伏恋に始め5
後ろから感じる巨大な圧力に滝のような冷や汗をかきながらも、後ろは決して見らず答えを待つ。
しかし陸帯はというと、手の隙間からチラリと比奈の方に視線を移していた。
かと思うと、ゆっくりと徐々にしかし確実に後ずさっていく。
可愛らしい顔を、真っ赤に染め、ひきつらせながら、苦笑いしながら、泣きそうになりながら。
百面相を彷彿とさせるほど、なんとも表情豊かで忙しそうだ。
俺もそんな様子を察して、比奈を見ようとした瞬間だった。
それはもう一瞬のことで、頭にこれまでのとは比べ物にならないくらいの拳大の衝撃を受けた。
同時に何かがパリンと割れる音。
あぁ、これが友情が壊れた音なのかとそう勝手に被害妄想を膨れ上がらせる。
しかし、みるみるうちに身体はどんどん二人と離れていった。
何もしていないのに離れていっている、まるで都会とド田舎の生活が掛け離れているように、まるで世の中と隔離、隔絶、隔たりを設けられたように、身体は風を切っていた。
「ってそれはおかしいよな!?」
少しだけ残っている冷静さで考えるとすぐ答えにたどり着く。
すなわち、間違いなく落下している。
しかも校舎は学校の二階だ、その窓から落下しているとなると無事ではすむまい。
いや、ここはポジティブに考えよう、四階建て校舎の屋上からじゃない分だけましだと思えば気が楽に……全然ならない。
しかしながら、落ちてみると案外冷静にしているものらしい。
外から見てる人は俺をどう見てるのやらだが、公園で遊んでる子供だったら、空飛ぶ勇者かなにかだろうか?
その間にも風を切っている背中の圧力は増している。
スーパーで買い物してるオバサンなら、まぁ最近の若い子は元気ねぇとでもいっているのだろうか?
やっぱり俺って天才じゃないのか?
落ちてる間にもこんなこと考えれるなんて、来年には生ける伝説になってるな。
そんなことを思いながら、風と一体となっていく。
だがそんな楽しい時間も十秒も持たず、やがて襲ってきた衝撃と共に漆黒の瞳を閉じた。
カチャカチャ……
プシュープシュードカーン!
実験してるかのような音と共に、俺は漆黒色の瞳を開けた。
見れば、さっきまでの景色とはまるで違っている。
真っ白な天井に、雲一つ無い快晴の天気が目に入ってくるこの場所。
よく見覚えがある、時々目的を持ってよく通う場所の一つだ。
授業をサボるためはもちろん言うことも無けりだろうが、一番はそこではない。
「あたたた、まーた失敗かぁ。今回で三十六回目だっけ?
唾でもつけとけば治るかな? 私の皮膚は複雑怪奇だからなぁ。」
女の人にしては若干低めのこの声、そうこれを聞くために通っていたのだ。
いつものことだけど、複雑怪奇ではないと思いますよ。
心の中で蟻の行進の音の如く呟いた、それと同時に窓とは反対側の、仕切りの奥から聞こえてくる柔らかな美声、カツンカツンと近づく足音。
そして、仕切りを越えると姿がうっすらと見えてくる。
白い肌と目にかかるぐらいに揃えられた黒い前髪、純白のナース服。
変態なら心の底からこう思うんだ、素晴らしい!
「あれ? もう起きて大丈夫なの?
香蓮君は怪我するのが大好きなんだね、今回は飛び降り自殺をしたかったんだっけ?
まあ奇跡的にかすり傷一つないんだけどね、命は大切にしなきゃ、悪い子だぞぉ。」
ニコニコと笑いながら言われるとなんだかそんな気がしてくる。
といいますか、二階から落ちても痛さが残らない俺の身体ってある意味怖い。
一つ上の学年だが、何故か保健室にいて、ナース服で登校していて、危ない実験ばっかりしている夏加瀬酉魅さん。
モデルにならないかと誘われたこともあるらしい程の美しさ。
ふっ、俺は理性を保つのに精一杯だよ。この笑顔でドンブリ三杯はいけるな。
周りから笑い声が聞こえてきそうだが、冗談ではない、本気の変態だぞ。
「できればそれは冗談がいいな、じゃないと僕は香蓮君に犯されちゃうじゃないか。
あっでも自己紹介はありがとね。誰にしたかは知らないけど。」
ふむ、そうだった。
しまった、すっかり忘れてしまっていた。
油断するとすぐこれである。
正直な所はよくわからないが、酉魅さんは何故か心が読めるらしい……と本人は言っている。
それだけなら簡単には信じないが、なにせ何回か言い当てられているので認めておくしかない。
とりあえず俺は告白の前に緊張しすぎて逃げ出してしまったチキン男のように、またエロい妄想してしまったと強く後悔しよう。
「んーとりあえず、僕にイヤらしいことを妄想の中でやらせるのやめよう。」
どこまでが本当でどこまでが嘘かは定かではないが、酉魅さんの話は嘘半分に聞かなければと思う。
結論から言うならば、それすなわち美しいからこそ許される。
それが俺の世界の美学だ!
