第二二話 魔人
凄絶なプレッシャーを発するそれは、ゆらゆらと覚束ない足取りでゆっくりと近付いていた。
人間ではあり得ない不気味な紫の肌。地面を擦るほどまでに長く伸びた白髪。緩慢な歩みと共に揺れ動く前髪からは、ちらりと覗く紅い瞳。そして、大きく引き裂かれた口許は……冷たく嗤っていた。
「まさかこのような場所で再び相まみえようとは……」
厳しい面持ちで零すアドルフ。その声音には深い感慨が込められているかのようだった。
アドルフはあの正体を知っている……?
震える唇を必死に動かし、アドルフに問う。
「あ……れは……何……?」
「あれは……魔人じゃ。魔に取り憑かれ、堕ちた本物の化け物よ。ガンドレの奴……無謀にもほどがあるじゃろうがッ」
グッと握り締められた拳は微かに震えていた。
圧倒的なまでの存在感。芯から震え上がらせる恐怖の波動。あれが……魔人。魔に堕ちた本物の怪物……。
あれはヤバイ。本能が激しく警鐘を鳴らしている。話には何度か出ていたが……ここまでだとは思いもしなかった。
「逃げ……ない……と……」
本能に従って後退る俺。だが、震え上がった身体では思うように力が入らず、崩れるように尻餅をついてしまう。
無様に転んだ俺をアドルフは一瞥すると共に告げる。
「ゴブのすけ、身体の自由が戻った後、嬢ちゃんを連れてすぐに逃げよ」
「ア……ドルフ……?」
「あ奴は……あ奴だけは必ずや、儂の手で息の根を止めなければならんッ」
悲壮な覚悟を滲ませるアドルフ。己の命を賭してでも成し遂げようといわんばかりだ。
確か、アドルフは魔人を追っていたはずだ。一体、アドルフと魔人に何の因縁が……。
その答えは、続くアドルフの言葉で示された。
「……亡き親愛なる友の忘れ形見。そして……儂の初めての弟子――イリーガル。あ奴だけは儂の手で魔の呪縛から解き放ってやらなくてはならんのじゃッ」
あの魔人が……アドルフの弟子!?
以前、魔法を教わった時に少しだけ話に出たアドルフの弟子。あの時のアドルフの悲しそうな顔ははっきりと覚えている。まさかアドルフの弟子が魔人へと堕ちていたなんて……。
魔王を討伐し、英雄となった大魔術師――アドルフ・フォーミラー。彼が名誉ある地位を放棄してまで聖国を離れた理由……その理由が目の前に。
ゆらゆらと緩慢な動きで歩んでいた魔人は、ある一定の距離まで近付いてくると、不意に足を止めた。
「アド……ルフ……サマ……?」
呪詛のような掠れた声音。それだけで俺は心臓が鷲掴みにされたような根源的な恐怖を感じる。だが、アドルフは違った。平然と、それでいてどことなく親しみのある声で答えた。
「久しいのう、イリーガル。凡そ五〇年振りかのう。今の今までどこをほっつき歩いておった? 随分と探したわい」
五〇年……ずっとアドルフは魔人――弟子イリーガルを追っていたのか……。己の手で殺す為だけに……。
「アド……ルフ……サマ……?」
「そうじゃと言っておろう。まぁお主と最後に会ったのも随分と前じゃ。儂も年をくい、こんな老いぼれになってしもうた。お主は……変わっていないのう。あの時のままじゃ。禁呪に手を出し、魔に堕ちた……あの時とな」
口調は穏やかだが、その裏には深い悲しみが込められているかのよう。
対する魔人イリーガルには、もはや自我は既に喪失されているのか、アドルフの声を聴いても茫然としたままであった。
「ふむ……もはやあの心優しい少年だったお主は失われてしまったのじゃな。ならば、もう何も言うまい」
胸中を吐露したアドルフ。話は終わり、後は殺り合うだけだと言わんばかりに、表情を引き締めた。
雰囲気が一変したのを敏く感じ取ったのか、魔人イリーガルは、ビクッと身体を一瞬震わせる。そして、カクンと首を九〇度傾けると、三日月のような口許を更に一層歪めた。
「アド……ルフ……サマッ!」
仄暗い歓喜。魔人イリーガルは叫ぶと同時に地を駆った。それは今までのような緩慢な動きとは異なる鋭い超加速。
