第102話 鬼と蚊
「……鬼牙種か」
吸血鬼種と同じく最上位魔族に類される鬼牙種。
血のドーピングや圧倒的な回復力を誇る吸血鬼とは違い、鬼牙はただひたすらに硬い。
大木を素手でへし折る並外れた腕力。分厚い皮膚は矢を弾き剣を砕く。
単眼種や牛鬼種の完全なる上位互換に値する。
そんな鬼牙の弱点といえば、最上位の中でも頭数の多い吸血鬼と比べ、その個体数が極めて少ないということだけか。
改めてエルザベートは眼前の鬼牙を値踏みする。
幾つもの古傷跡残る巨腕は戦慣れしている証。片目が潰れているようだが、もう片方の眼からは戦好きの鬼牙特有の鋭く尖った眼光が鈍く光っている。
なに他の鬼牙となんら変わらない。と言うか、他種の顔などいちいち覚えてはいない。
ああ、でも。この鬼牙に限って言えば………
「変わった服装をしているね。鬼牙は皆ファッションセンスなど気にしない生き物なのだと思っていましたが……」
エルザベートの指摘に、鬼牙は背に羽織っている黒色の衣を鬱陶しそうに睨んだ。
「その認識は間違ってはおらん吸血鬼。全く以て邪魔な代物だ。このような物を好いて身につける種の思考が分からぬ」
その言葉を聞き、エルザベートは思わず吹き出した。
「ふふふ、ふはははははッ!!」
腹を抱えて笑うエルザベートを鬼牙が睨む。
「何が可笑しい吸血鬼よ」
込み上げて来る笑いが止まらないエルザベートは、そのまま小さく首を振った。
「すみません。不覚にも笑ってしまいました。
なにせ今の言い方ではまるで"鬼牙ともあろう者が何者かに飼われ、無理やりに服を着させられている"と。そう聞こえてしまったもので」
「主君の命に従うのは道理である。それとも何か、貴様は魔王の命に背くのか?」
その単語を聞き、エルザベートは小さく舌打ちした。
「魔王………今はその名すら聞きたくはありませんねぇ」
その反応で鬼牙は察した。
「なるほど。群れをなし獲物を刈ることしかできぬ臆病者の連中が、なに故単独行動しているのか今理解した」
「臆病者、ですか……」
確かに吸血鬼は群れを成さねば鬼牙は落とせない。それほどまでに圧倒的な実力差、いや個体差が両方の間には存在する。
しかし――。
「―――舐めるなよ、鬼牙如きが」
しかしそれはあくまで一般の吸血鬼と鬼牙の話だ。
吸血鬼種の中でも名門中の名門。貴族の中の貴族。ブラッドの血を引きその当主となるはずだったエルザベートであれば、一界の鬼牙と戦っても引けを取らない。
それにエルザベートはつい先程食事を摂取したばかり。
ドーピング状態にある今のエルザベートは、魔王軍幹部の鬼牙――即ち"現最強の鬼牙"と互角……いや、互角に渡り合うことが可能だ。
つまりただの鬼牙などエルザベートの敵ではない。
「最強の鬼種を前に随分と威勢がいい。だがあまり調子に乗るなよ、吸血鬼風情が」
「ふふ、辺境暮らしの鬼牙にはこの顔もわからなくて当然です。
この私『銀血鬼』エルザベート・ブラッドを知らないとはつくづく幸せ者だ」
「ほぉ……二つ名持ちとは。貴様魔王軍幹部か」
「だったら何ですか? 尻尾を巻いて逃げ出しますか?」
魔王軍幹部にいた父の席を譲り受け、僅か3年という異例の短さで席を外されたものの、エルザベートが魔王軍幹部だったという事実は変わらない。
「いや何。それは嬉しくも悲しきかな、と思ったまでのこと」
「残念ですが今更後悔してももう遅いです」
エルザベートの紅瞳が縦に細まる。これは吸血鬼特有の戦闘開始の合図だ。
今にも飛びかかってきそうなエルザベートを見て鬼牙は嘲笑う。
「貴様は何か勘違いをしているようだな吸血鬼。嬉しいと言ったのは使えそうな駒を見つけたことであり、悲しいと言ったのは魔王軍幹部のレベルがまさかここまで落ちぶれているということにだ」
鬼牙は余裕を崩さずに続ける。
「しかし殺すのは惜しい。エルザベート。我が部下になれ」
今度はエルザベートが笑った。
「聞き違いでしょうか、部下になれ? 元とは言え魔王軍幹部であるこの私に向かって? 冗談ならもっとマシな……」
―――ゾクリ。
エルザベートの背筋が大きく震えた。
空気が凍てつき、大気中の魔力がキンキンと悲鳴を上げる。
「いいか良く聞け吸血鬼。貴様が選べる選択肢は二つ。オレと共にくるか、それとも死ぬか。選べ孤高なる吸血鬼よ。これで2度目だ3度目はない」
1歩。無意識にエルザベートは後ろに下がった。
………無理だ。
エルザベートは悟る。
この鬼牙に自分は勝てない、と。
エルザベートは直感する。
魔王軍幹部に席を置く鬼牙よりも、目の前の化物は遥かに強い。それどころか魔王にまで迫る実力を持っている………。
エルザベートは混乱した。
エルザベートの父であるウラド・ブラッドなど、魔王軍幹部を降りた者は別として、魔王軍幹部よりも強い魔族がいるなど聞いたことがない。
相当な実力があれば魔王城に呼びだされるし、何よりエルザベートの耳にも届くはずだ。
いったいコイツは何者だ。
そこでエルザベートは違和感に気づく。
鬼牙が羽織っている、黒毛の獣毛に覆われた肉体には酷く不釣り合いな黒衣――。
エルザベートの脳裏に疑問が浮ぶ。
上着のことを笑った際、鬼牙は『主君の命に従うのは道理である』と口にした。
だが。魔王バロルは鬼牙に服を着ろなどと命じたことはないはずだ。幹部の鬼牙も然り。そんな細かいことなど気にする奴ではない。
ならば、奴の言っている『主君』とは何者だ―――?
魔王クラスの化物を従える化物ですか………笑えない。
魔王クラス………魔族の王。
そしてエルザベートは思い出した。
災悪の記憶を思い出した。
「鬼牙王――……」
王―――その名の通り数百年に1人、種の中でも以上に突出した力を持ち産まれてくる者のことをそう呼ぶ。
最下位の子鬼種ですら子鬼王の実力は最上位魔族に匹敵する。400年前に誕生した先代の吸血鬼王は魔王軍幹部統率に選ばれ、先代魔王の右腕としてその力を奮ったと聞く。
それほどまでに王の力は絶大なのだ。
「その名で呼ばれるのは何百年ぶりか。久しく耳にしておらん」
エルザベートは記憶を辿る。
うる覚えではあるが、確か先代鬼牙王は罪を犯し現魔王バロルに処刑されたはず。
だが。もし……もしも奴が生き延びていた場合……。
一般の鬼牙の寿命は250年だ。そして先代鬼牙王が誕生したのは約300年昔。
しかし鬼牙王ともなれば、300年以上生きていたとしても………。
エルザベートは乾いた喉を唾で潤し、記憶にあるその名を口にする。
「まさかお前は……いや、貴方は…………」
その問を、鬼牙は肯定した。
「我は牙。『殺戮者』成り―――」