第117話 目には目を。忍には忍を。
「あっはっ。何してんだアンタら?」
カク達が追っていた黒服の先頭の女。あの薄桜色の髪。いつの間に近づいたのか、全く気づけなかった。
女の紫紺の瞳が笑っていた。
そしてその女の手に握る鏡面の輝きを放つ太刀が、テイルの胴体を貫通していて。
「……クは、ん。ひげへ、くはひゃい――――」
声帯を切られたのか、テイルの声は掠れている。ゴボっと吐血する。
テイルのこと。黒服の女のこと。
「……………」
全てを置き去りに、岩石を蹴りカクは後方に飛んだ。瞬間。女のいる岩場が爆発する。
「けほっ、けほっ……。捨て身の自爆とか流石は忍だわ〜。まだ生きてる仲間を見捨てて逃げる方も逃げる方で、いや〜〜
……ほんっっと救えねぇな」
爆破の煙に軽く咳をする女は無傷。
テイルの死を無駄にしてなるものかと、カクは振り返らず一目散に出口へと向かう。しかしそれを阻むかのように、新たに黒服の男が立ち塞がった。
「伝書鷲ねぇ。ありゃもうダメだ。追いつけねぇわ」
瞬時に腰の短刀を抜き、カクが男に斬りかかるが、しかし男は余裕でその全てを躱して見せた。
やる気の感じられないその仕草とは裏腹に、この男見た目以上のやり手だ。
カクは短刀を握りしめたまま、即座に忍術を行使する。
「甲賀流忍術 陰ノ書 第拾捌節 中伝《霧幻分身》!!」
「お?」
有り難いことに、この霧に満たされた湿地のおかげでより多くの分身を生み出すことが可能だ。
50にも勝るカクの分身が現れる。
その全てが洞窟に向かって駆け出したとあれば、いくら男でも全てを対処することは不可能―――。
「目には目を。忍には忍をってことわざ知ってる?」
男は笑った。
「ってことで、よろしくシュナ」
嫌な予感を感じながらも、カクは必死に走り続けた。
「甲賀流忍術 陽ノ書 第弐拾伍節 上伝《嵐舞疾風》」
忍術が唱えられ、どこからともなく豪風が吹き荒れ、辺り一面の霧を吹き飛ばした。当然、霧で作られた分身も全て、跡形もなく吹き飛んだ。
霧が晴れ洞窟へ――とではなく、左方に跨る峡谷へと向かうカクの姿は丸見えになる。
「分身全部を洞窟へ向かわせ注意を逸らしている合間に、迷彩で薄くした本体は峡谷へ、か。この短期間でよく考えたもんだ」
男は素直に賞賛を送った。
あと少し。あと少しで谷に到達するというところで、カクは首と右腕を背にして押さえつけられた。
「…………ぐっ、ぁ!!?」
キャンパスに色が浮かび上がるように、女の姿が宙に色を帯び始める。
カメレオンの擬態に近い忍の使う背景同化の忍術などとは一線を画す、完全なる透過能力。
カクはこの力の正体を知っていた。
「けど残念。霧幻分身じゃなく、幻影分身だったのなら事は変わってた。惜しかったね、おっさん」
その呼び方に、カクは容貌を悲痛に歪ませ、押し殺していた記憶と共に耐えきれず彼女の名を叫んでいた。
「シュナ……覚えていないのか? 俺だ、カクだ! カクザだ!!」
時が経ち顔も体型もだいぶ変わってしまったが、彼女があのシュナ・ラダーであるとカクは確信していた。
「かつての同胞か?」
男が言った。
「さぁ? どうだっただろう。昔のことは覚えてないなー」
「――――」
シュナの発言に、カクは言葉を失った。
その様子を見ながら、男がすごくめんどくさそうな顔で。
「あー。顔見知りなら、俺が変わってやろうか?」
シュナが振り返り、男に笑いかける。
「アンタのそういう気遣い、マジ好きだよダーリー。惚れそうになる」
「だけど」とシュナの紫紺の瞳が細められ「この男はアタシの客だ」
手を出したらぶち殺す、と。言葉に出さずとも男は察したのか上げた両手をぶらぶらと振ってみせた。
忍として。本来ならば拘束された直後に自決を図るべきなのだ。拷問され情報を吐き出す前に。自決できるときに自決するのが忍というものである。
しかし。カクにはどうしても聞かねばならぬことがある。
「………最後に教えてくれないかシュナ」
どうしても聞きださねばならぬ真相がある。
「どうして、お前はラドルを殺したんだ?」
抵抗を止めた身体で、脱力した声で、子どもにいたずらの理由を問うように、
