第107話 ずっと目を逸らし続けた先に
自室のベッドに横になり、月を見上げていた。
いや、星を見上げていたのかもしれない。月か星かなんてのは今の俺にとっては些細な違いに過ぎず、夜空を見上げているという大雑把な表現の方が正しいのだろうから。
『――君の優しさでは、娘を助けることはできない』
脳裏にアルキュラの言葉が蘇る。
『一晩やろう。今日は帰り、明日またここに来るといい。その時、再度君に問おう。
逃げたければ逃げればいい。それも手だ。しかし君が思っている以上に、血契は吸血鬼にとって神聖なものだ。それはアリシアとて変わりはない。
娘と向き合い、よく考えることだな』
あれからのことはよく覚えていない。
どうやって家まで帰ってきたのか。帰り道アリシアと何を話したのか。心待ちにしていたパーティーでさえ、食卓に何が並んだのさえもうる覚えだ。
「ふぅ………」
息をつき、肺に酸素を。能に血液を送る。
「結婚、か………」
言葉に出すだけで現実味が増した。
結婚ということはつまりあれだ。夫婦になるということだ。
いずれは俺も誰かと結婚し所帯を持つのだと、持てればいいなと頭のどこかに思い描いていた。
しかし、それはもっと後の話だ。
20を越え30になる手前くらいの予定だった。
その予定が大幅に短縮されただけではあるが、それでもまだ17歳だ。
フィーナとリヴィアもいるし、まだ家のローンを払い切れていない現状、アリシアと結婚したとしてこれから先食っていける自身はない。
………いや、待て。アリシアは俺の血さえ飲めればいいわけだし、家のローンぐらいアルキュラ公ならポケットマネーで……。
いやいやそれこそ待てだ。金の話はこの際どうでもいい。
アリシアのことを考えてみる。
白い肌と紅色の瞳。さらさらときめ細かな金髪。顔も整っているし、体格も出るとこが出て締まるとこが締まっている。
性格も気品も仕草も。どこをとっても文句の付けようがないくらいデキた女性だ。
そんなアリシアと並んで歩けるほど俺はデキた男なのだろうか。彼女に釣り合う男なのだろうか。
そして無性に胸が締め付けられるのは何故だろう。
羞恥と期待。緊張と不安。焦燥と罪悪感。
本当のところアリシアは俺のことをどう思っているのだろう。
好きだ好きだと言ってくれるが、それは本心からの言葉なのだろうか。演技ではないのだろうか。
あの場で生き残るためには俺の血を飲む他にアリシアには選択肢がなかった。
本当は俺の血を飲むのは嫌だったんじゃなかろうか?
もしかするとアリシアには好きな男がいたんじゃなかろうか?
ああだったんじゃないか。こうだったんじゃないか。
考えれば考えるほど泥沼に沈んでいく。
そんなとき、ふいにリヴィアの顔が頭をよぎった。
部屋の隅で剣のまま眠りにつくリヴィアを横目で見た。
ツェペシュ家で神器化したきり、リヴィアはずっと剣のままである。
一緒に婚約の話を聞いていたはずなのに、彼女は何も言ってこない。
俺がアリシアと結婚すると言ったら、リヴィアはどう思うだろう。
喜んで祝福してくれるだろうか。それともやはり怒るのだろうか。
ならば尚の事どうしてリヴィアは擬人化しないのか、という疑問が浮かぶと同時に、俺は気づいた。
俺はリヴィアに婚約を反対してもらいたいのだと。
無意識の内に俺は、アリシアとの婚約を断る理由を探していたのだと。
「…………っくそ」
現実から逃げていた自分自身に対し腹がたった。
断る理由を他人任せにしていた自分自身に対し腹がたった。
「どこまで……どこまで俺は」
自らを叱咤しようとしかけた正にその時。
コンコンと部屋の扉を叩く音がした。
考え事に夢中で、階段を登ってくる者の気配に気づけなかった。
誰だ。カルラじゃないのは確かだ。アイツはノックなんてしない。
残るは2択。俺は胸の内からフィーナであることを望んだ。が、しかし俺の直感はそのどちらでもないことを告げていた。
「入るよ、ヴィレンくん」
直感した通り、アリシアの声だった。
起き上がり、返事をしようか迷っていると、無言を肯定と捉えたのかアリシアが扉を開けて中へと入ってきた。
「隣、いいかな?」
「……ああ」
努めて俺は"いつも通りの俺"を演じる。
アリシアが隣に腰を下ろす。木材でできたベッドの土台がギシッと小さく悲鳴をあげた。
「リヴィアちゃんは?」
「疲れたんだろ。そこで眠ってる」
「そっか」
短い会話が途絶え、部屋に静寂が訪れる。気まずい空気が流れる。
「ねぇ、ヴィレンくん」
先に口を開いたのはアリシアだった。
「今日の……婚約の話なんだけどね」
「……ああ」
何と切り出されてもいいよう、俺は黙って次の言葉を待った。
アリシアは天所を見上げ、そして―――
「結婚するの、やめよ」
「………へ?」
予想外の切り込み。喉から変な声がもれた。
呆然とする俺に「だーかーら!」アリシアは再度繰り返す。
「結婚の話はナシにしよう!」
ぱちんと両の掌を鳴らす。まるでこの話はこれでお終いとばかりに。
「いや、それじゃアリシアの親父さんが……」
「お父様にはなんとかわたしが相談してみるよ。大丈夫。お父様だってきっとわかってくれる。だから。ヴィレンくんが心配することは何もないから」
早口に理由を並び立てるアリシアに、俺は何も返せなかった。
彼女が見せる刹那気な表情に、俺は言葉を失った。
アリシアの白い手が俺の顔に触れる。
「だから、お願い………」
