第158話 アリシア・ツェペシュ
アリシア・ツェペシュという名の少女は、3大貴族ツェペシュ家に生まれた娘である。
彼女は生まれながらにして平凡だった。
天才でもなければ秀才でもなく。勉学の才能もなければ戦術の才覚すら皆無。
よって彼女は、10歳を迎えたその日『選別』に回された。
―――選別。それは一種の試練であり、救いであり、そして出来損ないの廃棄場である。
弱者を見捨て強者のみを掬い、そして吸血鬼種は"最上位魔族"という地位を手に入れた。
彼らにとって弱者は生きるに値しない。そればかりかその存在は吸血鬼種の地位を貶める邪魔者でしかない。
選別―――それは吸血鬼種に受け継がれし《神器・始祖の鬼血》をその身に取り込むことである。
始祖の血は人を選ぶ。優れた能力を持つ吸血鬼でさえ、適合できず命を落としてきた。
確率は限りなく0に近く、過去始祖の血に適合できた者は2人だけ。始祖にとってその者の能力や力など関係無い。適合条件は"神に気に入られるかどうか"。全ては神の気まぐれなのだから。
さすれば優秀でない者にも適合条件は当てはまる。
適合できなければ厄介者を排除でき、運良く適合できれば万事解決。適合できようができまいが吸血鬼にはメリットしかない。
後に神器との適合は『選別』と呼称され、才能のない吸血鬼のゴミ処理場と化した。
吸血鬼にとってこれほど合理的な神器の『使い道』はない――。
「―――ここは……?」
気づくとアリシアは赤い海に立っていた。
思い出せる最後の記憶の断片は、杯の血を………始祖の血を口にしたこと。身体中の血液が沸騰するかのように暴れだし、アリシアは意識を失ったのだ。
そしてここにいる。赤い海の上に立っている。
下一面に広がる真っ赤な水。吸血鬼であるアリシアには、ひと目でそれが血だと理解った。
360度見渡す限り全てが血の海だった。他には何もない。そう、その世界に唯一存在している椅子に腰掛ける金髪の美女を除いて―――。
「―――」
アリシアはひと目で気づく。彼女がそうなのだと。目の前に御わすこの方がそうなのだと。
女は怒っていた。それはそれはたいそう怒っていらっしゃった。
「まったく。妾は気分が悪い。次から次へと……妾を何だと思っている。心の底から腹立たしい」
「それは、大変申し訳ございません」
膝をつき頭を下げるアリシアを見据え女は言った。
「安心しろ。妾は其方に憤慨しているのではない。其方らの出で立ちを妾は知っている。妾の元に跪いた先達の者からよく聞いているからな。故に妾は其方をここに送った者に対し憤っておるのだ。顔をあげよ我が子孫の娘子」
「………」
言われるままにアリシアは顔を上げた。
そして彼女を視界に入れる。けれど決して目を合わせぬように。嗚呼、視界に入れるのも恐れ多い。
見た目の年齢は人間族でいう17歳前後だろうか。華奢な身体に実る2つの巨峰。純白を用いた薄い素材のドレス。そこから伸びる長い手足。
ドレスの純白を栄やすは黄金の煌めきを放つ細やかな金髪だ。
瞳の色はアリシアと同じ、いやアリシアよりも濃厚な真紅の赤。
比喩無しにこの世界で最も美しい紅を宿していた。
「妾は《鬼神》エリニュス。其方ら吸血鬼種の始祖である」
「わたしはアリシア・ツェペシュと………」
遅れて名乗りだしたアリシアに「―――名乗るな」とエリニュスの一声。
「ここには過去何千という我が子孫が来た。これからも何千何万という子孫が来るのだろうよ。
故に妾は其方らの名を聞かぬことに決めている。キリがないからな」
「それは、大変申し訳ございませんでした。何としてお詫びをすればいいか、わたしの命をもって……」
「よい。慣れている」
それからエリニュスは組んだ足を組み換えた。
アリシアを見つめ、エリニュスは短く嘆息する。
「………まぁいい、始めるとしよう」
その言葉を合図に、血の海が揺らいだ。
天井から1粒の水滴が落とされたように水面が揺れる。そして血の海からそれは現れた。
それは少女の形をしていた。白くやせ細り健康とは程遠い見た目。薄汚れた金髪。そしてそれは赤い瞳をしていた。それはアリシアだった。
同じ紅い瞳が重なり合った直後。戦闘は始まった。
「っ……!?」
咄嗟に腰の剣を抜き、アリシアは少女の剣を受け止めた。
目の前の少女は口を開いた。
「あなたは何者なの?」
同じ声音で話しかけてくる少女に驚きながら、アリシアは少女の質問に答える。
「アリシア。わたしはアリシア・ツェペシュ」
「そう。偶然ね。わたしもアリシア・ツェペシュって名前なの」
再び少女の剣が閃く。アリシアが器用に少女の攻撃をいなす。
「どうしてあなたはここにいるの?」
再度質問。
「どうしてって、わたしは選別に回されたから……」