「何か理由があったんだろ? なぁそうだろうシュナ? 里を抜けたことだって………。
俺はわかってんだ。お前が優しい女の子だってこと、わかってんだよ。
だからシュナ、教えてくれよ。本当のことを、さ……。
違うって、間違いだって、理由があったんだって、言ってくれ……シュナ」
それは半ば懇願に等しかった。救いを求める信徒のようにカクは祈った。
嘘でもいい。だから、嘘だと言ってくれないか。
「そんなの。アタシが帝国側にいること自体が答えでしょ?」
「――――――ぁ」
その言葉を耳にし、拘束に抗うことをカクは止めた。
わかっていた。そんなことは、初めからわかっていたことなのに。
そう信じて止まなかった。
それだけを希望に生きてきて、死んだと思っていたシュナが生きていて、それで…………。
「にしてもやってくれたねアンタ。あーあ。帰ったら帝王くんに怒られちゃうよ。どうしてくれんだか」
「……ぐ、っ………ぁ」
ミチリミチリと首の骨が軋む音がする。しかしカクの耳には何も聞こえない。何も感じない。
部下を殺され、唯一心の支えも打ち砕かれたカクにとって、あるのはただただひたすらに喪失感だけだった。
「………ぁ」
ふいに薄桜色の髪が揺れ、カクの耳に唇を寄せ、男には聞こえない大きさの声でシュナが一言囁いた。
「シュ、ナ、お前……」
その言葉にカクの瞳孔が目一杯に広がるが、しかし。
「――アタシの名前を気安く呼ぶな」
ベキンッと骨の砕ける音がした。
シュナの残酷な笑みと、声にならぬ悲痛な静叫が峡谷に響き渡る。
「あーあ。いったそ」
男が他人事のように呟く。
「黙って死にな」
シュナは悲痛に喘ぐカクを、まるでゴミでも捨てるかのように谷に放った。
霧で谷底は見えない。骨を砕かれたカクには、空中でできることは何もなく、伸ばした左手は空を切る。彼の姿はすぐに霧に飲まれて消え失せた。
その哀れな姿を見下しながら、
「バイバイ。おじさん」
シュナは感情の失せた眼と声でそう呟いた。
「あーあ。アタシとしたことが、つけられてることに気づけないとは」
くるりと谷に背を向け振り向いたシュナは、まるで何もなかったかのようにころりと感情を裏返す。
「クソジジイが五月蝿いだろーなー」
「……」
「あー。でもジジイならまだしも、ユーキくんにバレたらまじで殺さちゃうかも♪」
「………」
「………」
ぐきっ。沈黙を決め込む男の脇腹に、シュナの肘が突き刺さった。
「……いッてぇ!? 何すんだよ?」
よろめきながら男が叫ぶ。そんな男にシュナもシュナで不満をぶつける。
「何すんだよじゃねぇよ。何か言えよダーリー。さっきから。乗りが悪ぃ奴だなー」
男――ダーリーは己の脇腹を撫でながら、シュナを横目で睨む。
「なら言わせてもらうけどな……その"演技"いつまで続ける気だよ?」
「あ。バレてた?」
ダーリーの指摘に、隠す気もなくシュナはクスクス上機嫌に笑う。
「ばればれだっつの。伝書鷲が飛びたってすぐはタイミング図りすぎだっつの」
「だってー。この方が面白くなりそうじゃん?」
「知らねぇよ。俺は別に楽できりゃあなんでもいいんだ」
ケタケタ緊張感のないシュナ。それを横目で「けど」とダーリーは警告を口にする。
「今のはラインギリギリを攻めすぎだ。悪くすりゃ死んでたぜ、おまえ」
「なーにー心配してくれてんのダーリー?」
シュナはいつになく嬉しそうな面持ちで、ダーリーの顔を下から覗き込んだ。
「お前に死なれると困るんだよ、色々とな」
「あっは! カッコイイダーリー。結婚しよ」
腹を抱えて笑うシュナ。
「バーカ。お前が死ぬと俺の仕事が増えるんだ。死体埋めんのも墓を作る身にもなってみろ。死なれるとめんどくせぇことしかねぇんだよ」
「とか言っちゃて〜。愛してるよぅダーリー」
ダーリーは心底めんどくさそうに言う。
それが彼の本心なのだということをシュナは知っていた。しかし自分で言っていて気づかないのか。
めんどくさいめんどくさい言いながらも、そのめんどくさいことを自ら進んでやろうとしている辺り、バカなのかお節介焼きなのか、恐らく天然なのだろうとシュナは思っている。