第121話 女神と魔女
薄暗い自室にこもり、マーズは一人研究に没頭していた。
目の前に突き刺した研究対象を眺めながら、椅子に足組み珈琲を啜る。
「失礼します、ウィザード様!」
部屋に声が響き、そして蒼い髪の青年がマーズの研究室に顔を見せた。
「ふふっ。急に呼び出しちゃってごめんなさいね」
「いえ!とんでもございません!!」
マーズの微笑に青年はブンブンと首を振る。
それから部屋を見渡し、おずおずと口を開いた。
「それで、用とは……?」
青年の声音は震えていた。よく見れば顔も青白く、怯えているように感じられる。
マーズの部下たる青年は知っていた。
過去一度たりともマーズに呼び出され無事に部屋を後にした者はいないことを。
マーズは部下をただのモルモットとしか見ていない。だからこそ部下に何も期待せず、何も命令を下さない。
知識を求め貪り続ける暴食の魔女の餌として死を待つだけなのだから。
震える青年をその目に、マーズは微笑みを浮かべた。
マーズの人となりを知らない者から見れば、美人から向けられる笑みに鼻の下を伸ばしているだろう。
しかしマーズを知っている者から見れば、美人が故に、その死を呼ぶ妖艶な笑みに歯の根が合わなくなる。
「この剣を振ってみてはくれないかしら?」
マーズの視線を追うと、青年は床に突き刺してある漆黒の剣を見つけた。
「この剣を、私に、ですか……?」
見たところ何も感じられないただ黒いだけの剣。しかしマーズが振れと言った剣だ。ただの剣でないことは間違いない。
「ええ。もし振れたのなら、ご褒美と言ってはなんだけど、あなたの願いをなんでも1つ聞いてあげるわ」
その発言に、青年はピクリと固まった。
マーズの顔から視線を落とす。豊満な胸部。くびれた腰。臀部から伸びる柔らかそうな太腿。
ゴクリ。青年は口に溜まった唾を飲み込んだ。
「"なんでも"ですか?」
「ええ、なんでもよ」
珈琲カップを机に置き、マーズは腕を組み、足を組み変える。
気づけば青年は嗤っていた。
絶望の縁に希望を見出し、青年は黒剣の元まで歩を進める。
再度マーズを見つめ、勇気を決し青年は剣に手を伸ばし、そして―――触れた瞬間"終わり"が青年を襲った。
「うっ、な、うぁぁああ!!? 腕がッ…………う、あぁぁッ!!!??」
触れた箇所がサラサラと黒い砂へと変質していく。
咄嗟に剣から離れるも、全ては手遅れだ。
終わりは指から腕を伝い、胴体へと伝染を始める。
数秒もしないうちに腕が消え、さらに数十秒後には青年の存在自体が世界から消失した。
絶叫を上げ絶命していった青年を眺め終わると、マーズはふぅと一つ嘆息し、そしてまた珈琲を啜った。
「やっぱり。契約者以外が神器に触れることはできないみたいね」
落胆せず結果だけを受け止め、マーズは次の実験を考察する。
さて次はどうしようかしら、と机上の菓子に指を伸ばした時。マーズの目の前で、ソレは起こった。
「…………」
なんの前触れもなければ兆しもなく、剣から黒い靄が漂い始めた。
マーズが目を釘付けにして見守る中、剣が溶けてできた靄は、さらに形状を変え、見る間に人の形を成していった。
何色にも染まらない不変の漆黒の髪に、見る者全てを魅きつける黒紫の瞳。
肌色は黒い髪とは対象の、汚れを知らない白色。
まるでドレスのような仕上がりの黒い服を身に纏った女神が、ふわりとその場に顕現した。
「当たり前だ。ただの人如きが神に触れようなどとはおこがましいとは思わないのか?」
揺れる前髪の奥で、リヴィアの瞳は冷たく温度を失っていた。
「ふふっ。ならその人如きと契約を交わすあなたは神ではないのかしら?」
冗談を交えてみるも、目の前の女神はニヤリともしない。
それはそうだとマーズは苦笑する。乱暴に拉致され、すこぶる機嫌が悪いようだし。
「かつて世界の破壊を司ったとされる女神リヴィア様」
その発言に、リヴィアが反応を見せた。
「私のことを知っているのか。なら話は早い。今までのことは水に流してやろう。だから今すぐ私を開放しろ、人間」
「ここに来るまでの数々の無礼はお詫び致します。しかし開放と言われましても……それはできない相談です女神様」
そんなマーズの謝罪を、リヴィアは一瞥した。
「黙れ。これは相談ではない命令だ。これ以上私を怒らせるな」
今のリヴィアからは、かつて世界を恐怖に染めた『破壊神』の雰囲気が滲み出ていた。
「あら怖い。怖くて怖くて濡れちゃいそう」
睨みつけられ萎縮するマーズだが、しかし。
「――でも。今の貴方には何もできない。
力を奪われ存在を剣に封じられ。首輪をつけられ人に飼われる哀れなあなた様には」
憤怒を滲ませるも、リヴィアは反論しなかった。否。できなかった。
「……何が目的だ?」
「目的、ですか。女神様にあんなことやこんなことをしてもいいのですけれど。そんなことをしてしまえばそれこそ貴方様は口を閉ざしてしまわれるでしょう」
マーズは机に腰かけ、不気味に笑った。その瞳が恍惚とした光を浴びる。
「なんと勿体ない。私は知りたいのです。
この世の始まりと終わり。真実や歴史や真理を。
何千年もの間互いに牽制し拮抗していた貴方様方が一同に敗北した600年前。
何が起こったのか。そして誰が唯一神となったのか」
心の奥底から渇望する知識欲。
世界の理を求めるがために島を抜け、欲を貪り続ける暴食の魔女は言った。
「女神様は目的は何だと問いましたね。
私にとって、帝国のことなど割とどうでも良いのです。私はこの世界の理を知りたい。
フェンリル様は何もご存知なかった。いや記憶が欠落していた。
3大神と讃えられたリヴィア様のお話を聞ける機会など、二度と訪れないでしょう。
私は、貴方様と言葉を交えたいのです」
言い切り、ほんのり頬を赤らめながら、魔女は女神に微笑んだ。
お前の知識を私によこせ、と―――。
❦
「暇だな〜。こりゃアイツが嫌んなるのもわかる気するわ〜」
ゴツゴツとした岩肌に腰掛け、シュナはぼそり愚痴を溢す。ここにはいない彼に向かって。
「少し、言い過ぎちゃったかなー」
数時間前の会話を思い出し、シュナは空を見上げた。ダーリーがよく見上げているこの曇天を。
自分は気持ちを伝えることが下手だとシュナは自負している。
いつだってそうだった。さっきも。あの時だって……そうさ。
もっと他に言い方があったんじゃないのか。
もっと他のやり方があったんじゃないのか。
『あの時後悔したかって、後になって後悔してな』
シュナの脳裏に血潮が舞う。記憶が蘇る。
「はっ。特大ブーメランじゃねぇか」
そんな己に笑ってしまう。笑わなければやってられるかとばかりに。
「―――」
その直後だった。
シュナを射抜かんとばかりに、白塗りの矢が放たれたのは――。