第50話 黄昏れの夕焼け
カルラとはしゃぐフィーナ。それを見て悪い笑みを浮かべるウィー。アリシアが金槌だったのは驚きだったし、なによりリヴィアが楽しそうに笑っているのを見るのは久しぶりだった。
アリシアとリヴィアに付き合っていると、後ろから水をかけられ、振り向くとそこには蒼みがかった銀髪をした少女が笑っていた。いつの間にかウィーは先に上がり、カルラの姿はどこかへ消えていて――。
夕飯はアレスと師匠が仕留めた全長3メートルはある巨魚。それをフィーナが調理する。腹を切って内蔵をとりだそうとして、その中から窒息しているカルラを見つけた。フィーナはそれを見なかったことにし、一度切った腹を黙って閉じる。それを木影で見ていたウィーが腹を抱えて笑っていて――。
俺はそんな騒がしい奴らから少し離れた場所にある浜辺で、沈み行く夕日に黄昏れていた。
まるで海に飲み込まれていくかのように消えゆく橙色の太陽は、ヴェルリムにある家から見えるモノより大きく色鮮やかに俺の目に映る。そんな景色を眺めていると、
「――隣、いい?」
と、いつの間にか近くまで来ていたアリシアが俺の返答もまたずに隣に腰を降ろした。
「私ね、海を見るのはこれが初めてなの」
「そうだったのか」
海に入る時、足先でちょんちょんしていたのは冷たさを確認するためではなく、初めての海に戸惑っていただけだったのか、と記憶を思い起こす。
「うん。私が想像していた海より、青くて大きくて、しょっぱかった」
「まぁ、塩の海だからな」
俺がそう言うと、アリシアはふふっと笑う。それにつられて俺も。
アリシアは海の匂いを胸いっぱいに吸い込み、ゆっくりと吐き出して。
「初めての海が、ヴィレンくんたちと来れて本当に良かったよ」
「そうか」
「うん」
そしてアリシアの瞳が沈みかけていく夕日を捉える。
「奇麗だね」
こういうとき、カルラなら「君のほうが綺麗だぜ」なんて、ロマンチックな台詞を吐くのだろうな。と思いながら俺はただ一言「ああ」と答えた。
✽✽
「リヴィー。兄さんを見ませんでしたか?」
水着にエプロン姿のフィーナが、蟹と戯れているリヴィアにそう問いかけた。
「ん? 見てないぞ」
「そうですか。ご飯の支度が終わったので呼びに行こうと思ったんですが……」
辺りを見回しても、黒い髪の少年の姿はどこにも見当たらない。だからフィーナはヴィレンの神器であるリヴィアなら居場所を知っているのではないかと思い、声をかけたのだ。
「そう言えば、アリシアもいないな」
リヴィアに言われ、初めてフィーナもその"異常事態"に気づいた。
「あー、シアちゃんならさっき向こうの浜辺のほうにッ――」
流石はお約束がわかっているカルラさん。最後の言葉はウィーに素早く頭部を叩かれたショックでかき消されたが、そこまで聞ければ十分だった。リヴィアは無言で立ち上がり、フィーナからは静かに冷気が迸る。
叩いた本人であるウィーは自分の額を押さえながら、ため息を一つ溢した。
✽✽
沈み行く夕日を暫く眺めていると、俺はふと晩飯のことを思い出した。フィーナは1時間くらいで準備ができると言っていたし、遅くならない内に戻ったほうが良いだろう。
「日が沈みそうだし、そろそろ戻るか」
そう言って俺は立ち上がろうとした。しかし。
「アリシア?」
右手をアリシアの手に掴まれ、俺は上がりかけていた腰をもう一度下ろす。
「ねぇ、ヴィレンくん……?」
「ん?」
違和感に気づいたのは、アリシアの声が少し変だったからだ。粘っこいというか、色っぽいというか、とにかく何か変だった。
「ごめん。私、もう我慢できない……」
「へ?」
違和感が確信に変わったのは、アリシアの頬が仄かに赤く染まっていたからだ。よく目を凝らさなければ夕日に照らされ赤くなっているのと勘違いしてしまう。
「おい、アリシア?」
徐々にアリシアが距離を詰めてくる。距離が縮まるに連れ、アリシアの呼吸が荒くなっていることにも気づく。
左肩に手を置かれ、俺はできるかぎり身体を反らすがその抵抗も虚しく、覆い被さるようしてくるアリシアに対してほぼ効果はなかった。
「お前急に、どうした……?」
