第125話 ヤドリギの矢
――落ちたものだな。
己の実力の不甲斐なさにリーサは呻いた。
これほどまで激しい命の削り合いをするのは何時ぶりだろう。
短剣を握る掌が汗ばみ、呼吸がおぼつかない。
剣を振る度、もしくは太刀を避ける度、久しく忘れていた戦闘の感覚が蘇り、また研ぎ澄まされていくのをリーサは感じていた。
そして同時に、目の前の敵との実力差に愕然とする。
10……いや20を超える数の分身が、連携しテンポをズらしリーサに襲いかかった。
戦況は誰が見てもリーサの劣勢である。
シュナが忍術で作り出した幻影に対し、リーサはその身1つで攻防を繰り返す。
いくら最強と称えられたエルフと言えど、平和慣れして鈍った今では相手にならない。
いや、たとえ彼女が全盛期の実力を以てしても、眼前で笑みを崩さぬ忍には敵わないだろう。
それほどまでに実力差は歴然だ。
分身1体を消滅させる度、その美しく白い肌に赤い線が滲んでいく。
「ほらほら!! 足が止まってるぜ? 殺しちゃうよ? もっと動き回らなきゃさぁ!!」
「くッ……!!」
完全にシュナのペースである。
手加減されていることをリーサは自覚している。
敵が本気になればリーサに勝ち目はない。全くの0だ。
すぐに殺さないのは、シュナの性格故の自身なのか。弱者を弄ぶことに快楽を覚えているのならばそれでいい。その奢りが十分リーサの勝機になり得る。
右に左。素早く視線を報復させ敵を観察する。分身に翻弄されながらも本体を探す。
起死回生を狙うリーサの姿が、シュナの瞳には滑稽に映って仕方がない。
諦めず憤怒のままに獲物を探すその姿はまるで獣のようだ。感情に支配されたままのリーサに自分は見つけられないと、――そう映るように、あえてリーサが愚者を演じているとも知らずに。
「――そこかッ!!」
鋭い気合と同時に左手に持つ弓に右手の短剣を掛け発射する。
その一連の動作に要した時間は僅か1秒。霧を裂き短剣がシュナの腹部に突き刺さるも、すぐにシュナの身体は崩れ黒い霧に変化し消えていく。偽物だ。
すぐさま矢筒から予備の短剣を引き抜く。
「あっはッ。無駄無駄。早く諦めなってぇ!!」
シュナの嘲笑が響く中、リーサは冷静に観察を続けていた。
細長く尖った耳を凝らし、聴覚をフルに利用して、草場を駆ける微かな足音を拾う。
そして魔族の中でもずば抜けた眼を以て、僅かな霧の動きを、細かな霧の変化を見逃さない。
「さっきから同じことばっかでつまんない。そんなんじゃアタシを殺すことなんかできねぇーっていい加減気づけよ……」
「あー、もういい。飽きた」死の宣告。その言葉を皮切りに、シュナは遊ぶことを辞めた。
いまだ愚直に周囲を警戒し続けるリーサの背後を容易に奪ったシュナが、上段に構えた太刀を一思いに振り下ろす。
「さよなら。リーサ」
――それで終わるはずだった。
太刀を振り下ろそうとした直後のことだ。あたかもその時を待っていたかのように、リーサの身体が駒の如く反転した。
「なッ―――!?」
動揺するシュナの紫紺の瞳が大きく見開かれ、その双眸に弓を引くリーサの姿が移り込む。
「終わるのはお前のほうだ。シュナ」
直後。ドスッ、と鈍い音。シュナの腹部にひんやり冷たい異物が突き刺さる。
時を待たずしてシュナの口元を血が伝い、1歩、2歩と後ずさって。
「どうして……」わかった? ――と。
何もない空間から黒が浮かび上がる。続けて白い肌が。薄桜色の髪、紫紺の瞳。
恐怖と驚愕に染まるシュナの姿に再び色が戻った。
無色透明無臭無気配。
切り札を見破れ動揺を禁じえないシュナに、平然と佇むリーサが淡々と告げた。
「愚問だな。私が《幻舞》の能力を把握していないとでも思ったか?」
