第162話 鬼の心
アリシアを捨てた。そう、捨てたのだ。
アリシアはアルキュラが初めて授かった娘だった。上には兄が2人いる、はずだった。
長男はアルキュラがその手で殺した。2人目は才能に恵まれず、選別に回され帰ってこなかった。
2人ともアルキュラが殺した。殺したのだ。
それが掟だから。
鬼の決まりだから。
そうしなくてはならないから。
だから。
だから………。
だから―――。
心を殺し、アルキュラは2人の息子を殺した。
だからアリシアが生まれた瞬間、アルキュラは絶望した。
彼女にも才能がなかった。
頭脳も体力も剣才も。血の操りからすらままならない。
このままでは、アリシアも選別に回される。
だから。アルキュラはアリシアを鍛えた。
鍛えて鍛えて鍛えて鍛えて鍛えた。
自らが持つ知識を。戦術を。叩き込んだ。泣きながら嫌がる娘に対し強制的に。全ては娘のために。娘を選別に回さなくて済むために。
………いや違う。言い訳だ。全ては己自身のために。もうこれ以上、愛しい子ども達を殺さなくて済むように―――。
だがそんな願いも叶わず、アリシアは10歳の誕生日を迎えた。
どれだけ鍛え上げようと、彼女は凡才の域を越えられなかったのだ。
その日、アルキュラはアリシアを捨てた。
次男と同じように選別に回した。
何故ならアリシアは非凡だったから。御三家に生まれた以上、その子どもは次代の吸血鬼種を先導する義務がある。責任がある。
だから。だから。だから――――ッ。
「なにが、"だから"だ―――ッ!?」
彼の心境はいかほどだったのだろう。
残虐公などと呼ばれ恐れられた彼の心の内はどうだったのだろう。
残虐公と呼ばれた彼にも人の心があったのに。
他の親と変わらぬ子を思う感情があったのに。
鉄仮面の下はボロボロで。鋼の心はグチャグチャになっていた。
だが、アリシアは生きて帰ってきた。
アルキュラの前にもう一度現れた。
始祖の鬼血に適合したのだと。
選別に受かったのだと。
「アリシ、ア………」
動揺を隠せないアルキュラの前で、アリシアは震えていた。
やせ細り、目元にクマを浮かべた娘は泣いていた。
無事帰ってきた娘が一番最初に発した言葉を、アルキュラは生涯忘れないだろう。
「す、すみませんお父様。どうか生きて帰ってきたわたしをお許しください……」
娘の教育を恐怖で支配してきた、アルキュラとアリシアの間に生まれた絶対的な溝だった。
「―――精霊遊戯《九善八悪》」
縦横無尽にしなる水の鞭。それでもアルキュラは、身体に穴が開くことなど構わず疾駆した。
「ウ……グ、ヲォォォォォオオオオッ!!」
止まれない。
――止まるな。
殺せない。
――曝け出せ。
込み上げる。
――怒りが。沸々と。煮え滾る。
嗚呼そうだ。この感情は! この怒りだけは! 止めてはならない!!
目の前で娘を殺され、黙っていられる親がいてなるものか!?
娘の死を笑うこの悪魔を許してなるものか!?
―――否。許していいはずがない!!
「ガブリエルウウウッッ!!」
怒号とともにアルキュラはガブリエルの胸を串刺しにした。
「………くっ、はぁ、はぁ、はぁ」
荒い呼吸。酸素を肺に取り込もうとヤッケになっているアルキュラは、胸に軽度の圧迫感を感じた。
見ればアルキュラの胸にガブリエルの小さな掌が添えられていて。
ガブリエルの口の端が、ニタリと持ち上がった。
「―――精霊遊戯《水掌圧迫》」
水の衝撃がアルキュラを貫通する。
「ウッ……ンブッ――――」
衝撃により内蔵の尽くが粉砕され破裂する。もはや立つことも叶わず、アルキュラは大量の吐血とともに膝から崩れ落ちた。
「あは。あはは♪」
鼓膜に響く、耳障りな笑い声。
「ぬ、ぅ………!!」
しかし、身体はもう言うことを効かない。立ち上がることすらできない。既にアルキュラの身体は限界を超えていた。半ば死を迎え入れていた。
「ここまで、か……」
ここまでなのか――。
「そう、ここまでだよ。どんなに足掻いたところで、結局君の牙は僕には届かなかった。無駄死にご苦労様♪」
ガブリエルの笑い声が遠退いていく。アルキュラの意識は落ちていく。
結局娘の敵討ちはできなかった。自らの手では果たせなかった。
なんとも。これ以上ない屈辱だ。
だが、それでいい。これでいい。
意識が深淵へと落ちる寸前、アルキュラの頬肉が緩む。
「後は任せたぞ。ウラ、ド………」
それがアルキュラ・ツェペシュの最後だった。
残虐公と呼ばれた男の死に様だった。
「フハハハハハハッ!!」
高らかな笑い声が廃墟に響く。
「無意味なものか? よくやったアルキュラ。後は任せて先に逝け。貴様の想いは我等が継ごう!!」
振り返ったガブリエルが、微かに目を見開いた。
「―――汝、器の主足る我が欲し求め願い給う」
ガブリエルは気づかなかった。否、気づけなかった。
ウラドの背後で、人知れず高まる魔力に。
「神言霊……まさか!?」
バロルに纏わり付く黒い魔力。負の闘気。
ガブリエルはハッとなり、満足気な死に顔を浮かべる足元の吸血鬼を睨みつけた。
「捨て駒……時間稼ぎだったのか!?」
全てはこのために。次へと継ぐために。
「大地に宿りし地の力。星に巡りし重の理。引の斧、斥の槍。地に歌い星の声を聞け。万物に重さを定義せし我が主神よ!」
バロルの詠唱が終わりへと足を踏み出す。それに比例し魔力も高まりを増した。
「させないよ!」
両手を開放し、ガブリエルは膨大な魔力を開放する。
「精霊遊戯《水霊千遊子》!!」
再び現れる千の幼い死神達。ウラドとバロルを取り囲み、悪魔の笑顔がひしめき合う。
「さぁ、今度こそ終わりにしよう! 遊びはここまでだっ!!」
逃げ場などどこにもない。いや最初からなかった。
フィーナが絶句する。ウラドが目を見開き、バロルは歯を噛み締めた。
目の前にあるのは絶望だ。ただただひたすらに絶望だけ。
心が折れない奴がどうかしている。志がブレない奴の方がおかしい。現にあの魔王でさえ揺れている。
誰もが諦めかけた。そう、ただ1人を除いて。
この場に存在する彼女だけが、まだ抗うことを諦めていなかった。
「―――狂い咲け《鮮血乱舞》」