台風の日
「スランプ! なう!」
隣の名ばかりの資料室で作業をしていた志村は、大声でスランプを叫びながらイチのいる教室へと帰ってきた。
イチももう慣れたもので、ちらりと目をやってから作業を続けている。
朝からニュースは台風の話題で持ちきりだった。
アナウンサーたちはこぞって今年最大規模だとか、依然勢力を保ったまま北上中だとかを真剣な面持ちで読み上げて、最後に「今日は早めにお帰りください」と締めくくった。
茜沢に最も接近するのが夕方のラッシュ時だそうで、近隣の学校や会社は帰宅を早める予定らしい。水道管の破裂に続き災難なことだとイチは思った。
昨晩あんなに機嫌を行ったり来たりさせていた癖に、今朝のジローはいつも通りだった。
コンソメスープをちびちび飲んでいるイチの周りで、「懐中電灯はどこだ!」やら「カセットコンロ……はあるわけねえな」やら言いながら元気に歩き回っていた。
なんだ、それほど気にしていなかったのかと拍子抜けしたが、昨日のことを話題にする勇気はない。
だからイチは出掛けに早めに帰るとだけ告げて、大き目の傘をひっつかんで徒歩で大学へと向かったのだった。
構図を三つほど作り直して並べ、眉間にしわを寄せて見比べていると、騒がしい声がどんどんと近づいてきた。
「あああもうぜんっぜんダメ! ボツ! 肉食ってくる肉!」
「今から? まだ一時だけど」
「大丈夫! 営業は始まってるっしょ!」
「いや、そういうことじゃなくて……」
イチと志村は、つい一時間ほど前に昼食を終えたばかりだ。どういう腹をしているんだと内心呆れながらも「いってらっしゃい」と顔を上げずに言う。
「行ってくる! つか多分帰ってこないけど! ってことでいっちゃん、チャリ貸してくれない!?」
「え、何で?」
「こっから焼肉屋までが最っ高に遠いんだよ! ね、お願い! 絶対壊さないし壊したら弁償するから!」
勢いよく頭を下げると、後ろで一つにくくった髪が生き物のようにはねた。
雨も降りだしそうだし、どうせ帰りも徒歩だろう。イチは鞄のポケットから自転車の鍵を取り出して志村に放る。
「事故らないでね。今日台風だし、川とかに落ちないでよ」
「だーいじょぶだいじょぶ! 任しといてよ!」
快活に笑って出口へ向かう志村に、イチは愛車との別れを覚悟した。
と、志村は急に振り返った。
「あ、そういえば隣の教室あんまし片づけてないんだけど、ほっといて良いからね! 邪魔ならよけちゃっていいし、どうせボツだから扱い荒くても大丈夫だから!」
「はいはい」
「じゃあね、いっちゃん!」
勢いよく扉を閉めて、かつかつとヒールの音をさせて遠ざかっていく。
どちらかというと悶々と悩み続けるタイプのイチは、ため息をついてもう一度視線を落とした。
イチだって、全部投げ出してしまいたいと思う。
この苦しみから逃げてしまいたい。だが、それをしたところできっと気は晴れない。そういう性格なのだ。
それに、もし悪くすれば美術の勉強ができなくなってしまう。イチは、ただでさえ母子家庭で苦しい中、なんとか奨学金で通っている身だった。
楽ではないとわかっていても、イチは描き続けたい。ずっと描いて生きていきたい。だからこそ、今回は本当に苦しんでいた。
いくつか下描きを見せた担当教員には「いつもの朝倉節だなあ」と言われ、絵画教室のおばあちゃん先生には「芸がないわね」ところころ笑われた。
いつもの絵では駄目だと、痛いほどわかっていた。新しい色、今までのイチの絵にはなかった何かがなければ、賞はとれない。
そうなってしまえば、きっともう描き続けることはできない。
イチは鉛筆を強く握る。
――私には、あの色が必要なんだ。
がたがたと窓が揺れる。
まだ雨は降っていないようだが、だいぶ風が強くなってきている。
なんとなく不安になって、イチは帰ろうと立ち上がった。画材とキャンバスを資料室へ片づける。
結局ほとんど使わなかった色鉛筆をしまおうと手を彷徨わせると、戸棚の引手が白い布に隠されていることに気付いた。