「選別ってなんのこと?」
「始祖様の血を飲む儀式のこと」
「どうしてあなたは選別に回されたの?」
「それは……わたしが弱いから。弱いわたしは要らないから」
「どうして弱いあなたは要らないの?」
「弱い吸血鬼は生きる価値がないから。存在する意味がないから。だから」
「――だからあなたは諦めたのね」
「―――」
「生きることを」
「………」
「あなたは喜んでいる。御三家に生まれたプレッシャー。勉強や剣術を強要される苦痛の毎日から開放されることに対して」
胸の内を見透かされたことに対し、アリシアの表情に動揺が見て取れた。
「あなたは誰なの?」
「わたしはあなた。あなたはわたし。わたしはあなたの全てを知っている」
アリシアと同じ姿形をした少女は言う。
「もう一度聞くわ。あなたは何者?」
再度問われる最初の質問。目の前にいる少女が自分自身なのであれば、とアリシアの顔から表情が消える。今まで繕っていた仮面が剥がれる。
無機質で感情のない声で、アリシアは応えた。
「わたしは道具。お父様の命令に従うだけの傀儡」
それがアリシアという存在だった。幼い頃から御三家の名に恥じぬよう育て上げられた、アリシア・ツェペシュという物の名だ。
依然物であるアリシアに思意はなく、ただただ道具として奴隷のように無感情のまま、父の言いつけを守ってさえいればいい。そうしてさえいれば、アリシアはアリシアでいられるのだから。
しかし。目の前の少女はその在り方を否定する。
「違うわ。それはあなたがあなた自身に言い聞かせているだけ」
他の誰でもない少女がアリシアを否定している。それだけは絶対にあってはならない。
「違くない。わたしは道具よ。お父様の言いつけどおりに生きる人形よ」
「違うわ」
「違くないッ!!」
今度はアリシアが少女に剣を向ける。これ以上少女の言葉を聞いてはいけないと、アリシアの本能が叫んでいる。
しかし少女とアリシアは技量も戦い方も戦術も全てが互角。まるで写し鏡だ。気持ち悪いほど完璧に実力は拮抗している。
「あなたには感情がある。ほんとうは自由になりたいって思ってる。そうでしょアリシア」
「………ええ、そうよ。その通りよ。わたしは自由になりたい。ここで死んで、わたしはお父様の人形から開放されたいのっ!!」
「それがあなたの望み?」
「そう、それがわたしの望み!!」
「うそよ。ほんとうはあなた、死にたいなんて思ってない」
「思ってる!! 勝手にわたしの気持ちを決めつけない、で…………」
アリシアは失言に気づき口ごもる。
「ほら。あなたにはちゃんとした感情があるじゃない。他の誰でもない。あなた自身の、アリシアの感情が」
「うるさいうるさいうるさいうるさいッ!! そんなの、今さら何だって言うの!? こんなことにいったい何の意味があるの!? わたしはもう死にたいの。自由になりたいのにっ!!」
邪魔をしないでとアリシアは叫んだ。
再度距離を詰めようとするアリシアに、少女は言った。
「だったら、なんであなたの手は震えているの?」
「………え?」
少女の言葉にアリシアは視線を落とす。剣を握る小さな手が、小刻みに震えていた。
アリシアの動揺など気にも止めず、少女は続けた。
「どうしてあなたは、泣いているの?」
そこでようやく、アリシアは自分が涙を流していたことに気づいた。
「なんで、わたし……泣いて……」
止まらない。手で拭うも、涙は奥の方からどんどん溢れてくる。
「本当に死を望んでいるのなら。あなたには何度もその機会があったはずだよ。本気で死にたいのなら、自殺だってできたはず」
少女はアリシアを見つめ、そして続けた。
「言ったでしょアリシア。わたしはあなたなの。あなたが何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も自殺を覚悟して、その度死の恐怖に負けていることをわたしは知ってるよ」
「やめて」
「生きることを諦めただけで、あなたは死にたいなんて思ってない」
「………やめて」
「ほんとは、あなたは……」
「やめてよッ!!」
耐え切れず、アリシアは叫んでいた。
己の身体を掻き抱き、恐怖に顔が崩れる。
「それ以上わたしの心を開かないで。これ以上わたしに希望を見させないで………」
これからアリシアは死ぬのだから。死を覚悟しているのだから。だから止めてほしい。
死への覚悟が薄れてしまう。生への執着が増してしまう。だから―――、
「だからあなたの話をしましょうアリシア」
一人きりで震えるアリシアの小さな身体を、同じくらい小さな少女の腕が優しく包んだ。
少女の身体は、とても温かった。
「あなたの好きなものはなに?」
「わたしの、好きなもの……?」