空気を穿ち、急迫する魔人イリーガル。アドルフは杖を構えると、即座に魔法を放つ。
「〈火葬柱〉ッ!」
直線的な突進を見越しての絶妙なタイミング。魔人イリーガルを飲み込み、立ち昇る巨大な火柱。草原に爆音が轟く。
「〈白刃〉ッ!」
続き、アドルフは魔法を発動。杖先に白い刃を纏わせた。
瞬間――ブワッ! と、弾けるかのように消し飛ぶ火柱。
直撃を受けてもなお、平然と疾駆する魔人イリーガル。身体から煙を上げながらも、瞬時に間合いを詰める。
地を蹴り、飛び上がった魔人イリーガルは、大きく上体を引き絞ると、鋭い拳撃を放つ。
凄絶な膂力が込められた拳を、アドルフは〈白刃〉で受け止めた。
雷鳴の如く鳴り響く衝撃音。放射状に衝撃波が駆け抜けるッ。
身体に力の入らない俺、失神しているソフィは成す術もなく吹き飛ばされ、地を転がってしまう。
「ほ、ほう……中々の力じゃのう。全く衰えてはおらんか」
「キャハハハッ!」
間近で顔を突き合わせる二人。苦しげなアドルフに対し、魔人イリーガルは嗤っていた。まるで己が力をぶつける相手を見つけ、歓喜するかのように。
停滞は一瞬。バッと互いに距離を取った二人は、即座に地を駆り再び激突。
此度は鍔迫り合いとはならず、激しい攻防と相成った。
キャハハと高らかに嗤い、怒涛の連撃を繰り出す魔人イリーガル。対するアドルフは防戦一方だ。
魔人イリーガルが鋭い正拳を放てば、アドルフは刃で逸らし。
急所を突く刺突を繰り出せば、身を捩って躱す。
注意が疎かになった足許を狙った蹴撃には、一切慌てることなく華麗に柄で受け止める。
だが、魔人イリーガルの凄まじい攻勢に、アドルフは反撃する隙を見出せないでいた。
殲滅戦では〈白刃〉を以って獅子奮迅の活躍を見せたアドルフだが、本職は魔術師だ。何とか魔人イリーガルと渡り合えているものの、現状苦しい防戦を強いられている。
立ち替わり入れ替わり、高次元の戦闘を繰り広げる二人。
「クッ! 以前よりも力を増しよってッ!」
「キャハ、キャハハハハ! アドルフサマァァァアアアッ!」
余裕のない表情のアドルフ。一方、魔人イリーガルは愉しげに嗤っている。
「ゴブのすけ! まだ動けんのかッ!」
攻撃の応酬を凌ぎながらアドルフが叫ぶ。しかし、俺はまだ無様に地に転がったまま動けずにいた。
魔人イリーガルが放つ圧倒的な恐怖と重圧。大半がアドルフに向けられているものの、その余波だけでも尋常ではない。一度身に覚えた敗北感に未だ抗えずにいる。
――何で……何で動けないんだッ!
《特殊能力「闇の波動」による効果です。力量差のある相手を行動不能に陥れるアクティブスキルです》
クソッ! よりにもよって特殊能力かッ! 何とかならないのか、ラファッ!
《申し訳御座いません。現状、マスターに特殊能力「闇の波動」に対抗する術はありません。しかし、ご老人であれば有用な手があると推測されます》
おいおい、アドルフは今必死に戦っているんだぞ!? なのにアドルフ頼りかよッ!
《大変申し訳御座いません、マスター……》
重ね重ね謝意を示すラファ。どことなく落ち込んだ雰囲気が伝わって来る。
……ラファに当たるのは違う。対抗できない俺自身が悪いんだ。クソッ! アドルフの力になれないばかりか、足を引っ張るなんて……。
アドルフが不得手な近接戦を挑むのも、背後にいる俺たちを慮っての事だろう。情けなく、悔しい思いが胸を熱く苦しく締め付ける。
俺は唇の端をクッと噛み切った。流れる一筋の血、口内に広がる鉄の味。
僅かばかりか、痛みが恐怖を凌駕し、思うように口が……動くッ!
「アドルフ、奴の「闇の波動」をッ!」
呪縛の間隙を突いて、俺は力の限り叫んだ。
「チッ、厄介なスキルを持ちよってッ!」
舌打ち一つ。アドルフは苦々しく零しつつも、即断即決。すぐに打って出た。
凄まじい連撃を掻い潜り、絶妙なタイミングで放たれた袈裟斬り。
アドルフが見せた初めての反撃――白の刃が魔人イリーガルに襲い掛かるッ!
