恋に落ちたら
柿の一ツだけなのを熟っと観ている。
全体が微醺を帯びたように染め上がって若やいで観える。白磁の大皿に落ちた影は小さく、またかつ、ほくろのようだ。その当たり前なのをどう描こうかで迷っている。手元で控えた小皿に点滴された水も、埃が落ちた他は醇乎なままでいる。
不図した拍子に、やせ脛を床机の肢の角でしたたかに打った。悶々とこいまろんでいるうちに、柿が無傷でゴロンとこちらまでーー、向いた顔の生酔ひ(なまえい)なのに、にわかに亢じていきおい引っ掴むと、果肉が毀れ汁が滲み出て来て、指の縁を伝い、付け根で玉になったのを認めた。追いかけるように舌先を小さく痙攣させながら近付けた。瑞瑞しく湛えられた接線にもうすぐで触れるという時、ほとんど繊維の筋がおぼろになった果肉の皮が、爪先にやっとでいるのに気付いた。摘み糊の残った面を指頭に捺した。目に星が散るように閃いた。
粗目の水彩紙を湿らせ、パレットに作っておいた金赤を筆で刷いて潰し、事前に中指大のマスキング液を点綴させていたのを剥がす。その上に親指を寝かしてやはり同じ金赤で果肉の皮を戻すように、剥がした跡の輪郭を暈しながらこすっていく。不揃いに浮かび上がるので本当らしくないが、不思議な人肌の的が出来てようやく得心がいった。
一筆加えて落款を捺した。婆さんが襖の一寸開いていた先にいて、鼈甲縁のメガネをずらし、ずっと遠くを見る目でこちらを窺っているのに気付いた。木枯らしのように出がらしの茶を運んで来た。がぶりと飲み干したのを見届けると、分からないような事を一言してすぐ立って行った。熟れた匂いが残った……いや、柿の皮の破れたところから香ってくるのだった。意外な期待をして裏切られたのだ。「それにあいつの手と脛ときたら!圧せば戻りの遅い青白く透けた肌に、シミと笹くればかりが目立って、その上を野分が吹いているのだ」そう考えている前で、どうしようも押さえきれない笑みが顔に泛かんでいた。口中に熟柿の甘味が沁みてくる。舌なめずりをして、やにわにしゃぶりついた。渋柿だった。