第124話 峡谷
「――うひょぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおっ!!」
奇声――もとい喜声を上げながら、ウィー・リルヘルスは落ちていた。
どこまでもひたすらに、峡谷を堕ちていく。
その深さ200メートルは下らない。
どうしてこの危機的状況を楽しんでいるのかと問われれば、ウィーが変人なのだとしか答えようがない。
元々好奇心旺盛な性格なのだ。
風切り音に紛れ、水音がウィーの聴覚に届くことから、どうやら峡谷の真下は川に通じているらしい。
かと言ってこの高さから着水すれば即死は免れない。
両手両足を器用に使い、ダメージを最小限にして岩肌を削り速度を殺していく。
水表まではあっという間だった。
水面ギリギリで落下速度を完全に殺し、ウィーは壁面に突き立てたクナイにブラブラぶら下がる。
「や〜。たまにはバンジーもいいっすねぇ〜。こう、胃が浮く感じとか」
未だ興奮冷めやらぬウィーは、戦闘中だということを忘れ、その小さな頬を蒸気させている。
しばらくして現実を思い出したのか、霧のかかる遥か谷頂を見上げ、それから視線を戻し左右大河と岩肌を数回往復させた後、
「いや、まじっすか……? これ登るしかないんすか?」
現実を直視できずに項垂れた。
忍であるウィーならこれくらいの絶壁登れなくはない。
幼少時から鍛え込まれ、どんな場面でも生き抜く術を教えられている。
しかし登れなくはないのだが、登りたくはないのだ。できることなら。
これでも身体は力の弱い女の子。何せ崖上りは体力と魔力の消費がハンパない。
いっそ川上に登ってみるか? と思考を凝らす。
現在地は黒の王国と赤の王国の繋ぎ目、どちらかと言えば岩石地帯を見るに赤よりだ。
真っ直ぐ行けば海にでてしまう。遠回り。却下。
ならば川下は? と思悩する。
しかしはっきり言ってどこにでるかわからない。
まずこんな場所に川があるなど聞いたこともないのだ。地上ではなく地下に繋がっている可能性の方が高い。却下。
「なんてことしてくれんすかシュナ。この仕打ちはあんまりっすよ……」
うわぁ、と重い溜息と一緒にポーチからクナイを取り出そうとして、
「もしや、そこにいるのは棟梁ですか……?」
聞き覚えのある声に、ウィーの小さな耳がピクリと反応する。
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崖の上。霧の平原では今も影と風の両者が命の削り合いをしている真最中である。
かたや、その優美な整顔を怒りに染め、品格を捨て殺意に身を焦がすエルフが。
かたや、その艶色な麗顔に喜びを乗せ、戦いに愉悦を見出す忍が。
互いの目的のため、あるいは執念のためその手に握る得物に力を込める。
短剣と太刀が、音を上げしのぎを削る。
「弓使いが接近戦に持ち込まれた時点で負けだって、投降すれば命までは奪わないけど?」
「忘れたのか? 剣術でお前が私に勝てたことは一度もない!!」
「そりゃ10年前の話でしょ?」
殺気を纏わせ魔力で加速された突きを、笑って易易と躱すシュナにリーサの舌打ちが飛ぶ。
「ほら。利き腕が使えなくなったってこの程度。アタシは強くなったけど、どうやらアンタは腕が落ちたんじゃない?」
「抜かせ、裏切り者がッ!!」
怒声と共にリーサの動きがキレを増した。
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声の聞こえた方に首を曲げると、そこにはボロボロになった闇衣を着る長身の忍の姿があった。
「カク、カクさんじゃないっすか!? え、生きてたんすか!!?」
「ハハハ……」
元棟梁の驚嘆の叫びに、苦笑混じりになんとかと力無く答えたのはカクザ・ハマベであった。
豪雨などで水かさの増した時にできたであろう岩の足場は、人一人が寝返りも打てない程に狭い。長身のカクなら尚のこと、到底人間の居住スペースとは言えない代物である。
しかしそこは流石〝忍耐える者〟。即ち忍者。
どれだけ狭かろうが硬かろうが寂しかろうが関係ない。立ってでも寝れるよう訓練を受けている。勿論鬼畜棟梁に。
あの地獄のような特訓の日々のおがげで、カクは今生きていると言っても過言ではないのだ。
トントンと軽い足取りで岩肌を移動し、カクの前にウィーは足を降ろす。
浮遊感が抜けておらず硬い地面に感慨を受けているウィーに構わず、カクは情報の確認を始める。
「棟梁がここにいるということは、ヤマトは無事里に情報を持ち帰れたのですね」
「そっす。ヤマトが1人で半べそかきながら帰って来た時は大変だったんすから」
陽気に応えるウィーは、もう1人の忍――テイルの所在は問わなかった。
漂流した枝を使い布で固定してあるカクの腕を横目に、ウィーは声のトーンを落とし、労いの言葉をかける。
「まぁアレっす。その怪我でよく生きててくれたっすね」
カクは膝をつき、1人の忍として棟梁に頭を下げた。
「はっ……」
それから何か思い出したようにカクは頭を上げた。
「それで、棟梁はお一人ですか?」
まさか生きてるとも知れぬ自分を助けるために、わざわざ峡谷に落ちてきたわけではないだろうと。
そして棟梁を降りたからといって、こんな任務にウィー程の大物を1人で動員するとも思えなかった。
何より、ところどころ傷ついているウィーの裂傷が気になった。
そんなカクの不安を知ってか知らずか、ウィーは今も尚霧に覆われた峡谷を見上げる。
「上にリーサとカルラさんが。今も戦ってるっす」
たらり。カクの背筋に冷や汗が流れる。
「……戦っている? 見張りのあの男と、ですか?」
あの男? とウィーは首を振り「シュナっす」と声を改めた。
途端カクの形相が焦燥に変わる。
「棟梁今すぐ2人を止めて下さ―――ぅっ!!」
「な、なんすか急に!? 折れてるんなら無理に動かない方がいいっすよ?」
激痛の走る折られた右腕に左手を添え、痛みに歯を食いしばりながらも、心配を浮かべる少女にカクは続けた。
「……誤解なんです、棟梁。シュナは……あの子を殺してはいけませんっ! シュナとリーサを、助けてやって下さいっ!!」
「落ちついて下さいっす! 何が、何があったんすか……? カクさんは何を知っているんすか?」
峡谷に落とされる直後、耳打ちされたシュナの言葉が蘇る。
あの状況で首骨ではなく腕を折り、あたかも殺したように見せかけ峡谷に自分を逃したシュナのことを――。
「あの子は、あの子は今も……1人で戦っているんですっ!」
そこへ、ザッ、と。
音を立て、二人の前に現れる者がいた。