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カラフの色彩  作者: 緒明トキ
青き日の憧憬
8/22

家主の風邪

「おはようございます」

「イチ!? なんだその声!」


 扉を開けてがらがら声で挨拶をすると、よっぽどひどかったのか、慌てた様子でジローが近寄ってきた。

「今朝からこれで……ぇっくしょん! さっぶ……」

「おいおい、風邪か? 体温計どこだ、体温計」

「うちにそんなものはありません」

「はああ!?」

 不健康の塊みたいな生活してるくせに、とジローがぶつぶつ言っている間に、イチはうがいでもしようかと洗面所へ向かう。のろのろと方向転換し、廊下へと一歩踏み出した。

 が、膝に力が入らず、よろけてドアに手をつく。

 心臓がばくばくと音を立てている。本当に転ぶかと思った。

「……おいおい、重症じゃねえかよ」

 ちらりと目をやると、支えようとしたのか前に出した両手をゆっくりと引っ込めながら、ジローがため息をついていた。

「家主に死なれちゃ困るしな、今日は優しいジローが甲斐甲斐しく看病してやっから、おとなしく寝てろよ」

「え、別にいいです。風邪は自己責任です」

「うつされたくねえから言ってんだよ」

「……すみません」

 それもそうか、と小さくなるイチに、ジローはにやりと笑った。

「おー、なんかいいな。たまにはそうやってしおらしくしとけ」

「今回ばかりは本当に……申し訳ないので」

「ま、そんなに気にすんなって。ほどほどに感謝して安静にしとけ。じゃ、ちょっと買い物でもして来るかな」

 「なんか欲しいものあるか」と首を傾げたジローに、イチは少し考えて「プリンが食べたいです」と答えた。イチにとってプリンは風邪のときに食べるものだ。

「わかった、プリンな。あとは……体温計と熱さましと……」

 指折り数えながらイチの脇をすり抜けて行こうとするジローに、イチは慌てて言う。

「あ、ちょっと待ってください、お金渡すので」

「あ? いいって。俺がどれだけ貧乏だと思ってんだよ、イチ。大人の財力なめんじゃねえぞ」

「大人の財力って……」

 ジローは職業ヒモとかそんなんじゃないんですか、と言いかけて、とりあえず引き留めようと、出て行こうとするジローに手を伸ばす。

 が、熱のせいでぼやけた視界では狙いが定まらずに指が空をかいた。

「あ、っれ?」

 眉間にしわを寄せて指先を見つめるイチに、ジローは苦笑してソファーの上のブランケットを放り投げた。

「ほら、重症なんだから安静にしとけよ、イチ」


 今度こそ振り返らずに、ジローは出て行ってしまった。

 台風の時のことといい、イチが家主だからといって、ジローは随分と親切だ。だからか、ほだされているような気がしなくもない。

 イチは、不快に思っていない自分が不思議でもあった。あんな謎だらけのおっさんなのに、と思いながら、ずるずると廊下を歩く。

 アルマジロのようにベッドの上で丸くなって、イチはいつもより熱いため息を吐いた。わけがわからない。




 イチが目を覚ますと、時刻は十一時半だった。


 朝よりはだいぶすっきりした頭で体を起こすと、枕元に額に貼るタイプの熱さましと体温計が置いてある。

 ジローが買ってきてくれたのか、と思いながら、緩慢な動きで脇の下に挟んだ。ベッド横の壁にもたれると、ひんやりとしていて気持ちがいい。

 やたらと熱い布団を蹴って、静かに目を閉じる。眠気はほとんど残っていなかった。

 数分後にアラームと共に示された数字は、七度六分。

 平熱が六度二、三のイチからしたらまだ高い。寒気もしているようだ。

 ――とりあえず水分をとろう。

 イチは枕元の熱さましを箱から取り出し、前髪をかき上げて額に貼りつけ、ベッドから足を下ろした。

 と、ひやりとしたものが足に触れた。


「……ん?」


 視線を落とすと、真っ黒で四角いものが落ちている。

 一瞬ゴキブリかと身を強張らせたが、そんなものが出るような不潔な生活を送っていた覚えはない。

 黙って見ていても全く動く様子がないことを知り、身をかがめて覗き込んだ。

「……携帯?」

 古い型のようだ。四隅が少し削れて丸くなっている。

 持ち上げてみると、思っていたより厚みがあることに気付く。ふと、叔父や母が昔、これと似たデザインのものを使っているのを思い返した。

 枕元には自分の携帯がある。イチのではない。

 ジローのものだろうか。

「……すみません」

 独り言のように小さな声で謝る。プライバシーを侵す気はないのだと誰にともなく言い訳をして、イチはぱかりと携帯を開いた。

「……あれ?」

 と、青っぽい光が画面から現れる。時計も何もない、ただそれだけの画面だ。持ち主に設定された待ち受け画面だろう。

 その画面を眺めていると、幾何学模様のような白い線が引かれていることに気付く。なんだか見たことがあるような気がして、イチはこめかみを押さえた。

 青、幾何学模様、独特の構図、線の描き方。

 しばらく考えて、ああ、とイチは思い当った。

「これ、美術館のか……」

 二階の非常口近くの常設展で、これと似たものを見たことがある。

 ただし、この待ち受けの絵より塗り重ねられ、色合いも変わっていたと記憶している。

 もしかして描き途中のものだろうか。だとしたら、なぜジローがそんなものを待ち受けにしているのだろう。

 美術に興味があるようには思えないが、と内心首をひねりながら、ともかくジローに尋ねてみようと今度こそベットから降りた。



 大分軽くなった足どりでリビングへ行くと、ジローがキッチンの方から顔をのぞかせた。

