第155話 遊戯の天使
「―――おや? もうすぐ降ってきそうだなぁ」
買い物帰り夜道を歩く兎人種の男が、曇天の夜空を見上げ呟いた。
「さっきまで星がでていたんですけど、いつの間に雲が出てきたんですかねぇ」
男の発言に、同じく兎人種の女が足を止める。
「パパー、ママー、ぼく雨嫌い。早く帰ろうよ〜」
そう言い、兎人種の子どもが耳を抑えて走り出す。ふわふわとした毛皮が濡れることを何よりも嫌う兎人種にとって雨は天敵なのだ。
「こら、走ると危ないぞ〜」
「こどもは元気ですね〜」
子どもを追いかけるように、兎人種の男と女は歩き出した。
そのとき、雲が一滴の雫を落とした。重力に逆らわず、雫は一直線に落下していく。
そしてトンッ――と。音を殺し雫は地面に吸い込まれた。
「え―――?」
自らのわき。すぐ側に落ちた雨の雫を横目に、兎人種の男は歩みを止めた。
ちょうど雫が落ちたところに、小さな穴が開いていた。
「どうかしましたかあなた?」
男は無言のまま空を見上げた。
今にも降りだしそうな、曇天の空を―――。
「走るんだフレミーッ!!」
その直後。一粒の雫を皮切りに、数千数万数億の雨粒がヴェルリムに降り注いだ。
ポツポツ、ザーザーなんて生易しい音じゃない。ドドドドドッと。まるで銃声の如く低音を響かせる雨あられの空襲。
敵の奇襲だと気づいたときには全てが遅い。
蜂の巣上に撃ち抜かれた建物が異音を上げ崩れていく。現状を理解できず、困惑したまま次々に人が死んでいく。
鳴り響く悲鳴は雨音に打ち消され、世界からそれ以外の音が消滅した。
成す術もなく一方的に蹂躙され殺戮の全てをし尽くされる光景は、ヴェルリムの住人にとって世界が終焉を迎えたと錯覚する程度には十分すぎる絶望だった。
永遠に降り注ぐかと思われた絶望はしかし。その18秒後。突然に降り始め、そして唐突に止んだ。
黒の王国王都ヴェルリム。総人口約32万人。うち20万人がこの一瞬で重軽傷を負い、残りの12万人が、命を落とした。
たった十数秒の間に、ヴェルリムは崩壊した――。
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建物は倒壊し、道端には屍が転がっている。
そこかしこから聞こえる呻声に悲鳴。鳴声と叫声。ヴェルリム全土が混乱と錯乱の渦の中にあった。
そんな地獄絵図の中を、1人の少年が鼻歌混じりに歩いていた。
「雨々降れ降れ父さんが、家族を庇って傘になる♪ ぴっちぴっち ちゃぷちゃぷ ダンダンダン♪」
この惨状の中で、少年は奇跡的にも無傷だった。
傷1つ、汚れ1つなく、服も新品同様。
少年の身幅よりも大きい傘を指し、ステップを踏む。
「雨々降れ降れ母さんが、動かぬ傘を抱きしめて♪ ぴっちぴっち ちゃぷちゃぷ アンアンアン♪」
この惨劇の中を笑顔で。少年は無邪気に笑っていた。
感覚が麻痺しているのか。それとも狂っているのか。きっとどこかイカれているのだろう。そうでなくてはおかしい。
楽しそうに。嬉しそうに。少年は笑っている。
「雨々降れ降れ天使ちゃんが、血だらけお池で笑ってる♪ ぴっちぴっち ちゃぷちゃぷ ランランラン――♪」
「第四天使……ガブリエル」
名を呼ばれ少年は歩みを止める。そして笑顔のまま、くるりと振り向いた。その際少年の空色の髪が揺れる。
少年の―――ガブリエルの雨色の瞳に映るのは、金と銀の髪をした2人の少女だった。
「おやおや? 君たちはたしか……あの日ヨフィーと一緒にいた女の子たちかな?」
「なぜ、あなたがここにいるんですか……?」
「うーん、なんでって言われてもなぁ。おいでとは言ったけど、待ってるとは言ってないからね僕」
「だから来ちゃった♪」とどこまでも軽口の絶えないガブリエル。
「心配しなくても大丈夫だよ。どうせ皆死ぬんだから。死ぬのが後か先かの問題さ」
「死なないよ。ヴィレンくんたちも、そしてわたし達も」
「ヴィレンくん? ああ、ダンジョンの前にいた子達のことかー。死ぬよ。だって次の相手はカマピーだからね。誰もカマピーには勝てないから。カマピーを止められるのは、本気になったミカくらいだから」
それからガブリエルは左掌をアリシア達に向かって突き出して、
「それより、他人の心配をしてる場合じゃないよね君たち。今から死ぬんだよ―――?」
途端、空宙に生成される無数の水が、その形状を矢に変化させた。
「ちゃんと僕を楽しませてから、死んでね♪」
「「――――ッ」」
咄嗟にアリシアとフィーナが身構える。ガブリエルの矢が発射されるその瞬間、これから戦闘が始まるというその直前、その場を重圧が支配した。
「………おっと」
突然、ガクッとガブリエルが膝をつく。
「「………!?」」
動揺するアリシアとフィーナの前に『王』は姿を現した。
頭から伸びる悪魔の双角。全身が黒く硬い皮膚に覆われており、漆黒の頭髪の前髪から覗く、死を帯びた赤い瞳。右手には巨大な槍斧を携えていた。
無言のプレッシャー。解き放たれる王の威厳。威嚇。威信。
名だたる猛者溢れるこの黒の王国に置いて、最強の魔族に与えられる称号こそ〝魔王〟。
彼こそ黒の王国を統べる王。『魔王』バロル・バルツァークである。
「コレをやったのは貴様か小僧?」
重低音の声には刺すようなプレッシャーが乗っている。
そしてその赤い瞳は射殺すかのようなプレッシャーを放っていた。
「うん、そうだよ♪ 逆に雨を止めたのは君かな?」
だがそれを意に返さず、ガブリエルはにこやかに涼しい笑みを浮かべて立ち上がった。
魔王バロルは崩壊したヴェルリムを今一度目に映し、そして猛った。
「よくもやってくれたな使い魔風情が。生きて帰れると思うな。楽して逝けると思うな。貴様はこの我魔王バロルが潰殺してくれる」
「あはっ♪ これはずいぶん楽しめそうだ!! 第四天使『遊戯』のガブリエル。僕と遊んでよ、魔王様♪」
ビリビリと大気を震撼させるバロルとは逆に、依然ガブリエルはどこまでも楽しそうに笑みを浮かべていた。