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カラフの色彩  作者: 緒明トキ
青き日の憧憬
6/22

同居人の性質


 目の前のシンプルな食器の上で湯気を立てているふっくらとしたハンバーグを見て、イチは目を輝かせた。

 デミグラスソースのハンバーグは大好物だ。それも、はち切れんばかりに丸々としたやつは特に。


「……いただきます」

「おう、食え食え!」

 箸で割ると、たっぷり詰まった肉からふわりと湯気が立つ。

 一口食べると、ソースの味と肉の風味が口の中いっぱいに広がった。おいしい。

 黙々と箸を動かしていると、ふと向かいから視線を感じた。ちらりと見ると、頬杖をついたジローが目を細めてこちらを見ている。

 そういえば、いつもこんな感じかもしれない。付け合せのブロッコリーを飲み込んで、イチはふと思う。

 ジローはイチがご飯を食べ始めるのを見て、それから自分も箸をつける。毒見のようだとも思ったが、先ほどのように視線を辿るたびにあまりにも嬉しそうにこちらを見ているので、からかう気も起こらない。

 つけっぱなしのテレビから、やけに明るい笑い声が聞こえる。

「……食事時はわりと私のこと見てますね。何か面白いですか?」

「んー? いや、いっつもよく食ってくれっからさ。俺の周りって今まで偏食ばっかだったんだよ」

 なんとなく居心地が悪くて尋ねると、ジローは頬を緩ませたまま答えた。イチは猫のような目をハンバーグに戻してぼそりと言う。

「正直、自分で作るより何倍もおいしいですから」

「おお、いいこと言うじゃねえかイチ! で、料理ができるジローに惚れ直したか?」

「気持ち悪いです」

「ひでえ!」

 傷ついたぞ! と口では言いながらどこか上機嫌なジローをちらりと見て、イチは小さく切ったハンバーグを頬張った。

 以前から料理をしていたような口ぶりだったが、決して詳しく話そうとはしない。

ジローは徹底している、とイチは思う。よく喋るくせに、自分の情報はあまり出さない。当たり障りのない話題を的確に選んでいる。

 いつものようにぺろりと夕食を平らげたイチが食器を流しへ運ぶと、腕をまくったジローが椅子に座ったまま「置いといていいぞ」と笑った。

 そういえば、イチが移動している時にジローは立ち上がらない。

 イチがキッチンにいるときは絶対にキッチンに来ないし、廊下にいるときはリビングから出ない。

 イーゼルをとりに廊下へ出て、イチは違和感に首をひねった。

――ジローは、なるべく接触しないようにしてる?

 イチは、デミグラスソースのハンバーグのせいですっかり忘れていた今日の帰りのことを思い出した。

 もしイチが考える通りだとしたら、ジローはイチに日ごろからかなり気を遣っているから一緒に生活できている、ということになる。好き勝手に動くイチの先回りをして避けていたのなら、きっとかなり苦労していたはずだ。

