思い出の絵
甲斐甲斐しい看病のおかげか、翌朝にはイチはすっかり元気になっていた。
俺のおかげだな、とにやつくジローに珍しく素直にお礼を言って、帰ったら美術館に行くと伝えて家を出た。
自転車は志村に貸しているので、徒歩で学校へ向かう。
ジローの反応から、美術館に対して何か苦手意識のようなものを持っている気がした。不思議に思いながら歩を進めるうち、いつの間にか到着していた。
にじんだ汗を小さなタオルで拭いながら、いつものように教室の窓を開ける。カーテンから差し込む日差しに、キャンバスが斑に照らされていた。
昼を少し過ぎたころ、イチは手を止めて伸びをした。
机の上に開いていたスケッチブックを閉じる。構図は大体決まっていたので、下描きは終わらせた。
あとは色だけだと、味気ないキャンバスを眺めて何度目かわからないため息を吐いた。
やはり、本格的に煮詰まっているようだ。風邪だけではなく、もっと爽やかな気晴らしも必要だろう。
美術館に行くのは、自分の精神衛生にも効果的かもしれないな、と思いながら、イチはスケッチブックを鞄にしまう。
と、後ろから突然声をかけられた。
「いっちゃん、人物画ってめずらしいね」
振り向くと、今日は髪を結っていない志村が驚いたような顔でこちらを見ていた。
どうやら無事だったらしい。二日前に借りて行った自転車の鍵を左手に持っている。
「あ、チャリありがと。なんかあんまり人いなくて快適だったよ、一人焼肉」
「それはよかった。自転車は無事?」
「えっ、なんで? 超無事だよ!」
そんな乱暴な運転しないよ、とけらけら笑う志村に、台風が彼女に敵うわけはなかったかとイチは苦笑した。
「それにしても、いっちゃんは人物画で来るかあ……うーむ、なんかチャレンジって感じなの?」
大げさに顔をしかめて尋ねる志村にちょっと考えて、イチはその猫のような目を細めた。
「まあね。どうしても描きたい色があるから」
「へえ……」
感心したような気の抜けたような声を出して、志村はぐしゃぐしゃと頭をかいた。
「あああー、そういやあたし描きなおしだ! がんばんないとなー!」
どうやら志村も煮詰まっているらしい。
イチは志村の絵を思い出して少し苦い気持ちになりながらも、荷物をまとめて立ち上がった。
「じゃあ頑張って。帰りは窓、頼むね」
「あれっ、もう帰っちゃうの?」
ぼさぼさの髪のまま恨めしそうに見上げてくる志村は、見た目だけは妖怪のようだ。イチは道具やキャンバスを片づけながら答える。
「ちょっと気晴らしに美術館行こうと思って」
「ああ、茜沢の?」
「そう」
「デート?」
「デート、ではないけど……」
同居人に恩返しをするために、とも言いにくい。
言葉に詰まったイチに、何を勘違いしたのか、志村は華やかな笑みを浮かべて手を振った。
「今度あたしともデートしようね! いっちゃん!」
「考えとく」
「つれないなー!!」
大げさに泣きまねを始めた志村を無視して、イチは廊下に出た。なんだかスルースキルがどんどん上がっている気がする。
志村とは、一緒に出掛けるとしても美術館には行けないだろうな、と思いつつ、イチは自転車置き場へ向かった。
「美術館なんて、一人じゃきっと行けないからな、諸々の理由から」
「人相とか世間体とかですか?」
「そういうんじゃねえよ!」
なんだ、思ったより元気そうじゃないか、とイチは昨日まで風邪をひいていた自分を棚に上げてジローを評する。乗り気ではないように思っていたが、案外恥ずかしいからとか、そういう理由なのかもしれない。
自転車で家に帰ったイチは、ジローと共に美術館に向かった。茜沢美術館は、イチの家から歩いて二十分ほどの距離にある。
軽口を叩いていたジローも、美術館の入り口まで来ると、すっかりおとなしくなっていた。どうやら緊張しているらしく、そわそわと落ち着きがない。
