第165話 壊れた心
魔王の死亡。勇者の犠牲。魔王軍幹部の悲報。
首都ヴェルリムの壊滅と大幅な戦力喪失に、黒の王国中が不安と動揺の渦の中にあった。
1日で2人の天使を打倒した。この事実は大きい。人類にとってかなりの前進。希望だった。
しかし、代わりに失った者もまた大きい。
魔王バロルと騎士王ザイン。そして鮮血の勇者アリシア・ツェペシュ。
天使を打倒するために支払った犠牲は大きすぎた。
特に関わりがあった者達にとっては尚更。
「「………」」
場所はヴィレン家ダイニング。
ヴィレンの家は初めの奇襲、アリシアとフィーナの咄嗟の機転で難なく被害を抑えられた。と言っても無事なのは一階だけだが。
フィーナとウィーとカルラの3人が、黙ってダイニングのテーブルを囲んでいた。
重々しい空気の中で、フィーナが立ち上がった。
「やっぱりわたし、行ってきます……!」
しかし咄嗟にフィーナの手を掴んだカルラが小さく首を横に振った。
「フィーナちゃん。今は1人にしてやるのがアイツのためだ」
ぐっと唇を噛みしめるフィーナ。
でも!とフィーナが言いかけ、今度はウィーが口を開いた。
「カルラさんの言うとおりっす。今はそっとしとくのが優しさっすよ」
それに、とカルラが続ける。
「今のアイツを支えてやれるのは、リヴィアちゃんだけだ」
先ほど出ていった少女の名を、カルラは告げた。
❦
人の心は素石だと――は思う。
河原に転がる、どこにでもある荒石。
けれど同じ形の石は存在しない。
石は人間関係やストレスで削れ、己を鍛えることで磨かれていく。
そうした数多の削る磨くの工程を経て、石の形は変わってしまう。
硬い石もあれば脆い石もある。
突出した尖った石になるのか、ゴツゴツと無骨な石になるのか、それともどこにでもあるような平凡な丸い石になり果てるのか。
全てはその人次第。石は簡単なことで擦り減り摩耗するのだから。
人の心は繊細だ。
壊すのも壊れるのも簡単だ。
だから稀に石に亀裂が入ることもある。一生消えない傷が刻まれることもある。
それは大事な者を失ったとき。失恋したとき。友達と喧嘩したときだったり。
原因は様々だ。
そうして石は形を変えていく。
そうして人は成長していく。
―――けれど。
あまりに大きな亀裂が入ったき。修復不可能な深手を負ったとき。ダメージの蓄積が許容量を超えたとき。
石は砕けてしまう。
心が壊れてしまう。
そんなケースも稀に存在するということを、心の隅に置いておいて欲しい――。
魔人区画の裏山。かつては枯れた黒木の密林だった林も、先の奇襲で粉々に砕けている。
密林を抜けた先の広い丘。丘の天辺に立つ唯一生き残っていた黒木も同じく、幹が割れ枝が弾け倒木していた。
その丘に一人、ヴィレンは腰を降ろし、ぼーっと何かを眺めていた。
「……」
何を眺めているのか、ヴィレンにもわからない。
何も考えられない。何も考えたくない。
今はただ、そう、ただ感傷に触れたくなかった。
ザインが死んだ。アリシアが死んだ。
でも実感が湧かない。悪い夢を見ているみたいだ。
だからここにいる。
ここにいれば。この場所にいれば。彼女はまた自分の元に来てくれるんじゃないか。
ひょっこり現われて、隣にちょこんと座ってくるのではないか。
そう、あの夜みたいに。
「―――やはり、ここにいたのか」
ヴィレンの肩が震えた。
バッと振り向いた先にいたのは、
「……リ、ヴィア」
アリシアではなく、リヴィアだった。
体勢を戻し、ヴィレンは再び街を見降ろした。
少しして、ヴィレンとは反対を向き、ヴィレンの後ろにリヴィアは座る。
「「………」」
しばし沈黙が続いた。
先に口を開いたのは、ヴィレンの方だった。
「なぁリヴィア。俺はどうすれば良かった?」
「………」
「師匠の言うことに背いてでも、俺は師匠を止めればよかったのか?
