第二話
その翌日、俺は残業で帰るのが遅くなってしまった。明日の取引先で使うプレゼンの資料をまとめるのに時間が掛かってしまったためだ。何せわが社の社運を賭けた取引だ。確りした商談ができるよう入念にチェックした。これで明日は大丈夫だろう。
ふらふらと疲れた体に鞭を打ち、駅のホームへ向かう。途中階段で躓きそうになった。自分ではわからないが相当体に疲れが来ているらしい。
「はぁ~……。本当に疲れたぁ~……。早く帰ってシャワー浴びて寝よう……」
小さな声でそう呟く。誰が聞いているわけでも、聞いてくれる人がいるわけでもないが。
徐にスマホを取り出し現在時刻を確認する。画面には21時00分と無慈悲に表示される。
『まじか~……。明日8時だろ? 全然寝られないよ……』
時計が告げる悲惨な現状に打ちひしがれ、心が救いを求めたのか昨日の女性のことを思い出す。一連の出来事とはいえ、なぜか鮮明に覚えているのだ。クリッとした瞳。すらっとした佇まい。厚い唇、そしてなによりあの素敵な笑顔である。
『あの人……。可愛かったな~…。将来結婚するならあんな子がいいよなぁ~』
そこからなぜか、家は二階建ての一軒家で子供二人くらい作ってとか、結婚式あげるなら協会がいいなぁとか、まともに話してもいない女性と脳内で色々妄想を繰り広げている。
「あの~」
『また会えないかな。会ったら絶対連絡先交換してやるぞ!』
「あの~」
『あ、でも今日はもう帰っちゃってるのかな~……』
「ん、あのー!」
「はい!?」
突然右側から大きな声がした。それに驚き俺はベンチから軽く飛び跳ね下に尻を打ち付けていた。
「痛っ……」
「あっ! 大丈夫ですか?」
「あぁ……。大丈夫、大丈夫……。ってあれ?」
自分の尻をさすりながら声のした方向へ顔を向けると昨日の女性が心配そうにこちらを見ていた。
「君は……」
「ごめんなさい急に話しかけちゃって……」
「ああ。いいよいいよ。気にしないで」
「昨日のお礼がしたくて声かけちゃいました」
「隣、座ってもいいですか?」
彼女がベンチのほうを指さす。
「あ、どうぞ。」
二人でベンチへ座る。俺は少々戸惑ってしまった。何せさっきまで隣の女性で色々あんな事やいけない事を考えていて、その女性が今まさに隣にいるわけで…。
「今帰りですか?」
件の女性が話を掛けてきた。
「あー。ちょっといつもより時間かかっちゃって、こんな時間に帰りなんですよ」
「一緒ですね~。私も仕事が終わらなくて」
「あらら、一緒ですね」
「ねっ」
(ねっておいおいかわいすぎるだろおお!)と心の中で勝手に興奮する俺。何やってんだか。
「はっ。そうだ」
そう彼女は言うと、姿勢を直し俺のほうへ向く。
「昨日はありがとうございました。とても急いでいたので本当に助かりました」
深々と頭を下げる。俺は手を横に振る。
「いやいやそんな大した事してないですよ。頭下げなくても」
そう言う。
それを聞き彼女は頭を上げ笑顔を見せてくれた。
俺はまた心がぎゅっと締め付けられるそんな感覚に陥った。それを振り払おうと今度は俺から話しかけることにした。
「あー。そう言えばまだ名前聞いてないでしたね。俺は斎藤輝樹。よろしく」
「私、相沢美香って言います。よろしくお願いします」
「美香さんね。よろしく」
「私この街に引っ越してきたばっかりなんです」
「え、そうなの?」
「はい。転勤でこの街に来たんです。だから電車の時間とか全然分からなくって」
「ああ、だからあんなに慌ててたのか」
「そうなんです! もう焦っちゃって。輝樹さんはこの町に住んでもう長いんですか?」
「んー、僕はこの街はまだ三年ってとこです」
「そうですか~」
「あれ、そういえばあの時ホームにいたって事はあの電車に乗るためですよね?」
「あーそうですね…」
「…なんで乗らなかったんですか?」
俺はその質問にどう答えればいいのかわからなくなった。
まさか『君の笑顔に見とれてしまって、電車に乗ることなんか忘れてしまってさ』なんて言えるはずがない、口が裂けても言えない。
「あのー。大丈夫ですか?」
俺が黙ってしまったからか、美香はこちらをのぞき込む。と同時に電車の到着を知らせるベルが鳴る。
「……あ! 電車来ましたよ。乗らなきゃ」
いそいそと立ち上がる。
「あ、そうですね。はぁ~疲れた。やっと帰れる~」
美香も立ち上がり伸びをする。
その後二人は電車に乗り、他愛のない世間話を交わす。それぞれの会社の上司がきついだの怖いだの。スマホのゲームの話など。美香の降りる駅が俺より早かったためそこで分かれる。
「楽しかったです! また会ったら宜しくお願いしますね」
美香はそう言い電車を降りた。
美香に手を振り、電車が走り始める。俺は腰が砕けたように座席に座った。まさかまた会えるとは思ってなかったから本当に驚いた。
「……あ。連絡先聞くの、忘れてた……」
自分の不甲斐なさに落ち込みながら次の駅で降りたのだった。