これがおそらく志村が言っていた絵だろう。
立てかけてあったそれをずらすと、ぞんざいにかけられていたらしい布が軽やかに落ちる。かけなおそうとかがみこんで、突然目に飛び込んできた色にイチは動きを止めた。
鳥肌が立った。
形容できないような混沌とした画面に、切実な赤が、縋るように渦巻いている。
花のようにも炎のようにも見えるそれは、イチの脳裏に鮮烈な一撃を与えた。
この絵は、喰らいつくそうとしている。何を、とは言えないが、獰猛な何かが必死に噛みつき、咀嚼し、飲み干そうと足掻いている。
これこそが、志村の絵。
爆発した感情で塗りつくされたキャンバスが、彼女――志村英子の叫びを代弁する。見慣れた教室さえ、この一枚のためにあつらえられたもののように静まり返っていた。
頭の芯は冷え切っているが、反して先ほどからどくどくと心臓がうるさい。恐怖にも似たその感覚を、イチは知っていた。
こんな絵は、自分には描けない。こんな色は、知らない。
敗北感と嫉妬が、じりじりと背中を這い上がってくるのを感じた。
しばらく呆然とキャンバスを見つめていたイチが布をかけなおすころには、空は真っ暗になっていた。雨雲の湿った匂いが窓から吹き込む。
と、続けて吹き込んできたがたがたと窓枠を震わせるような強風にはっとなって、イチは慌てて窓を閉めた。早く帰らなくては。
荷物を肩からかけて自転車置き場まで行ってから、そういえば志村に貸したはずだと思い出す。短い髪を風が乱暴にかき混ぜていく。
きっと混んでいるであろう電車は嫌だ。こんなもやもやした気持ちで乗ったら今度こそ吐いてしまうかもしれない。
タクシーもきっと酔う。今の自分では、あの独特の臭いに耐えられそうにない。
イチは、湿った空気を大きく吸い込んだ。歩くしかない。
今日は折り畳みでない傘だって持っている。この風では不安だが、降り出す前に少しでも進んでおかなくては。イチは足早に校門へと向かう。
『――きみには才能がないんだ』
びゅうと耳元を吹き抜けた風にいつかの言葉が乗っていた気がして、イチは唇を噛んだ。
――だからなんだ。私は、思うように描く。見た通りに、忠実に。
冷やかな声を拒絶するように強く思って、ぎゅっと傘を握る。
遠くで雷の唸り声が聞こえた。
意気揚々と、とまではいかずとも、フラストレーションに身を任せてごりごり歩き続けていたイチは、結局最寄一歩手前の村崎駅で雨宿りをする羽目になっていた。
右隣りには、複雑骨折によって殉職した傘が横たわっている。髪もだいぶ乾いてきたようだ。
なんとか到着してからすぐ、奥まったところにある人気のないベンチを陣取った。外の様子も時刻表も見えない位置だ。
同じく立ち往生している他の客たちを眺めながら、持ってきていた大き目のスポーツタオルでびしょびしょの体を拭く。
客の大体は駅の入口近くに集まっており、迎えの車に乗ったりタクシーに乗ったり覚悟を決めて出て行ったりしていた。イチは立ち上がる気が起こらず、スケッチブックを乾いたベンチの上に乗せて人の往来を眺めていた。
鮮やかな傘を見た時など、ふとした拍子に志村の絵を思い出しては咄嗟に強く目をつぶる。
引きずられてはいけない。あまり意識してはいけない。わかってはいても、あまりにも鮮烈だった。
ふと、脳裏をもう一つの色がかすめる。イチが見つけた、イチだけの新しい色。
――そういえば、ジローに連絡してなかったな。
思い出して、イチは小さく笑った。そもそも連絡のつけようがないのだ。
家に固定電話はないし、ジローの携帯電話の番号だって知らない。一緒に住んでいるくせに、結局は赤の他人のままだ。
さすがに今日は例の探し物のために外へ出ることはしないだろうから、もしかしたら家主がいなくてのびのびしているかもしれない。イチは自嘲交じりに浮かべた笑みをため息とともに消して、湿ったタオルをたたむ。
時計を見ると、八時を回っていた。