「そう。あなたが一番好きな……大切なもの」
「わたしは………」口ごもり、少しの静寂の後、アリシアは自分と同じ少女の髪に触れた。
「この金髪が好き……」
「どうして髪が好きなの?」
「お母様が『アリシアの髪はお母さんと一緒ね』って毎日髪をとかしてくれたの。だからお母様と一緒のこの髪がわたしの宝物。お母様がわたしに残してくれた宝物なの」
「とても綺麗な髪だものね。アリシアが毎日髪を大事にお手入れしてたこと、わたしは知ってるよ。
ねぇアリシア。もしね。もしここを出られたら、あなたは何かしてみたいことはある?」
「わたしは……恋がしたい。いつか男の人を好きになって、好きになった人と色んなところに行って、色んな景色を………ひと目でいいから海を見たかったなぁ……」
そんな景色を思い浮かべる。思いを馳せる。
叶わぬ願いだと知っていても尚。届かぬ夢だと察していても尚。そんな幸せを。人並みの幸せを。アリシアは送ってみたかった。
「ねぇアリシア。あなたは力が欲しい?」
「ううん。ほんとは力なんていらない。わたしは強くなきゃ要らない子だったから。でもわたしは誰も傷つけたくなくて。誰にも傷ついてほしくなくて……」
「アリシアは優しいね」
ふふっと少女は笑った。アリシアの美しい金髪をそっと指ですいて。
それから少女は。最後に最初の問いを口にした。
「じゃああなたは、いったい何者なの?」
アリシアは言った。
「わたしは……道具じゃない」
「うん」
アリシアは言った。
「わたしはお人形なんかじゃない」
「うん」
アリシアは、言った。
「わたしはアリシア。ただのアリシアよ」
「うん」
「わたしはわたし」
「……うん」
「わたしはあなたで。あなたもわたしなのね、アリシア」
アリシアと少女の瞳が混じり合う。どこまでも同じ紅色の瞳が深く溶け合う。
少女は―――アリシアは微笑んだ。
「そう。わたしはあなた。あなたはわたし。
殺さないで。あなたの心を。
隠さないで。あなたの思いを。
そして忘れないで。あなたは一人じゃないってことを―――」
少女は薄れるように消えた。少女の言い残した最後の言葉をアリシアは噛み締めた。
赤い海だけが永遠と広がる世界に。無音の満ちるこの世界に。余韻に浸るアリシアの鼓膜に。
エリニュスの声が響く。
「血液とは生物を動かす潤滑油。即ち生命の源である」
先ほどとまったく変わらぬ姿勢で、大胆不敵なエリニュスは堂々とした様子で椅子に腰掛けていた。
「血を見ればその者の全てが妾にはわかる。その者の性格。その者の人生。人柄に家系。実力や記憶。そして本質が―――。どれだけ外を取り繕うが血に嘘はつけん」
そしてエリニュスは、ぽつりと言った。
「3人目だ」
「え……?」
発言の意味がアリシアには理解できなかった。構わないと言った様子でエリニュスは続けた。もとよりエリニュスは理解など求めてはいない。単なる呟きなのだから。
「選別とは良く言ったものだ。見事に的を得ている」
くすりと。エリニュスは口元の微笑を己の手で隠す。
「妾の血を取り入れた者が10人いるとするならば、そのうち7人は即死する。
血に適性があり、運良くこの場に来られたとしても、つまらん奴はその場で首を刎ねる。ここまでで9割死ぬ。
そして残った1割に、妾は試練を課す。それこそ其方が先ほど体験した"己との対峙"だ」
アリシアの記憶に新しい少女との戦い。少女との語り合い。
「アレはよくできた紛い物でな、本物の血でできている。
先にも言ったが、血に嘘はつけん。その者の本質が。本性が。ありのままに反映される。ある意味本当の自分とも言えるであろう。
本物も預かり知らぬ、真相意識の内側を紛い物は知っている。ある者は心の底を見透かされ絶望の末に絶命し、またある者は心意を言い当てられた憤怒の末に紛い物を絶命させた」
温厚な者が乱暴となり、粗暴な者が柔和となる。ひた隠しにしていた本性が露出する。
普通の人間や魔族ならまだしも、相手は吸血鬼だ。プライドを傷つけられた吸血鬼が何をするか、想像に固くない。
「この試練に解などありはしない。けれど己の紛い物に本心で打ち勝てぬ者に妾は興味がない。しかし逆に言えば、己の紛い物に本心で打ち勝った者に妾は興味が尽きん」
それからエリニュスはアリシアに視線を注いだ。笑みを浮かべた口元から白い鬼の牙が覗く。
「喜べ娘、其方で3人目だ。見事妾の試練を乗り越え、妾に資格を示した者は。妾の力を《鮮血》の器を引き継ぐ者は。
名乗るがいい娘よ。今度こそ、其方の名を聞こう」
エリニュスの発言に、アリシアは小さく口を開いた。
「アリシア。アリシア・ツェペシュ」
「妾を失望させてくれるなよ。アリシア」
そうしてエリニュスとアリシアは契約を交した。