そのまま俺の頬に親指を押し当て、
「笑って」
アリシアは弱々しく笑った。
「だってわたし………ヴィレンくんのそんな顔、見たくないよ」
………ああ。
そこでようやく俺は理解した。
いつも通りの表情を作っていたつもりが、どうやら失敗していたようだ。なんたる失態だ。そうか、俺は笑えていなかったのか。
婚約という大きな問題に苦悩する俺と同じように、いやそんな俺を見てアリシアもまた苦しんでいたのだ。
「困らせちゃってごめんね」
この子は心が綺麗な子だ。だから他人の痛みを背負おうとする。
「迷惑かけちゃってごめんね」
この子は優しい子だ。だから全ての責任を抱え込もうとする。
俺の知っている高貴でプライドの塊のような吸血鬼共とは違い、彼女は弱者の気持ちをよくわかっている。
アリシアは1ヶ月という短くも濃厚な時間の中で、俺の中の吸血鬼種に対するイメージを大きく変えてくれた。
中にはこんな少女もいるのだと。こんなにも優しく、笑顔が絶えず、甘えん坊の吸血鬼がいるのだと、俺に教えてくれた。
そしてなにより。
アリシアは―――、
1人の女の子なのだ。
「わたしなんかで………ごめんね」
笑顔の隙間から溢れ落ちる一筋の雫を見て―――。
「それは違う、違うぞアリシア!」
気づくと、俺はアリシアの肩を両手で掴んでいた。
驚きを顔に浮かべるアリシア。
咄嗟に声を上げてしまって、次の言葉は考えていなかった。
頭に浮かんだ単語を合わせ、なんとか文章に変換していく。
「謝るのは俺のほうだ……アリシアはこうなることがわかってた。だからあの時、お前は俺の血を飲むことに反対したんだ。それを俺は、アリシアの気持ちも考えずに、その行為がどれだけ大切なものかも分からずに、嫌がるアリシアに無理やり血を飲ませちまった……」
アリシアに血を飲ませた行為事態に関しては、俺もあれが最善だったと思うし、あれ以外アリシアを助ける方法はなかった。
だから血を飲ませたことを俺は後悔していない。
そんなことより、俺なんかより可哀想なのはアリシアだ。一生俺と一緒に生きなきゃならなくなったアリシアだ。
だから俺が唯一後悔しているのは……
「あの場に駆けつけたのが、俺でごめんな」
隠しているだけで、アリシアにも好きな男がいたのかもしれない。
しかし俺の血を飲んでしまったせいで、その時点でアリシアの運命は確定してしまった。
それだけが……それだけが俺にとって、一番大きな後悔だった。
「そんなこと………そんなことないよ!!」
だが、それをアリシアは否定する。
「あの場に来てくれたのがヴィレンくんだったから!! ………ヴィレンくんじゃなかったら、わたしは誰の血も飲まずにあそこで………」
一度目を伏せ、そしてまた顔を上げる。その表情が全てを物語っていた。そう。例えば、その言葉が優しい嘘ではないということを。
「だから。わたしはヴィレンくんの血を飲んだことに感謝してるし、後悔なんてこれっぽっちもしてないよ。
あなたが来てくれたから、わたしは今ここにいるんだよ。
奴隷だって構わない。あなたの側にいられるのなら」
「…………俺なんかで、本当にいいのか?」
そんな言葉が、俺の口をついて出た。
アリシアは小さく首を振る。
「なんかじゃない。あなたがいいの」
アリシアのその一言で、俺の中の『覚悟』が決まった。
今の今まで背を向け、言い訳を並べ逃げていた覚悟が、今ようやく決まった。
だからこそ。俺はアリシアに伝えなくてはならない。
「アリシア。俺はお前に言っとかなきゃならないことがある」
これから俺が言おうとしているのは、男としてこれ以上なく最低な発言だ。最悪な発言だ。
アリシアをこれ以上傷つけてしまうことは間違いないだろう。
だけどそれでも、俺は言わなきゃならない。
「アリシア。俺には、…………俺には好きな女がいる」
ずっと前から。アリシアに出逢うもっと前から。俺には好きな女がいる。
フィーナと三人で泣き笑い喜び、ときには喧嘩もした。
俺が打ちひしがれた時。訓練でボロボロになった時も。ずっと俺の側にいてくれた。支えてくれた。
そう。俺はリヴィアが好きだ。
アイツの笑った顔が好きだ。意地っ張りなところが好きだ。負けず嫌いなところも好きだ。とにかく、全部好きだ。
だが、リヴィアに告白する勇気は今の俺にない。だからせめて、それだけはアリシアに伝えておきたかった。
欲を言うなれば、今の言葉を神器化しているリヴィアが聞いていることを願って。
好きな女に好きの一言が言えない、軟弱な俺にできるせめてもの言い訳だった。
俺の告白を受けアリシアは「うん」と頷く。
悲痛な顔を見せるどころか、まるで。そんなことはずっと前から知っていましたよ、と言わんばかりに微笑んだ。アリシアの覚悟は揺るがない。
「だから、それでもいいなら……っつったらあれだけど」
不安そうな瞳で見つめてくるアリシアに向け俺は言った。
「俺と結婚してくれ。アリシア」
アリシアが見せた溢れんばかりの笑顔を、きっと俺は生涯忘れないだろう。
「……はい。2番目でもいいから。わたしをヴィレンくんの隣においてください」
それから俺達は、どちらとも言わず互いの唇を重ね合わせた。
はっきり言って俺は俺の気持ちがよくわからない。
嬉しさと同時に罪悪感が胸を締め付ける。
ただ1つわかっていることは、アイツを想う気持ちと同じくらい、アリシアのことを守ってやりたいという気持ちもまた本物であるということだけだった。