。
「あぁ、騎士王の坊やなら、私より強くなってから出直して来い、と――」
開け放たれた扉から姿を現したのは、ティファとそう歳の変わらない"蒼みがかった銀髪の少女"。瞬間、女の背筋が凍った。
「あの、お邪魔します」
女の手から食べかけのリンゴが溢れ、床に転がった。髪の色と同じ蒼銀色の瞳に、雪のように白い肌。そして薄い桃色の唇。少女と女が初対面だということは確かだ。しかし。忘れるはずがない。忘れるはずがない。女は、この少女のことを知っていた――。
「アイシャ様?」
固まる女――アイシャに、ティファが心配の眼差しを向ける。
「あ、ああ、いや何でもない。あまりにも綺麗な銀髪に不覚にも見惚れてしまっただけだ」
そう。あまりにも綺麗な銀髪に――。
「魔法以外に君が見惚れるものが存在するとは驚きだね、アイシャ」
ふぁ〜っと欠伸をしながら、部屋の暗闇から一人の男がのっそり現れた。
それを横目にティファが一言。
「……起きてらしたんですか」
「起きてたよ。もう寝るけどね」
背中まである乱れた銀髪に銀の瞳。欠伸をして開いた口から獣のような牙が覗いている。そんな狼を思わす銀色の男は、床に落ちている食べかけのリンゴを拾い上げ、一口でペロッと呑み込みながら銀髪の少女の元へ近づいていく。
「こんにちは、可愛いお嬢さん」
「こ、こんにちは……」
「僕はフェンリル。君のお名前は?」
「黒の王国出身、フィーナです」
「フィーナちゃんか。可憐な響きがある。とても君に似合っていて、すごくいい名前だ」
「ありがとうございます」
「うん。それにしても、本当に綺麗な銀髪だ。アイシャが見惚れるのも分からなくない。食べちゃいたいくらいさ」
ペロリと舌なめずりするフェンリル。本能的にフィーナは寒気を覚えた。
「気をつけて下さいフィーナ。あまりこの人とは関わらないことをおすすめします」
ティファがフェンリルに冷たい視線を注ぎなから言った。
「酷い言い草じゃないかティファちゃん。僕はただフィーナちゃんと仲良くなりたいだけなのに」
「その辺にしておけフェン、リ――ル」
アイシャがフェンリルに注意を促そうとした正にその時だった。
「なんて魔力ですか……!」
押し潰れるかのような魔力の重圧が4人を襲う。
「やってるねぇ」
フェンリルの口元が三日月に割れ、アイシャがやれやれと首を振りながらため息をつく中で、ティファとフィーナは立っているのが精一杯だった。
「収まったようだな。それで、フィーナと言ったな。私に何か用があってきたのだろう?」
「は、はい。私は今日、アイシャ様に魔法を学ぶためにここに来ました」
息を整えながら、フィーナはアイシャの質問に答える。
「魔法を、私に?」
「はい。青の王国に言った際、アイシャ様から魔法を学ぶといいと先生に言われまして」
「私に魔法を学ぶといい? ふむ。その先生の名前は何と言うんだ? この私に魔法を学べと上から言ってくるくらいだ。それはそれは大層偉大な魔法使いに違いないのだろうが」
笑ってはいるものの、とても不機嫌だということが伝わってくる。フィーナは額に冷や汗を浮かべながら続けた。
「先生はアイシャ様のことを旧友と仰っていました」
「……旧友?」
「はい。先生の名前はマーリンと言うのですが、ご存知ありませんか?」
少し間が空き、突然アイシャが笑いだした。
「これはこれは驚いた。あのマーリンが弟子を取ったのか!!」
その意味が分からないティファとフィーナ、それにフェンリルのことなど気にせず、アイシャは顎に手を当てブツブツと独り言を始める。
「だが、ありえない話ではないか。むしろ必然と言える……」
「あの、アイシャ様……?」
恐る恐るフィーナがアイシャの顔色を伺うと、アイシャは「よし!」とフィーナを見つめて――。
「いいだろう!! あの男の弟子だ、分からないことがあれば何でも聞いてくれて構わない。この【像喰の勇者】アイシャ・クラウリーが君の力となろう!」
世界最強の勇者が、そう言い放った。