夢刀に秘められた本来の能力。刀だけでなく使い手の姿形すらも視界から消す透過能力。
シュナが里を去る際、《ヤドリギの矢》と一緒に持ち逃げした里の秘剣である。
「バカめ。その浅はかさがおまえの敗因だシュナ・ラダー。地獄でラドルを殺した罪に懺悔するんだな」
矢筒から最後の1本を取り出し弦を引く。鏃を真っ直ぐシュナの額に向け、リーサは弓を構えた。
手加減はしない。同情も、躊躇も、温情もない。
リーサがシュナに抱く感情は殺意だけ。
それでいい。それだけで十分だ。他はいらない。
矢を放とうとした、正にその時だった。
「……ふ、ふふっ」
「……?」
突然シュナが声を上げ、吹き出した。
「あはっ、うふふっ。あははははっ!」
「何がおかしい……?」
死を間近にし頭でも狂ったか。はたまた虚勢を張っているだけではないか。
腹部に命中した短剣は、シュナの内蔵を破壊し穿いている。
致命傷だ。すぐに治療すれば助かるだろうが、あいにくリーサに見逃す気は全くない。
「ふふっ、何がおかしいって?」薄桜色の前髪の隙間から覗く紫紺の瞳が細まり「だって」小ぶりの唇が吊り上がる。
「まさかここまで上手くいくとは思わなかったから」
「黙れ。お前はここで死ぬんだシュナ」
感情を殺し、リーサは右手から矢を放った。途端、限界まで引き絞られた弓が原型に帰ろうと弦を収縮させる。
リーサ渾身の一矢が、シュナの額を穿いた。それでも尚微笑を浮かべ続けるシュナの表情は、どこまでも愚かで美しい。
射った主の怒りを弾弁するかの如く、額を穿った矢は勢いを失わない。
リーサは宙に投げ出されるシュナの身体を目で追った。
憎き仇の最後を目に焼き付けようとして、
「……?」
違和感を覚えた。それはすぐに危機感へと変わる。
宙を舞うシュナの身体が、突如崩れ始めたのだ。文字通り崩れた。ぼろぼろと剥がれ落ち、砕け、消えていく。
幻影分身ではない。これは現物分身だ。魔法名で言うなら半身。
己と同じ思考を宿し、攻撃力、耐久力と、限りなく本物に近い分身体。
ドッペルゲンガーと呼ぶ者もいる。戦闘では滅多に使わない術だ。
理由はもちろん。術を行使するにあたり、莫大な魔力を要すから。燃費が悪すぎるのだ。
まさか自分を騙すために、シュナが現物分身を使用するなど毛ほども警戒していなかったリーサは、見事にその隙を突かれた形となる。
分身に夢刀を持たせ、リーサの気を反らしたシュナの策略にまんまと引っかかった。
「――アンタが警戒していることに、アタシが気づいていないとでも思ったの?」
背後。最後まで分身に身を潜めていたシュナが、今度こそリーサの首を取りに迫る。
「シュナ……!!」
「死ぬのはアンタだリーサ!!」
反応が致命的に遅れている。リーサが後方に距離を取るよりも、シュナが前方に距離を詰める方が早い。
矢筒は空。短剣も尽きた。打開策を思考する時間も残されていない。
リーサの指が右腿の革ケースへと伸び、一瞬躊躇してから、先端に鏃のついていない白い枝を取り出した。
コレは保険だ。最後の手段だ。できるなら使わずに済ませたかった。
「くそッ!!」
自らを吠え立て、右足を踏ん張り、後方に向かう勢いを踏み潰す。
シュナを真っ向から睨みつける。
カルラに斬られ、垂れた右腕。それでも片手の短刀を防ぎきる自身はリーサにない。ならばと、
「シュナァアアアアアア!!」
彼女は防御を捨てた。
相打ち覚悟で左手に構える弓に矢を灯す。その覚悟を悟ってか、微笑を称えるシュナの笑みが深まる。
その表情がリーサに怒りを与える。殺意を蘇らせる。
時間が緩慢になり、空間が遅延する。
0.1秒が遠く、体感時間が極限まで引き伸ばされる。
そしてシュナがリーサの間合いに踏み込んだ瞬間、時が加速した。
同時にリーサは《ヤドリギの矢》を放った。