魔人イリーガルは――ニタァと凶悪に嗤っていた。
左腕を掲げ、ガード姿勢を取りつつ右拳を引き絞る魔人イリーガル。ガードと同時にガラ空きの胴へ拳撃を放つ算段か。
白の刃がガードの左腕に激突――軽い衝撃音と共に跳ね戻った。
「キャハハ――」
勝機に沸く魔人イリーガル。引き絞った拳を放ち――
「グッ!」
――直前、ガラ空きの鳩尾に喰い込む杖の逆端。
一体何が起ったのか判らないと目を剥き、後方へ吹き飛ばされる魔人イリーガル。土埃を舞い上げ、地を抉るかのように滑っていく。
俺にはハッキリと見えていた。アドルフが放った袈裟斬りはフェイクだ。激突の瞬間、力を抜き、敢えて刃を撥ね戻させ反転。握った手を支点にし、反動を加味しつつ、杖の逆端で強打したのだ。
剣術ではなく杖術。大魔術師アドルフ・フォーミラーだから繰り出せた妙技。
しかし、勝負の趨勢を決する一打にはなり得ない。現に、土埃の奥、魔人イリーガルが立ち上がる様子が見て取れた。
「ふぅ……儂も老いたようじゃな。お主相手に出し惜しみしている場合ではなさそうじゃ」
スゥと、深く息を吸い込むアドルフ。そして、高らかに術句を唱えていく。
「〝古より灯えし太古の炎、連綿と継がれるは火の意志
穢れなきは純真、浄化の力によりて、還るは塵
今こそ我が命の煌めきを以って、魂の炎を注がん〟」
溢れ出す膨大な魔力。可視化するまでに高められた魔力が、幻想的な煌めきを放つ。
「イイッ! イイッ!」
圧倒的な魔力の高まりに、魔人イリーガルは歓喜の声を上げていた。
それも束の間。直ぐに腰を落とし、前傾した瞬間、魔人イリーガルは矢の如く飛び出した。
地面を砕く暴力的な疾走。瞬く間に間合いを詰めていく。
急迫する魔人イリーガル。それでもアドルフは一切慌てる事なく、朗々と詠唱を続ける。
「〝契約を結びし我が名は、アドルフ・フォーミラー
創生の炎を纏いて、不浄なるを無へと還す者なり
火の意志の導きによりて、いざ蘇らん〟」
猛進する魔人イリーガル。詠唱を紡ぐアドルフ。激突する二人の視線。
最早、二人が再び衝突するまで幾許かの猶予も残されていない。
魔人イリーガルは拳を引き絞り。
アドルフはカッと目を見開く。
そして、間合いへと踏み込んだ魔人イリーガルが狂声を上げながら拳撃を放ち――アドルフが叫んだのは同時だった。
「ヒャハハァァァアア!」
「『火焔天鎧』ッ!」
――ゴォォォオオオ! と大気を揺らす大轟音。周囲一帯を覆い尽す巨大な火柱が立ち昇った。
「マ、マジかよ……」
俺も否応なく巻き込まれ、視界が赤く塗り潰された。だが、不思議と熱さは感じない。
熱く……ない? 炎に包まれているのに、まるで温泉に浸っているかのような心地よさだぞ? それに何となくスッと心の負荷が無くなったような……。
《固有能力『火焔天鎧』の副次効果により、「炎帝の加護」が付与されました。特殊能力「闇の波動」による状態異常が解除されています》
なるほ――って、固有能力だって!? 待て待て待て! え……固有能力って、あの固有能力だよな?
《はい。固有能力は特殊能力よりも上位に位置し、また、世に二つとして存在しない唯一のスキルです。『あの固有能力』で間違いありません》
おいおいおい……スキルのインフレにも程があるだろッ。でも、これできっとアイツに勝てるはずだ。
徐々に収まりつつある炎。視界が晴れるとそこには緑豊かだった草原は見る影もなく、周囲一帯が焦土と化していた。
その中心にいるのは――。
「あれが……〝炎帝〟……」
燃え揺らめく朱色の炎の鎧。圧倒的な存在感。全身に炎を纏わせた姿態は、まさしく〝炎帝〟の名に相応しい。威風堂々とした佇まいは、畏敬の念を感じさせる。
俺の〈炎衣纏尽〉に似通ってはいるが、その実、魔力量も魔力密度も桁違いだ。
――アドルフの固有能力『火焔天鎧』。
英雄と称えられる〝炎帝〟が、遂に本気を出すッ!