「おー、起きたか」

「はい、おかげさまで」

 イチは答えながら冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出す。

 ペットボトルのふたを開けてあおりながら、ジローの手元で湯気が上がっている鍋に目をやった。

 気付いたジローは、鍋を傾けるようにして中身を見せる。

 すると、縁からふっくらとして艶のある米粒が金色の体をのぞかせた。

「食欲あるなら卵粥あるぞ。プリンも」

「いただきます」

 なんだか急に空腹を感じて、イチは重い頭を縦に振る。

 ジローは小さく笑って、「すぐ治りそうだな」と呟いた。

 プリンとデザート用スプーンを探し当てたイチがソファまで歩いて座ると、後ろからジローがスプーンとお椀を持ってついてきた。

 テーブルに並べてイチがちまちまと食べ始めると、「気持ち悪くなったらやめろよ」、「あっついぞ、気をつけてな」とことあるごとに声をかけてくる。

 イチはスプーンを持ったまま、ぎろりとジローを睨みつけた。

「大丈夫ですよ。子どもじゃないんですから」

「そ、そうか? ……いや、うん、そうだよな」

「そうですよ」

 風邪をひいていても呆れてしまうほど、ジローは本当に甲斐甲斐しい。

 母親より過保護かもしれないと思いながら、イチは卵粥を味わった。鰹節がきいていておいしい。

 やはりジローは家政婦かヒモなのではないか。

 今のところ家事と夜の外出しかしている様子のない目の前の男に、イチはぼんやりと尋ねる。

「ジローは何の仕事をしてるんですか?」

「俺?」

 急に話しかけられて驚いたのか、ジローはもたれていたソファから背を浮かせた。

 そうですよ、と視線だけで続きを促すと、いつもの悪人めいた笑みを浮かべて勿体つけた調子で答えた。

「ふん、聞いて驚け。ギター弾いて金もらって食ってる……つまりギタリストだ」

「えっ、ヒモじゃないんですか?」

「なんでそうなるんだよ! 確かに今ギター持ってきてねえけどよ!」

 意外な答えに口を滑らせたイチに、ジローは心外だとばかりに噛みついた。

 納得がいかない風邪ひきは、訝しげに続ける。

「念のために言っておきますけど、女の人に養ってもらいつつギター弾いたり食事作ったりして生活するのはギタリストじゃないですよ」

「そうだろうな! ライブとかレコーディングとかして生活してるぞ俺は! 今は活動休止中だけどな!」

 活動休止中なら確かに、こんな生活も送れるかもしれない。

 心外だと言わんばかりの表情で腕を組んだ同居人を眺めて、イチはなるほどと頷いた。詳しくは知らないが、印税とか出演料とか、そういうもので生計を立てているのだろう。

 しかしそれなら、料理やら看病やらは完全にボランティアということになる。

 なんだか申し訳なく思ったイチは、卵粥の入ったお椀を持ったまま、体を丸めるようにして頭を下げた。

「すみませんね、何から何まで」

「なんだ、いきなり年くったな」

「年齢のことをジローに言われると傷つきますね」

「どういうことだおい」

 軽口を叩きながらもイチはスプーンを進める。

 視線を感じて、相変らず人が食べているさまをよく見るな、とイチは呆れながら思う。

 しかし、自分の母親も初めて作ったメニューの時などはこんな風に自分を見ていたかもしれない。あまり自分が作ったものを他人に食べさせる機会がなかったイチには、よくわからない感覚だ。



 デザートのプリンに手を伸ばした時、イチはふとポケットに違和感を覚えた。

 手を入れてみると、ひやりとして固いものに触れる。

 そういえば携帯電話を拾っていたっけと思いながら引っ張り出し、テーブルの上に置いた。

「ジロー、これ落としました?」

「あ? ああ、それ! 悪いな」

 やはりジローのものだったらしい。

 落としたことに気づいていなかったのか、慌てた様子でジローはそれを自分のポケットに滑り込ませた。

 イチはふとあの青い画面を思い出し、プリンを眺めながら言う。

「……あの、悪いとは思ったんですが、その携帯、開いて見てしまったんです」

「ああ、気にすんなよ。どうせ鍵かかってただろ」

「まあ、それはそうなんですが……ジローはあの絵、好きなんですか?」

「……あの絵?」

「待ち受けの絵ですよ。それ、茜沢美術館のやつですよね」

 言うと、ジローは驚いたように目を見開いた。

 有名な絵ではないから、言い当てられるとは思っていなかったのだろうか。予想外の反応に、イチは内心首を傾げる。

「ジロー?」

「あ、あぁ……いや、あれな、うん。知ってはいるんだが、ちゃんと見たことねえんだよ」

「え、そうなんですか? あれは常設展ですよ?」

 歯切れの悪いジローを不思議に思いながら、イチはプリンを持ったまま考え込む。

 もし見たことがないのなら、今日のお礼もかねて美術館に連れて行こうか。茜沢美術館なら、常設展だけなら美大生のイチと行けば無料で入館できる。

 それに、絵はやはり、直接見るのがいいと思う。

 もし嫌なら断るだろうと踏んで、イチはまっすぐにジローを見つめた。

「ジロー、よければ、一緒に見に行きませんか?」

「え……」

「すごくいい絵ですから、きっと本物を見たら感動しますよ」

 なんとなく乗り気ではないように思われたが、一言言い添えると、ジローはすぐに頷いた。

「……そうだな、行ってみっか」

 詳しい奴もいることだし、と目を細めたジローになんとなく嬉しくなって、イチは誤魔化すようにプリンを頬張った。




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