第159話 血の記憶
アリシアへと伸ばされた水精霊の腕が、宙を舞った。
「お―――?」
驚きに声を上げる間もなく、水精霊の身体が3枚に刻まれる。アリシアの手にはいつの間にか血製の剣が握られていた。
「おお、まだそんな元気があるのかぁ! いいよ。動けなくなるまで遊んであげ――」
瞬間、ガブリエルは笑みを消し首を左に避けた。ほぼ同時にガブリエルの首があった場所を後方から赤い剣が横切る。
遅れてピ――ッと。ガブリエルの首に傷が走った。
ガブリエルの首を襲った剣が、アリシアの手元に戻る。その剣先に付着した血痕を、金髪の吸血鬼は指にとり、ペロリと舌で舐めた。
「遊んであげる、だと? 羽虫風情が。ずいぶんと偉くなったものよなぁガブリエル」
切れた首に手を当て。ガブリエルの笑みがぎこちなくなる。
「鬼神……エリニュス」
「妾の名を呼び捨てるか。調子に乗りすぎだ。此度は泣かすだけでは済まさんぞ?」
「泣かす? あはっ、僕を泣かすことができるのはあの方くらいさ!」
「プライドの欠片もない餓鬼よなぁ。妾の前で地に伏せ犬のように咽び泣き命乞いした餓鬼が」
その発言の直後。違和感に気づき、ガブリエルは固まった。
「―――待て。待て待てまて」
ガブリエルはうつむいた。思考する。あらゆる可能性を。
「おかしい。だめだ。そんなこと。まさか。いや、まさか」
顔を上げたガブリエルの顔には、笑みの抜けた童顔があった。
ガブリエルは言った。
「なんで、それを知っている―――?」
起状の少ない落ち着いた声音で。殺気を滾らせながら。
「ふふっ、たしかに。餓鬼の寝小便など忘れてやるのが優しさというものか」
「違う。そうじゃない。忘れるとか忘れないとか。覚えてるとか覚えてないとか。そんな低次元の話じゃない……」
ガブリエルの動揺を受け、少女は――エリニュスは、愉快だと言わんばかりに笑みを深めた。
「笑止。妾を誰と心得る。例え世界の歴史を消滅させようとも。例え妾の血に刻まれた記憶を書き換えようとも。妾を侮るなよ」
「侮ったつもりはないよ。むしろ一番の懸念だった。あの方は特に君を警戒して、念には念を込めて血液に刻まれた記憶もすべてに手を加えた……なのに」
なのになぜ覚えている―――?
「たしかに。完璧に妾の記憶は書き換えられていた。見事な手腕だ。褒めてやろう。まさか血までイジられるとは、怒りよりも驚きだ。不快よりも賞賛。いやはや恐れ入ったものよ」
世辞を述べるエリニュスが心底愉しそうに嘲嗤う。
だがまだ甘い、と口角を吊り上げる。
「やるなら徹底的にだ。帰ったら伝えておけ。己の眷属の記憶もイジっておけ、とな」
「……まさか」
ガブリエルは己の首、即ち傷口に触れた。
「妾自身の血が読めぬのなら、妾以外の血を読めばよいだけのこと」
つまりエリニュスは、ガブリエルの血に刻まれた過去を読み取ったのだ。
神戦のきっかけ。神戦の成り行き。神戦の結末。
そして唯一神の存在を。世界から抹消された神戦の記録を。
「あの小娘も大変よなぁ。使えぬ眷属をもつと。おっと。今は唯一神じゃったか?」
煽りたてるエリニュスに対し、ガブリエルの殺気が膨らんでいき、そしてパッタリと途絶えて。
「鬼神エリニュス。おまえを野放しにすることはできない。第四天使《遊戯》のガブリエルの名にかけて、僕はおまえを殺す」
「ほざくな三下。調子に乗りすぎだ、餓鬼が」
神と天使との戦いの火蓋が切って落とされようとしたその矢先だった。
エリニュスの存在が揺らいだ。
「……いいところだというのに。そろそろ目覚める頃か」
エリニュスは再び視線をガブリエルに戻す。
「少し遊んでやりたかったところだが、どうやら時間切れのようだ」
微笑するエリニュス。ガブリエルは表情を崩さず言葉を投げる。
「それはとても残念だ。けど僕はおまえを……その子を殺すよ。手加減なんかしない」
言葉の通りガブリエルの魔力が高まっていく。収束していく。
「ふふ、それは見物だ。だが簡単に殺れると思うなよ。何せ今宵此度の器は絶品故にな」
消えゆく意識の最後、エリニュスは口の中だけで呟く。
「さてアリシアよ。妾を存分に、愉しませてみせ……よ………」
エリニュスの意識と入れ替わるようにして、アリシアの意識は覚醒した。