「んー本当なんだけどなぁ。
といいますか最低な美学だね香蓮君。」
そうボソッという声と共に、ガラッとスライドドアを開ける音が見知った顔の二人と共に耳に入り込んできた。
それは俺みたいに酉魅さんが目当てで来たのではなく、いや俺も決して酉魅さんを目当てで来た訳ではないが。
いや本当に今回は違う。
そんな俺の様子見をしにきた比奈と陸帯である。
その二人は、前に来ると何故かクスクスと笑い始めた。
比奈にいたっては酉魅さんに向かって親指を立てる始末である。
いよいよもって何が何だか分からない。
「鏡……」
そんな所に陸帯が、小さな両手で持ったハンドミラーを渡してきた。
春と漢字でデコレーションされた鏡。
可愛い鏡だ、貰っちゃおうか。
顔がギリギリ写るぐらいしかない手鏡は、しかし今の状況を知るには充分すぎるぐらいだった。
その鏡に写った自分の顔を見て、絶叫が部屋中に響き渡る。
それと同時に授業終了の鐘がなり、急いで顔の落書きを消した。
といっても油性ペンで描かれていたため、頬に少しペケ印が残ってしまう、何ともヤル気のおこらない顔だこと。
「ところで陸帯、今のって何時限目のチャイムなんだ?」
「わ、私に……聞いたの?」
「うん、陸帯が一番信用性が高いからね。」
本当に、比奈は言うこともないだろうが、それに負けじと酉魅さんも相当ひねくれている。
この二人に至っては信用性はほとんどないに等しいのだ。
陸帯は何故か頬を少し紅潮させていた。
熱でもあるんじゃないだろうかと心配になるが、背の小さい女の子が病弱というのも悪くない設定だ。
「い、今のは……
その、えと、四時限目が終わったチャイムだよ。」
四時限目と言うと、どうやら結構な時間を寝て過ごしてしまったらしい。
そんなことを考えていると、茶髪を掻き分けた少女が顔を覗き込んできた。
さも心配そうにこっちを見る顔は、いつもと違う顔で、ちょっと新鮮で、凄く違和感を感じてしまう。
「どうしたんだよ比奈。
大丈夫だよ、ありゃ俺のせいであって、お前のストロングパンチのせいじゃない。
だから気にしなくていい。」
比奈は目をパチクリとさせたかと思うと、ニッコリと微笑んだ。
話題をすり替えるように言葉を紡いでくる。
「春羽、香蓮ちゃん、昼休みだし約束してたパフェを食べに行こうよ。
あ、良かったら酉魅さんも一緒に行きませんか?」
あっ、ストロングパンチはスルーかよ。
急に話を振られた酉魅さんは、一瞬目を丸くして俺たち三人を見渡したが、ニッコリと笑って首を横に降っている。
「僕は今回は遠慮するよ。比奈の邪魔をするわけにもいかないしな。」
「ちょっ、ちょっ酉魅さん、そそそ、そんなことは、何言ってるんですか!」
そう言うと、比奈は顔を林檎のように真っ赤にそめあげていた。
「比奈、僕に隠し事が通じるとでも思っているのかい?」
クスクスと笑いながら、そんなことを言う酉魅さんをよそに、俺と陸帯は首をひねっていた。
「と、とにかくパフェ食べにいってきますね!
春羽、香蓮ちゃん行くよ!」
何故かアタフタしながら言う比奈は、足早に保健室の白いスライドドアから出ていく。
俺たちも酉魅さんに一礼してから比奈の後を追いかけた。