第171話 エメの指輪
どちゃっ、と音を立てヴィレンのすぐ脇、床に何かが飛来した。
「うっ……」苦痛に喘ぐのは翡翠色の翼を生やす天使である。
「ラファエルッ!?」
ヴィレンはすぐさまラファエルに駆け寄ると、その傷だらけの身体を抱き起こす。べちゃり、と右手に嫌なぬめりを感じた。右手が真っ赤に染まっている。
「………おい、しっかりしろ、ラファエル!!」
ヴィレンは顔をしかめた。よくよく見れば悲惨なもので、身体が傷だらけなのは去ることながら、ラファエルの服のあちこちが欠損している。右肘から先と左太ももから下の服は破れ、素足素腕が覗いている。
ラファエルがラフリスだった頃、彼女が得意とした魔法は治癒系統の魔法だ。服が破れているのはこの戦闘中にラファエルが欠損した手足を修復しながら戦っていた証拠である。
それほど激しい戦闘が、ヴィレンとカルラとは別に繰り広げられていたのだ。
「―――ッ!!」
金属の甲高い衝突音。ヴィレンが振り返ると、カルラと朱色の天使ミカエルが相対していた。
「ウリエルは破れたのですか。彼は能力に頼る癖がある、すこし心配してはいたのですが」
「へっ、なんだなんだ相棒が殺られて悲しいってか? ふざけんな。てめぇらが奪った命の数にゃちっとも比例してねえんだよ!!」
「……カルラ!」
応戦に向かいたい気持ちとラファエルを一人にしてはいけない気持ちが重なり、結果後者が勝った。
「すみません……私には、ミカエルを倒すことはできませんでした」
息が荒れ、苦しそうに息をするラファエルが苦い顔をする。
ヴィレンの胸元を握りしめ、ラファエルは言う。
「お願いです。ミカエルを、止めてください。グランド・クロスが始まれば手遅れになってしまう。その前に、彼を打ってください……!」
「ああ、わかった。わかったから、もう休め……」
ヴィレンはラファエルの手に自らの手を添える。後は任せろと。
ラファエルの身体が粒子となり消滅を始める。
最後の力を振り絞り、ラファエルは唇をヴィレンの唇に重ねた。途端、ヴィレンの顔が染まるよりも早く、ヴィレンの傷が癒え魔力が回復していく。
「私にできることはこれくらいです。どうか―――」
その言葉を残し、ラファエルは他の天使達と同じように光の粒子となり消滅した。
「ああ、任せろ」
散りゆく粒子の欠片を掴み、ヴィレンは小さく呟いた。
だが感傷に浸っているひまはない。膝立ちとなりミカエルとカルラの戦況を視認する。
❦
ミカエルの力は絶対的すぎた。
それはひと目見たときからわかっていた事実である。
カルラ・カーターは決して弱くない。昔ポカをやらかしてしまったせいで全盛期程の力はないにせよ、それでも充分今の世界で通用する実力を備えている。
そんなカルラが鍔迫り合いに持ち込むことすら許されない。圧倒的な力の差を前に、赤子の如くカルラは軽くあしらわれる。
ミカエルの一薙でカルラはダンジョンの壁に激しく音を立て衝突した。
「………ぐ、ハッ!?」
今の一撃で肋骨が砕けた。肺の空気が全て抜け、吐き気とともに大量の血を吹き出し、カルラは悶えた。
痛覚もとい触覚が消失しているにせよ、他に残っている感覚も存在する。呼吸ができない"苦しさ"なんかもその内の1つに含まれる。
動けずにいるカルラの身体を、すかさず3本の矢が射抜いた。
「《聖弓》エリクサー」
ミカエルの放った矢が左肩と右胸、そして左脇腹に深く突き刺さった。
「……ッ、んだこれ、抜けねぇ……ッ!!」
穿たれた矢を引き抜こうとするも、ピクリとも動かない。身体の力が抜けていく。魔力が吸われている。
「君はそこで見ていてください」
ミカエルの瞳がカルラを外れ、黒髪の少年に向けられる。
「破壊神の器が壊れる様を」
ヴィレンがゆっくりとカルラに向かって歩み寄る。
ハハ、とカルラは乾いた笑みを浮かべ、
「レンレン悪ぃ、ちとヘボった。コレ抜いてくんねぇか、俺じゃ抜けなくてよ……」
「………」
だがヴィレンは口を開かない。
「レン、レン……?」
無言のまま歩みを進めるヴィレンが、ポケットから黒い宝石の飾られた指輪を取り出した。
「なぁカルラ、フィーナは俺の大切な妹だ。あの子は強い。けどほんとは寂しがりな奴なんだ。だからお前が、あの子を隣で支えてやってくれ」
「ハハ、なんだよそれ。その言い方だとアレだぜ? まるでフィーナちゃんと俺のハッピーエンドを応援してくれるって意味で捉えちゃうぜ俺」
「ああ、そう言ったんだよ」
「………」
「お前にならフィーナを任せられる」
「……なんだよ。レンレンらしくねぇなぁ。そんなこと言っちゃうと、えっちなことしちゃうぜ、いいのか?」
ヴィレンは少し考え「あー、まぁほどほどにな」不器用に笑った。
それから黒い指輪をカルラに向け、放る。
「待てヴィレン、何するつもりだ……」
黒い指輪が弧を描くように宙を舞い、カルラ目がけて落下する。
「待てよ、待てって言ってんだろバカ野――――」
指輪がカルラに接触した瞬間、カルラは闇に飲まれた。
「お前に出会えて本当に良かったよ。ありがとな、親友―――」
視界が闇に飲まれる最後、そんな言葉をカルラは聞いた気がした。
穴に落ちたかのような浮遊感の直後、ドスンと地に尻がつく。暗闇に光が指したかと思うと、大草原にカルラの身体は投げ出された。
「カルラさん……!?」
声の指す方向、銀髪の少女がカルラに駆け寄ってくる。
その手をカルラは払った。フィーナが顔を悲しげに歪める。けれどカルラは止まれない。視界の奥にそびえるダンジョンへ向かおうと矢の刺さった身体を酷使するも、足がもつれ前かがみに転倒する。
「……ふざけんな、あのバカ」
手短にある雑草を握りしめ、カルラは腹の底から声を絞り出した。
「死ぬ気かよ、ヴィレン……ッ!!」