第163話 千の剣
朦朧とする意識。身体が重い。手足が冷たい。寒い………寒い。
それもそのはず。先程ガブリエルに身体を串刺しにされ、アリシアの身体の中からその半分以上の血液が失われていた。
「………ぅッ」
通常ならば既に死んでいる。だがそれでもまだアリシアが生きていられるのは神器を開放したせいだ。
鬼神エリニュスの能力によってアリシアは命を繋げられている。
しかし、それにも限度がある。すぐに限界は訪れる。
薄れる視界の中で、アリシアは見つけた。
目の前に転がる水筒を。
「…………ぁ」
それは数日前、ヴェルリムを離れダンジョンに向かったヴィレンがアリシアへと渡したモノだ。
計7日分。水筒に入った血液がボタボタと地面に飲まれて行く。ガブリエルの棘が、アリシアと一緒に水筒をも串刺しにしたのだ。
アリシアは少しづつ身体をくねらせながら地を這った。水筒の手前まで来ると、そのまま口を水筒に近づけ、一口舐める。
「――――!」
途端。溢れ出る活力。湧き上がる力。
アリシアはヴィレンの血を1滴残らず飲み干した。
「………ふぅ」
完全修復、なんて都合良くはない。ただ少しだけ、身体が軽くなっただけだ。
この溢れ出る力はドーピングと変わらない。痛み止めと言ってもいい。効果は一時的なもの。
数分……いや1度きりしか保たない。
十分だ。
チャンスは一度きり。それに賭ける。
アリシアは空を見上げた。
暗い闇が晴れてきている。太陽が登ろうとしているのだ。
「終わりだ! 精霊遊戯《水霊千遊子》!!」
再度出現する無邪鬼な悪夢。
全方位から迫り来る笑顔の処刑人。地獄絵図。まさに絶望そのモノだった。
バロル達の心が折れる中、アリシアだけは冷静に状況を把握していた。
ここぞと言うときに使うと決めた最後の悪足掻き。父がガブリエルに殺された瞬間も、アリシアはぐっと堪え我慢した。
今がその時だ。殺した存在としてガブリエルに忘れられている今が。アリシアだけがこの状況を打開できる唯一の存在なのだ。
「ごめんなさい」
アリシアは謝罪を口にした。ガブリエルの手にかけられた、幾万の屍達へ。
届いているかわからない。届いているはずなどない。
それでもアリシアは祈り、彼らに語りかけた。
「わたしに力を、貸してください……!!」
幾万の屍達の死骸から、アリシアは一滴ずつ血を借りた。
猫人種の家族。
悪魔種の兄弟。
吸血鬼種の貴婦人。
それから魔人種の人々。
ヴェルリム中の人々から一滴ずつ。血を借りる。
たった一滴。されど塵も積もれば山となり、集められた数万滴の血液は。
その全てが混じり合い、血の剣を形どっていく。
千の悪夢を晴らす、千の同胞の剣。
「―――死血千剣《鮮血乱舞》」
エリニュスの、鬼神の能力を最大限発揮する。
自らに残された力と魔力の全てを、今ここに開放する。
己の全てを賭けた、アリシア最後の必殺。
千の剣が、千の悪魔を貫いた。
「「―――――!?」」
それぞれに断末魔をあげ、身体が水に還る悪魔達。
鬼神の権能が悪魔達に再生を許さない。尽くを侵食し貪り殺す。
その光景に、一同は唖然とした。
何が起こったのか、視線がアリシアに注がれた。
ガブリエルは笑う。
「しぶといなぁ。まだ生きてたんだエリニュス」
アリシアに向けた掌から生まれる水の塊。
「もう死んじゃいなよ♪」
槍と化した水が、ガブリエルの掌から勢い良く発射された。
「…………」
もはやアリシアには、ガブリエルの攻撃を避けるだけの力も残っていなかった。
ぼんやりと、迫る水槍を見つめて、呟いた。
「あーあ。こんなことになるんだったら、もっとヴィレンくんの血を飲んでおけば良かったよね」
瞼を閉じ、アリシアは微笑んだ。
直後、鮮血が舞った。
びちゃびちゃと音を立て溢れる赤、緋、紅―――。
瞳を開けたアリシアの目の前には、水槍に穿たれた背中があった。
白地の貴服に真っ赤な血が滲んでいく。
「ウラド……さん?」
水槍からアリシアを庇ったのは、ウラドだった。
「どう、して……?」
アリシアに背中を向けたまま、振り返ることもなく、ウラドは口を開く。
「さて、どうしてだろうな。我にもわからぬ。身体が動いていた、という奴だ」
ごふっと咳込みながらも、ウラドは続けた。
「貴様の父と我とは幼い頃からの腐れ縁だ。今さら奴を許してやれとは言わぬ。だがこれだけは覚えておけ娘。
奴は……アルキュラは貴様を愛していた。我といるときはいつも、アルキュラは、貴様のことを………話して―――」
ドドドッとアルキュラの身体が歪曲し、衝撃でアリシアの後方へと吹き飛んだ。
「………ぁ」
力なく地に転がるアルキュラは、もう二度と動くことはなかった。
「僕の邪魔するなよ。むかつくなぁ、ほんとに」
不機嫌そうなガブリエルが、掌の照準をアリシアに合わせた。
―――今度こそ、終わりだ。
ガブリエルの瞳はアリシアしか捉えていない。アリシアの内に住むエリニュスを見据えていた。
全ては己が主のために。唯一神のために―――。
その純粋無垢な想いが、ガブリエルの反応を鈍らせていた。
「今こそ器を器足りえんとする時成り。汝の器足るこの我に、汝が"大地の理"を―――」
もはや止められない。間に合わない。ガブリエルが気づいたときには。
バロルの詠唱が、主神の神名を紡いだ。
「"重理"を司りし汝が名は、ガイア・ディア・ラディウス」