安全だと思ってアリシアをヴェルリムに置いて行かず、俺はアリシアを連れて行けば良かったのか?」
「………」
「俺には、もう、わからねぇ……。何が正解で何が間違いだったかなんて……」
あの時ああすれば良かった、こうすれば良かったなんて、そんなの後になってみなければ誰にもわからない。
最善だと思った選択が最悪の結末を生むこともあれば、最悪だと思った選択が最善になることも有り得る。
ザインは己の闘争のままに最強に挑み勝利して散った。それがザインの望みだった。他にも思惑があったのかもしれない。それでもザインは最後、満足していた。ヴィレンには止めることができなかった。
本人が後悔していないことを、ヴィレンは後悔したくない。
けれどアリシアは別だ。
ヴィレンが選択を間違っていなければ……。
敵の根城に連れて行くより、ヴェルリムにいた方が安全だと思った。だからヴィレンとカルラはアリシアとフィーナをヴェルリムに残した。
大切だから。大事な存在だから。どうしても守りたかった。彼女達には、死んでほしくなかったから。
その選択が裏目に出た。
もしもあの時ああすれば、なんて。
今考えても意味などない。わかってる。けど。それでも考えられずにはいられない。
「俺は弱ぇ……。フィーナのときもそうだ。心が、保たねぇ……」
限界だった。
ヴィレンの石は割れてしまったのだから。
ヴィレンの心はもう、折れてしまったのだから。
アリシア・ツェペシュという少女の悲報は、ヴィレンにとってそれだけ大きな傷を残した。
「もう嫌だ。大切な奴を失うのは、もう嫌なんだ……」
ヴィレンはもうダメだった。
育ての親と結婚したばかりの嫁を失って、どうにかしない方がどうにかしている。
そこまでヴィレンは、強くない。
心の底から漏れた本音と弱音に、リヴィアは静かに答えた。
「ならいっそのこと、逃げてしまおうか」
リヴィアはヴィレンの背中に寄りかかる。リヴィアの温もりが、服を通してヴィレンに伝わっていく。
「たしかここから東方に、魔人種が暮らす平穏な村があったはずだ」
「………」
「緑の森の南方は樹海となっている。迷路のように入り組んだ密林には誰も近づかないと言っていた」
「………」
「海でもいいな。探せば無人島の1つや2つ、すぐ見つかるだろう。なんせ海は広いからな」
「………なぁ……」
「フィーナを連れ3人で。カルラの奴も連れて行ってもいい。誰にも見つからない場所まで逃げてしまおう。天使や勇者、世界のことなど投げ出して、のんびり暮らすのも存外悪くはない」
「……リヴィア?」
いつもの彼女とはどこか様子が違う。
ヴィレンに体重を預け、空を見上げるリヴィアの顔は、ヴィレンからは見えない。
「私はおまえに、1つだけ嘘をついていたことがある」
空を見上げながら、リヴィアは告白した。
「第一眷属オシリス。第二眷属アヌビス。第三眷属タナトス。第四眷属ペルセフォネ。第五眷属カーリー。第六眷属イシス。第七眷属ハデス。第八眷属パールヴァティー。第九眷属ネフティス。それから第十眷属シヴァ」
リヴィアが口にしたのは、自らの眷属の名だった。
かつてリヴィアと共に戦った、仲間の名だった。
「《冥界を徘徊せし終影》は冥界にいる眷属の影を現実に召喚する技ではない。死した者を冥界から召喚する技だ」
リヴィアが何を口にしようとしているのか。何をヴィレンに伝えようとしているのか。
ヴィレンは理解した。
「私の眷属は皆、すでに死んでいる」
どこか寂しそうな声で。消え入りそうな声音で。自らの過ちを告白した。
「全てを賭け、私は全てを失った。失った後になってようやく気づいた。私にとって何が大切だったのか。敗北よりも優先すべきことがあったことに」
「私の人生は後悔の連続だ」と言ってリヴィアは苦笑する。
彼女はいつもヴィレンに後悔しない選択をして欲しいと訴えていた。
あれだけ必死になっていた理由が、今ようやくわかった。
リヴィアも後悔していたんだ。
自らの過ちに。
自らの選択に。
だが。リヴィアの発した次の言葉に、リヴィアの全てが積まっていた。
「―――そう。おまえと出会うまではな」
ヴィレンの心臓が大きく脈打つ。
振り向くと、リヴィアもヴィレンを見つめていた。
吸い込まれそうなほど美しい黒紫の瞳が、ヴィレンを見つめていた。
今だけは全てを忘れて、その瞳に魅入る。後悔も、何もかもを置き去りにして。
濃密なほど色濃い空気が、互いに浸透し溶け合い受け入れ合う。
吐息が近い。身体が熱い。
ゆっくりと近づくリヴィアの顔。
そっと、柔らかなものがヴィレンの唇に触れた。
「私はおまえが好きだよ」
世界中から音が消える。次いでリヴィアとヴィレン以外の色が褪せる。
「ずっとわからなかった。この気持ちが何なのか。胸のあたりを締め付けて止まぬコレが何なのか」
「でも。今ならわかる。これが"人を愛する"という感情なんだな」
「おまえと出会えて私は救われた。だから今度は、私がおまえを救う番だ」
「おまえが逃げたいというのであれば、おまえと共に地の果てまで逃げてやる。
おまえが戦うというのであれば、おまえの剣となり一緒に戦ってやる」
「おまえが決めた答えなら、私は後悔しない」
「私だけはおまえの側にずっと一緒にいてやる」
ヴィレンの頬を一滴の雫が伝った。
今まで我慢していた想いが、雫となり溢れだす。込み上げてくる。
アリシアを失い、心に被せていた蓋が、崩壊する。
「うっ、ぐ………ぅ、ぁ……っ」
みっともなく、ヴィレンは好きな女の前で泣き出した。
リヴィアは黙ったままヴィレンを抱きしめた。ヴィレンが泣き止むまでずっとずっと、抱きしめ続けた。