第161話 血棘と水棘
重い瞼を開くと、目の前には曇天の空が広がっていた。
「……うっ」
幾度目かの、顔面に砂屑が当たる感触で、フィーナは目を覚ました。
「私は―――ッ、痛……」
突然の激痛に顔をしかめる。左肩が痛い。ものすごく痛い。折れたか、あるいは脱臼している可能性もある。
無論ダメージは肩だけではなく、脇腹、太腿にも無数の擦り傷があった。
いったい何が……と、フィーナの記憶が蘇る。
ガブリエルとの遭遇。戦闘。それから爆発に巻き込まれて―――。
「そうでした……皆さんはっ―――きゃ!?」
砂煙の中から何か巨大な塊がフィーナの真横に直撃した。咄嗟に喉から漏れたフィーナの小鳥のような悲鳴は、その破砕音、否衝撃音に打ち消された。
「―――ガっ、うぐぁ……!!」
飛来した物体の正体は、黒い毛皮と2本の双角を宿した悪魔だった。
「……バロル・バルツァーク様!?」
「くッ……目覚めたのか、永久の妹よ……」
見ればバロルの右腕はブランと垂れており、太腿には裂傷が奔る。フィーナとは比べものにならないレベルの重症だった。
バロルは杖代わりに槍斧を地面に突き立て立ち上がる。食いしばった歯からギリリッと音が鳴った。
これ程の重症を負ってもまだ動けるのは、単に種族としての性能だけではない。
鍛え上げられた肉体。豊富な戦闘経験。魔王としての矜持。
バロルは神器で自らの重力を操り、強引に身体を酷使しているのだ。
「お待ちください。すぐに治癒魔法を……!!」
悲惨な傷跡にフィーナはすかさず治癒魔法を行使する。全快は無理にせよせめて出血だけでも、と。
「もう大丈夫だ。礼を言う」
出血が止まるや否やバロルはそう言った。少しでも早く前線に加わるためだ。
前線へ踏み出そうとしたバロルの足が、ふいに止まる。
バロルは空を見上げた。
今にも降り出しそうな曇天の空を。
「永久の妹よ、ひとつ頼みがある」
「頼み、ですか?」
「其方の氷華で〝雨〟を止めてはくれぬか?」
「檻ではなくて、雨ですか……?」
フィーナはバロルの言葉の意味を、正しく理解することができなかった。
見上げた空は曇っているが、別段今この場に雨は降っていない。
それよりも、ヴェルリムを囲う水の檻の方が余程脅威に思えるがしかし。
「そう、雨だ」
バロルは繰り返す。
そしてその時。曇天の空からひと粒の雫が落ちた。
「今は我が抑えているが、そのせいで我の能力が半減されている」
何を言われたのか、フィーナは一瞬固まった。そしてその直後、空からこぼれ落ちた雫がフィーナのすぐ側に落下した。
息を呑む。雫が落ちた場所に穴が開いていた。凝固した思考が、次第に溶解していく。理解し、そして戦慄した。
「まさか、今までずっと……?」
最初にガブリエルが仕掛けた雨の奇襲。10数秒に及ぶ無慈悲な殺戮。
フィーナは勘違いしていた。あの雨は10数秒間のみで止んだのではない。10数秒後にバロルが止めたのだ。現在進行形で。バロルが空を抑えているおかげで。雨は止んでいるのだ。
しかし魔王と言えど。いくら勇者と言えど。空を支配するには莫大な魔力を消費し消耗するだろう。
そんな負荷を背負いながらバロルは戦っているのだ。
「頼めるか?」
ソレはいったいどれほどの負担なのだろう。フィーナにはわからない。ただその負担を軽減もしくは削減できれば。バロルが本来の力を、本気を出せれば………。
「やってみます……いえ。やってみせます!!」
「頼んだぞ、永久の……いや。フィーナよ」
バロルはそう言い残し前線に駆けていった。
その際バロルの口元が緩むのをフィーナはその目に捉えていた。
この時フィーナは気づいていなかった。
この戦いはバロル・バルツァーク1人が敗北した時点で終わりなのだということを。
空に溜まった雨粒の数は数億を超える。それが一気に降り落ちれば、今度こそヴェルリムは跡形もなく滅び去るのだということを―――。
❦
瞳に意識を集中すれば、全てが見て読み取れる。
右から左。左から右。