結局今日は描けなかったし、無茶はするものじゃないな、とため息をついて立ち上がる。鞄をかけ、ホットだった缶コーヒーの空き缶を捨てた。
左手に掴んだばきばきの傘を、霧雨の中開こうと手をかける。
と、その時だった。
「――おやおやお嬢さん、傘をお探しかな?」
おどけたような声と共に急に頭上に現れたビニール傘。
驚いて顔を上げると、ばきばきに折れた傘を左手に持ったジローがビニール傘をイチにさしかけていた。
心なしか服装は湿ってよれているようだ。口は笑っているくせに目が笑っていない。
イチはぎゅっと眉間にしわを寄せた。こんなところにいるはずはないのだが。
「……ジロー?」
「おう、ジローだぞ? ところでイチ、どういうことなんだよ」
「どうって……何がですか?」
「おいこら、すました顔しやがって。心優しいジローは家主がぶっ飛ばされて川にでも落ちたんじゃねえかと心配したんだぞ」
「いや、普通に雨宿りして……ていうかどうしてここにいるんですか」
「ああ!?」
不思議に思って尋ねると、顔をしかめたジローに勢いよく返される。
「細くて軽そうで案外無茶する体力派の家主を探しに来たんだよ!」
「さ、さすがにあの雨風の中ほっつきあるいたりしませんよ」
「そうかよ! 俺はしたよ!」
「えっ」
目を見開いたイチに見せつけるように、左手に持った傘を突き出す。たたまれたままでも数本の骨がむき出しになって折れているのがわかった。
本当にあの暴風雨の中歩き回っていたらしい。それも、イチを探して。
言葉を失って固まっているイチに、ジローは右手の新しい傘を持ち上げてみせた。
「おかげで一本ぶっ壊れちまったじゃねーか! ったく、ほら帰るぞ!」
焦れたように傘を振ると、心なしかいつもよりくすんだような色の髪からしずくが落ちる。
あんなに接触を拒んでいたジローが、イチのことを心配して探していたらしい。
過保護だと言ってしまえばそれまでだが、イチはなんとなく申し訳ない気持ちになった。そのくせ、なぜか頬が緩んでしまいそうになる。
「……あ、あの、なんかすみません」
とりあえず謝ると、じとりと視線を向けられる。見るからに不満げだ。
「あのなあイチ、こいうときは『ありがとうジロー! 大好き!』くらい言うもんなんだよ」
「え、あ、ありがとうジロー。もしあれでしたら傘は弁償しますから」
「いらねえよ! なんで後半変えたんだよ!」
最後まで聞いてからむすっとした顔で外へと歩き出すジローを、割と本気で言ったのに、と困惑しながらもすぐに後を追う。
近づきすぎないように右肩が完全に傘の外に出た状態で少し歩いて、イチは前を向いたままのジローを見上げた。
「ジロー、あの、助かりました。嬉しいです、本当に。ありがとうございます」
傘をさしかけられた瞬間、一人で焦って追い詰められていた時間から引きずり出されたような気がした。イチはぎゅっと手のひらを握る。
きっと自分は、迎えに来てくれたことが嬉しかったのだ。
むず痒い気持ちで言うと、急にジローが立ち止まる。
何事かと顔を見上げると、幻のような色の髪からのぞく目を大きく開いて、驚いたようにイチを見つめていた。
と、途端にいつもの笑顔を浮かべて「まあ、無事ならいいんだよ」と小さく言った。
「なんていうか、案外過保護ですね」
「そうかもな……いや、違うぞ。イチ、お前があぶなっかしいんだよ、色々と」
「私ですか? 私がそんなに危ないことするわけないじゃないですか」
呆れた調子で言うと、ジローはちらりとイチを見下ろして、くつくつと笑った。
「まあ、そうだな。イチは大丈夫かもな」
イチは、とはどういうことなのか。
尋ねてみようかとも思ったが、イチは「そうですよ」とだけ言って歩き続けた。
スケッチブックが入った鞄をしっかり正面に抱きなおす。このくらいの距離は、嫌いじゃない。
相合傘と言うにはお互いの間が空きすぎている。
そのせいで肩が濡れていても、そんなことは気にならなかった。