 しかし、自分のことに踏み込まれたくないという態度も見える。それで言うと、ジローも少々潔癖な部分があると言えるだろう。

 つまり、とイチは小さくつぶやいた。

 ジローはイチより社交的だが、実は本質的には踏み込まれたくない同士だから、お互いに距離を取り合ってうまくやれているのかもしれない。



 考え事をしながら色を混ぜていたせいか、パレットの上は随分と濁ってしまっていた。駄目だ。

 筆を洗って次の色をとる。濁らせてはならなかった。ジローの髪の色は、複雑な癖に濁っていない。

 煙草を吸う横顔を観察すると、陰になっている部分は青みがかっているように見えた。イチは青の絵の具を筆先にとる。今日はこれでいこうか。

 ジローの煙草の煙が、頼りなさげに窓の外へ出て行く。ぼんやりと眺めていたジローは、ふとイチの方を振り返った。

「……そういやイチ、今日なんかあったのか?」

「え? なんか、ですか?」

「いや、帰ってきたときちょっと大人しかったからな。先生にでも怒られたか?」

 にやりと笑うジローに一瞬むっとするが、一応心配されているのかもしれないと思い、イチは真面目な調子で答えた。

「今日は久々に電車に乗ったので、少し疲れたのかもしれません」

「電車に? 雨の日っつったら最悪じゃねえか。でも空いてたんだろ?」

「偶然にも満員電車でした。水道管が破裂したとかで」

「そりゃ逆にすげえな」

 ジローは感心したように言って、くつくつと喉の奥で笑った。

「まあ、災難だったよな。潔癖症だもんなあ」

 一瞬、あの時の恐怖感のようなものがふと帰ってきて、イチは息を詰める。

 イチにとっては、笑いごとではなかった。くっと眉間にしわを寄せて、イチはそっけなく答える。

「それはジローだって似たようなものじゃないんですか」

「俺?」

 ジローはきょとんとしてイチを見た。

「だから、人と接触しないように距離をとっているのは、ジローだってそうじゃないですか」

 突き放すように言うと、空気が変わった。

 急に黙り込んだジローに視線をやると、驚いたような脅えたような顔をしている。イチの方を見てはいるが、イチを通して何か別のものを見ているかのようだ。

「ジロー?」

「……なんだそれ、俺にどうしてほしいわけ?」

「は?」

 急に声のトーンを落として呻くように言う。

 イチが聞き返すと、ジローは顔を歪めたまま声を荒げた。

「だから、俺にどうしてほしいかって――」

 瞬間、窓からばたばたと大きな音がして、二人とも咄嗟にそちらを向く。

 枯葉のような色をした大きな蛾が窓枠にぶつかって、もんどりうって部屋の中へ飛び込んできた。ジローの脇をすり抜けて、イチの顔めがけて飛んでいく。

「うわっ!」

「イチ!」

 顔を庇って身を引くイチ。その斜め上をぐらぐらと飛ぶ蛾を、ジローは近くにあった雑誌で払いのけた。

 重たげな音がして、手のひらほどの蛾は床に落ちる。それでもばたばたと転げまわって、フローリングの上に鱗粉が振りまかれていく。

 二人で呆然とそれを眺めていると、ふと顔を上げたジローが驚いたように声を上げた。

「うわやべっ、イチ、頭に――」

 髪にほのかについた粉をはらおうとジローが手を伸ばすと、イチは驚いて一歩下がった。伸ばされた手がぴたりと止まる。

 またやってしまった、とイチは慌てて口を開く。

「あ、す、すみません。あの、今のは本当に驚いただけで……」

 しどろもどろに言う言葉を気にも留めず、ジローは見開いていた目を悲しげに伏せた。

 いつにない沈んだ様子に驚いてイチが顔を覗き込むと、自嘲めいた笑みを浮かべて諭すように言う。

「……ほら、今までのやり方で十分うまくやれてただろ」

「……ジロー?」

「悪い、今日はもう行くわ」

 しっかり髪の毛洗っとけよ、と力なく付け加えて、ジローはふらふらと部屋を出て行った。

 明らかにおかしな様子に、イチは部屋で立ち尽くす。しばらく閉まった扉を呆然と見ていたが、ふと側に置かれた雑誌を手に取る。

――急に頭に手を伸ばされたら、誰だって驚くに決まってる。

 言い訳がましく考えて、唇を噛んだ。伸ばされた腕が残した香りは、昨日とは別のものだった。

「……汚い」

 しかめっつらのまま誰ともなく呟いて、イチは雑誌で乱入者を掬い上げる。窓の外へ滑り落とすと、あっという間に見えなくなった。

 早くお風呂に入ろう、と窓を閉めて踵を返す。

 全部綺麗に掃除するのは、後回しにしたかった。




 

 その絵の前に立つと、今でも足が震える。

 真夜中の美術館でひっそりと息を吐いた。追い越してきた非常口のライトが眩しい。

 その青い絵に最後通牒を突きつけられるのが怖くて、いまだに一度も光のもとで見たことがなかった。これから先もきっとそうだろう。意を決して重たい首を上げる。

 降りしきる雨を塗りたくったようなそれは、正確な色合いはわからないが、濃紺の画面に引きずり込まれてしまいそうだ。

 どれほどの絶望の中、これを描いたのだろう。

 湧き上がる水泡に沈みゆくような、もしくは、叩きつける雨につぶされゆくような、ひたすら沈痛な風情がそこにはあった。

 細かく刻みこまれた図形のような模様は無機質な印象を与えるものの、見れば見るほど新しい何かが現れるようだ。この画風は、昔からほとんど変わっていない。

 鈍い色を放つプレートを指でそっとなぞり、ジローは目を伏せた。

 

 『憧憬』――。

 彼が何にこんなにも焦がれていたかなんて、今でもわからない。



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