ガブリエルが次にしようとしている身体の動きが、手に取るようにわかる。
血管の収縮。筋肉の撓り。骨髄の動作。アリシアの目にはガブリエルの皮膚から下が透けて見えていた。
「はぁぁぁぁあ!!!」
微細な変動から次の攻撃の予測を立て回避。あるいはカウンターを叩き込む。
身体が戦い方を知っている。神器の扱い方を知っている。
アリシアの血剣がガブリエルの左腕を切り裂いた。
「くっ………!?」
ガブリエルの肉体は、ダメージを受けた箇所が水となり分裂していた。だからこれまで一切のダメージを与えられなかった。
普通の攻撃ではガブリエルに傷一つつけられない。
しかし今のアリシアは別だ。神器の力を開放したアリシアの攻撃。即ち始祖の神血がガブリエルの分裂を許さない。
「くそっ……忌々しい鬼神の血め!!」
ガブリエルが水槍を放つが、アリシアにはカスリもしない。廃墟を縦横無尽に駆け回るアリシアの速度は、ガブリエルを圧倒していた。
「フンッ!!」「セアッ!!」
加えてウラドとアルキュラが、ガブリエルの攻撃を相殺する。本体に傷はつけられなくとも、その攻撃を防ぐことは可能なのだ。
「へぇ〜なかなかいい連携だね。群れなきゃ何もできない君たち、人間らしい戦い方じゃないか!!」
ガブリエルの笑い声が戦場に響く。そのとき、アリシアの鼓膜に銀鈴の声が鳴った。
「――私はこの世の安寧を願う者」
何事かとガブリエルが反応する。
ウラドとアルキュラも声の方に視線を送った。
バロルがようやくかと笑みを浮かべていた。
そんな中、アリシアだけが動きを止めることなくガブリエルに牙を向いた。
「天地万有に宿る、大いなる力の根源よ。
森羅万象を司る、大いなる力の理よ。
安寧を願いし私の呼びかけに応え、全てを白く染め尽くさんとする力を与え給え」
目で見なくともわかる。肌で感じる。魔力の高まりを。刺すような冷気を。
「世界を凍らせる『氷河』の力を――」
高まった魔力がフィーナに収束していく。
何が起きるのか、そんなことガブリエルに予知する術はない。けれど収束するこの莫大な魔力量は、見過ごせるはずもない。
「舐めるなよ。僕がさせると思うか!?」
「思わぬ。だからこそ手出しはさせぬ!!」
同じく。バロル達もガブリエルの攻撃を防ぐために立ち塞がった。
「あは♪ いいよ。じゃあ纏めて吹っ飛ばしてあげるね!」
ガブリエルは両手を高く上げ、振り下げる。
「精霊遊戯《水獄百景・瀧降とし》」
ヴェルリムを囲む水の檻から2匹の龍が生まれた。
「「シャァァァァァァァッ!!」」
遠吠えと同時に龍は一直線にフィーナを目指す。
アリシアはガブリエルに向け片手を晒した。
「――肉を犯す千の血棘」
瞬間。何本もの真紅の棘が、ガブリエルの身体を内から突き刺した。
「あ、ぐぅ……これ、はッ!?」
今までダメージを負わなかったガブリエルが大きく吐血し、その動きが止まる。同時に2匹の龍も身体をしならせ動きを止めた。
フィーナは詠唱の綴りを終わりへと加速させる。詠唱の最後に大気を凍てつかす氷鷹の名を口にした。
「最上位氷極魔法
〝大海を凍て尽かす氷河の鷹〟!!」
世界に氷河をもたらす氷鷹が、その姿を顕現させる。
「ピュァアアアアアアアアアアアッ!」
氷鷹が生まれた影響により、ヴェルリム中の水分が侵される。地面に残る水溜まりは氷付き、ヴェルリムに流れる川にも薄氷の膜を張る。
「なんと……」「まさか、これ程とは……」
アルキュラとウラドが氷鷹に感嘆の声を上げた。
「……お願い、フィンブル!!」
フィーナは身体の力が抜けるように地面にペタリと座り込む。
身の丈に合わぬ最上位魔法使用の反動だ。魔力欠乏症一歩手前の状況に、フィーナは動くことができない。
しかしそんなフィーナの想いを読み取るかのごとく、氷鷹は一声鳴くと、その大翼を天へと踊らせた。
誰も彼の行く手を阻む者はいない。2匹の龍を凍り付けにし、氷鷹は真っ直ぐに曇天の空へと身を投げた。