中に入って学生証を取り出して見せると、受付カウンターに座っていた五十代くらいの女性は黙って頷いて、手元の用紙に判子を押した。
所在なさげに辺りを見回していたジローに進路を指さして、静かな館内を歩き出す。さすがに見学者はまばらで、老人や夫婦らしき二人組がのんびりと見て回っているようだった。
「入館料とかいいのか?」
「茜沢美大の生徒は無料なんです。三人までなら同行者も無料なんですよ」
「そうなのか……」
相変らずそわそわとしているジローを尻目に、イチは慣れた順路をさくさくと進んでいく。小学生のころから知っている美術館で、常設展などは作品の順番を覚えているほどだ。
きょろきょろと作品を眺めては立ち止まるジローを定期的に振り返って確認しながら、イチは目的の絵に向かって進んでいく。
その絵は、常設展の最後のあたりに展示してある。
非常口のライトをくぐった先にあるそこは、茜沢市出身の芸術家の作品を集めてあるエリアだ。美術大学があることからか案外芸術家が多く、彫刻や版画の作品なども飾られている。
イチはその中の一枚を前にして立ち止まり、後ろを振り返った。そして、のろのろと歩いてくるジローに、自分の左手の絵を指さした。
「ジロー、これですよ、待ち受けの絵」
小声で言うと、ジローは指の先に視線をやって、静かに目を見開いた。
それは、茜沢市出身の若き芸術家が描いた夏の日の一枚だった。
題は『憧憬』という。
呆然と立ち尽くすジローに、やはり本物は迫力が違う、とイチは満足げに微笑んだ。
初めてここで見るらしいジローの邪魔をしないようにと少し離れて、イチも改めてその絵を眺める。
この絵は数年前に追加された絵だが、相変らず素晴らしい。
明るい青のグラデーション。降りしきる雨のような色の帯の奥に、重なり合った幾何学模様が張り巡らされている。
水泡のような白は、よく見ると小さな花のようにも見える。夏の絵だとされているが、淡々と涼しげなのも特徴的だ。
どこか懐かしいような感じがして、イチはこの絵が好きだ。無機質な幾何学模様と対照的な晴れやかな色合いも絶妙だと思う。
イチはこの芸術家が好きだが、作品数は極端に少なく、残念に思っている。彼はこれを描いた後に、若くして事故で亡くなったのだそうだ。
ジローはまだ、微動だにせずに『憧憬』を眺め続けている。
何か思う所があるのかもしれないと、イチはとりあえず先に行くことにした。
常設展の最後の絵の前で、イチは足を止める。
ぽつんと一枚だけ離れて飾られているそれは、ひときわ大きく印象的だった。
これはイチが覚えている限りずっとここにあって、同じように一つだけ離されていた。無理もないと思う。これは志村が描く絵と似た、周りの全てを喰らいつくしてしまうような作品だ。
イチは静かにそれを見上げる。絵を描きたいと思ったのは、これを見てからだったな、と目を細めた。
題名は『斜陽』。
これも夏の絵だと聞いた。
爽やかで落ち着いた印象の『憧憬』とは対照的に、黒と他の色とのコントラストが鮮やかな絵だ。
場所は公園らしく、よくあるような遊具や木々が描かれている。が、彩色は鮮烈の一言に尽きる。夕陽に照らされている場所は極彩色で、それ以外の影になっている部分は闇を染めたように真っ黒だ。
宝石のような木々の葉、ピンクの象、オレンジ色のブランコ。鮮やかすぎるそれらは安っぽく見えて、だからこそ闇色に映え、美しい。
イチは物覚えがいい方で、幼いころ眺め続けたこの絵のことは特に鮮明に覚えている。しかし、久々に本物を目にすると、その変わらぬ眩しさにまた魅了されたようで、少し悔しくも思った。
もう一度だけ『斜陽』を眺め、振り返って同居人がまだ来ないことを確認して、イチは出口へと向かった。