目と鼻の先に、それこそお互いの息がかかる距離にアリシアの美しく整った顔がある。否が応でも俺の視線はアリシアの柔らかそうな唇と、赤い水着の隙間から覗く2つの谷の間へと吸い寄せられてしまう。
「お願い、ちょっとだけだから。動かないで」
これから何が起こるのか、アリシアは何をしようとしているのか。予想はついているが、心臓が高鳴り身体中が熱くなっていくのが分かる。
肌と肌が触れ合い、アリシアの身体の温もりを感じる。耳に当たるアリシアの髪の毛がこそばゆい。アリシアの、女の子のいい匂いがする。
そしてやっと、アリシアの唇が俺の――。
「――おいお前ら。そこでいったい何をしている?」
ビクンッと大きく肩が跳ねた。聞き覚えのある声。そして酷く冷めきった声だ。
案の定、声の先にはこちらに侮蔑の視線を投げかける白と黒の髪の少女。
「いいか、俺の話を聞け。別にやましいことは何もしてな――」
「その格好と態勢のどの辺りがやましくないんですかね、兄さん?」
フィーナから迸る冷気が地面を這い、音を立てて砂浜が凍りついていくのを視界の端に捉えた。今の今まで水着でいても少し暑いくらいの気温だったが、急激な温度差に寒気が止まらない。
「そうだよ、まだ私はヴィレンくんに何も――」
「安心しろ、未遂でも死刑だ。まずはその無駄にデカイ2つの肉塊から切除してやろう」
アリシアの発言もリヴィアに遮られ、2人が冷たい笑顔でひたひたと距離を詰めてくる。
「よ、よく見ろフィーナ!!」
俺は右の首筋を2人に見せるようにしてそう言った。すると2人はようやくソレに気づいたようで、
「血、?」
そう、俺の首筋にあるのは2つの傷跡。しかもソレは今さっきできたもので、極々少量の血が流れているはずだ。だってアリシアの歯が刺さる感触がしたし。
2人は首筋の傷とアリシアの顔を怪訝な表情で見つめている。
ここで後は「カルラ達も待ってるだろうし、戻ろうぜ」なんてふうに話を変えやれば、2人も渋々頷いてくれたに違いない。
しかしここで余計な一言を付け足すのがアリシア・ツェペシュである。
「2人とも心配しすぎだよ。私だって抜け駆けみたいなことをするつもりは無いんだしさ」
悪気のない無垢な笑顔のアリシアと、それを見つめる――いや睨むフィーナとリヴィア。俺は無言でこめかみを押さえた。
「おいおい聞いたかフィーナ? 抜けがけをするつもりはない? 冗談もここまできたら――笑えんぞ」
「忘れてたとは言わせません。直接兄さんから血を吸うことは駄目だと、最初に言いましたよねアリシアさん」
だめだ我慢しろ俺。ここでため息をついてはいけない。
「だ、だって。だってだよ? お腹が空いてたんだもん仕方な――」
「なくない!」「なくありません!」
うッと言葉に詰まるアリシア。
「た、たまには温ったかい血を飲んでみたかったの! 抜きたて新鮮なヴィレンくんの血が!!」
やめろその採れたて新鮮な野菜みたいな例え。
唇をギュッと引き結び今にも泣き出しそうなアリシアを見て、なんだか俺自身も悪いことをしているのにアリシアだけ怒られているような、そんな気さえしてきた。
「あんまりイジメてやるなよ、可哀そ……」
だが、そんな俺の良心は木っ端微塵に砕かれる。
「兄さんは黙っていてください!」「お前は黙っていろ!」
「は、はい」
フィーナとリヴィアの視線が再びアリシアへと注がれ、
「これは少し教育が必要なようだな」
「そうですね。少しで足りればいいんですけれど」
息のあった2人に、アリシアは両腕を拘束されズルズルと砂浜を引きずられていった。
「ちょっ、ちょっと待って! ごめんなさい私が悪かったから、もう直接飲んだりしないから! ヴィレンくん助けて!!」
悲痛なアリシアの悲鳴が響きわたるが、俺にはどうすることもできない。
すまんアリシアと心の中で呟いた後、ふと上を見上げると、
「こりゃ、ひと雨来そうだな」
空に灰色の雲が流れて来ていた。
塩の香りに紛れ、魚の焼けた香ばしい匂いが空腹を刺激する。
俺は立ち上がり水着についた砂を手で叩き、歩き出した。
そしてその日の夜、雨が降った。