その数秒後。曇天の空から氷花が降り注ぐ。氷鷹の冷気により、浮かぶ数億の雨粒が氷の礫となり落下する。
今度はバロルが負傷していない左腕を空に掲げた。そしてその掌をゆっくりと握りしめる。まるで天を潰すかのように。
「《重力制御・加算千倍》」
途端、空に浮かぶ数億個の氷礫全てが砕けた、いや潰れた。木っ端微塵に。
肩の荷が降りたかのように、バロルはふぅと息を吐く。
「礼を言うぞ、フィーナ。これで我も全力を出せる」
そして視線の先、ガブリエルは笑っていた。
「いてて……はは♪ エゲツないことを考えるね君」
ガブリエルは笑っていた。その目がアリシアを捉える。袖で口元の血を拭って、それから。
「僕も君に同じことをしてあげるよ」
ガブリエルは微笑んだ。
「精霊遊戯《水の処女》」
「……え―――?」
瞬間、アリシアの身体を熱が支配した。
そう、ソレは熱だ。止めどない熱がアリシアの身体の内から沸き上がる。膨れ上がる。
持ち上げた右手。その掌からは青い棘が突き出していた。
「ぁ……」
見る見るうちに、水の棘が紅く濁っていく。アリシアの血だった。
アリシアの身体の内側から、数百本もの水の棘が突き破った。
それは掌を。
それは脚を。
それは内蔵を。
容赦なく内側から破壊した。
「あ、うっ、………ぁ」
ゴボリと音をたてアリシアの口から大量の紅い液体が溢れでる。続けて棘が消えた。ブシュッとラムネ瓶の蓋を開けたような爽快な音とともに、アリシアの身体が紅一色に染まる。染まる。染まる――。
「あ、アリシアさん―――ッ!!?」
フィーナの悲鳴。走ろうとするも、その身体は魔力欠乏症のせいで動かない。
脱力し前屈みに倒れ、アリシアは沈黙した。完全に致命傷だった。
「貴様、ガブリエルゥ―――ッ!!」
吠えたのはアルキュラだ。
「待て、アルキュラ!?」
ウラドの静止の声を無視し、アルキュラはその手に構える細剣を握りしめ、血眼となりガブリエルに突撃した。
「おのれ、貴様だけは許さぬ!!」
「あれ〜、もしかしてだけどもしかして。あの子っておじさんの娘だったりするのかな〜? あは♪ だったらごめんね。僕が壊しちゃった♪」
「黙るがいいッ!!」
―――ブラッディー・ブラディアス―――
アルキュラの身体が蒸気を上げた。紅い煙を発している。
御三家それぞれに引き継がれる吸血鬼種奥義。ウラドのブラッド家に『ブラッディー・ブラディウス』が秘伝として継承されるように、アルキュラのツェペシュ家にも秘伝として『ブラゥディー・ブラディアス』が継承されていた。
能力は身体能力の超上昇。自身の血流を速めることにより、身体能力を限界以上に引き上げることができる。
血を代償に命を削る、ツェペシュ家の奥義。
「そんなに死に急がなくても大丈夫だよ。おじさんもすぐに同じ場所に送ってあげるから、さ♪」
何度アルキュラが斬撃を与えようが、ガブリエルにダメージは見てとれない。
完全に遊ばれている。
しかしそれでも。それでもアルキュラは止まらなかった。止まれなかった。
アルキュラ・ツェペシュの鉄の仮面が剥がれ落ちる。
自身は吸血鬼が貴族。吸血鬼を束ねる御三家の当主。
御三家としてアルキュラは他の吸血鬼を先導する義務がある。掟を破るなど言語道断。許されざる行為である。
法を犯す輩を許さず。家名を汚す行為を許さず。プライドのない吸血鬼を許さない。
例え実の息子であれ、度が過ぎた罪を犯せば殴り殺した。
そうしていつしかアルキュラは、心を持たない吸血鬼などと呼ばれるようになった。
その結果。彼につけられた二つ名は『残虐公』。
掟に縛られた自身に、ふさわしい呼び名である。
「精霊遊戯《水神威》」
アルキュラの右腕が飛んだ。
「ぐぅッ――――!!」
だがそれでもアルキュラは剣舞を止めない。獣のようにガブリエルに襲いかかる。
掟だから。守らなければならぬ鬼の決まりだから。それを御三家が破ったとなれば、他の吸血鬼に対して示しがつかないから。
だから。だから。だから―――。
私は心を鬼にして、アリシアを捨てたのだ。