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カラフの色彩  作者: 緒明トキ
青き日の憧憬
5/22

雨の日


 志村の言う通り、イチに人間関係で悩んでいる暇はない。


 ぐだぐだ考えるのも馬鹿らしいので、簡潔に尋ねてみることにした。

 鼻歌を歌いながらフローリングにモップをかけているジローに、イチはさらりと声をかける。

「ジロー、あなた昨日の夜、繁華街にいましたよね」

 イチが尋ねるや否や、ジローは突然モップを取り落した。

 足の上ではねた持ち手を慌てて拾う。

「…………な、なぜそれを」

「見ました」

 思っていたよりもあからさまに動揺したジローに疑惑を深めながら、イチはゆっくり腕を組む。

「別に私は一向に構わないんですよ、他に泊まるところがあるならそちらへ行っていただいても」

 描かせてさえくれるなら、と続けようとしたところ、ジローが慌てて立ち上がる。

「いや、ない! 誤解だ! 昨日のは、なんていうか……探し物をしててだな」

「探し物? 新しい宿ですか?」

「違う! 俺はここじゃねえと駄目なんだって!」

「どうしてですか?」

「それは――」

 言いかけて、しまったというような顔でジローは口を閉じた。イチの視線が厳しくなる。やはり道ならぬ恋なのか。

「ジロー、不倫はあまりよろしくないと思いますけど」

「ちげえよ! なんでそうなるんだよ!」

「違う? まさか……この家に変な薬でも隠して」

「ねえよ! 年にちょっとしかいねえような他人ん家にそんなもん預けねえだろ!」

「……確かに。でも裏をかいて、ということも」

「お前なあ……誰の裏をかけっていうんだよ」

 なかなかいい線をいっていると思っていたイチの推理は、呆れ顔のジローにことごとく否定される。

「じゃあ、どうしてジローはそんなにここに泊まりたいんですか?」

 しかめっつらでイチが尋ねると、再びジローは言葉に詰まる。

 ますます怪しい。冷たくなっていく視線に気づいているのか、頭をかきながらジローは口を開く。

「……あ、アフリカ奥地の置物とか織物に囲まれて寝たいから、だよ」

「…………は?」

「だから! 俺はアフリカが大好きなんだよ! じゃなきゃわざわざこんなアフリカオタクの家に泊まりに来るわけねーだろ!」

 拳を握って熱弁するジローの頬は、心なしか紅潮しているようにも思われる。

 イチは名探偵気分で考える。確かに、どこか野暮ったいあの叔父さんと垢抜けたジローとの共通点が見つからず、それも不自然だった。

 だが、もしジローもアフリカオタクだったとしたら。

「……まあ、納得はいくかもしれませんけど」

「だ、だろ!? いやーもう、タンザニアとかほんっと羨ましいよな、あいつ」

 誤魔化すように少し笑って、ジローは廊下へと出て行った。

 廊下は掃除が終わっていた気がしたが、秘密を告白して動揺したのかもしれない。

 少し悪いことをしたような気になって、イチはソファに座り直した。

 類は友を呼ぶとはよく言ったものだ。あの叔父さんの友達だったら、いくらジローがおしゃれであっても、同類ということはあり得る。



 アフリカオタク発言以降どうも気まずそうなジローを尻目に、イチは休日の二日間、じっくり描き続けた。

 おかげで構図はどうにか固まったが、赤から混ぜても青から混ぜても例の色は影もない。

 それでも今日も学校でキャンバスと睨めっこするために、イチは日暮坂を下った。

 相変わらず眠そうなジローは、それでも技巧を凝らしたオムライスを食卓に用意していた。

 ふわふわのオムライスとコーヒーでしゃっきり目が覚めたイチが大学に着くと、廊下で相変わらず華やかな色合いの志村とすれ違った。

「あっ、いっちゃんじゃーん! やっほう!」

「おはよう志村さん」

「いやー、普通に下描き忘れて来ちゃったわ! もう今日帰ろっかなって思ってさ!」

「あ、そう……」

「じゃあねっ、いっちゃん!」

「ああうん、お疲れ」

 アップにした髪を鳥の尾のようにはねさせて、志村は軽快に歩いて行った。

 見送ったイチは、とりあえず教室へと向かう。今日も蒸し暑い。


 

 イチは描く対象をじっくり観察する。何度もスケッチブックに描いて、形を頭に叩き込む。しっかり記憶した構図をもとに、イチはキャンバスへ向かう。

 線を引いて、眺めて、直して、また眺める。頭の中にあるその絵に近づけるために何度も繰り返すうち、いつの間にか昼を回っていた。

 よろよろと立ち上がって財布を持つ。キャンバスを一瞥し、大きく伸びをして、ゆっくりと食堂へ向かった。

「――朝倉?」

 夏休み中ということもあって随分少なくなっているメニューを眺めていると、後ろから声をかけられる。

 振り向くと、きりっとした一重の上に眼鏡をかけた青年が紺色の財布を片手に立っていた。しゃんと伸びた背筋がどこか涼やかな雰囲気を作り出している。

「あ、六浦くん。今日学校来てたんだ」

「まあな。締め切りも迫っているし、気は抜けない。お前もコンクールの作品のために来ているんだろう?」

「うん。出来はまだ全然なんだけど」

 同じ学部の六浦は、教職をとっている数少ない友人だ。志村は一足早く『先生』と呼んでいる。

 真面目で堅い雰囲気とは裏腹に、六浦の絵のモチーフはふわふわした不思議な生き物が多い。ファンタジー要素が強いところも、可愛らしいギャップだと陰で人気があるらしい。

 苦笑するイチに、六浦は真面目くさった調子で言う。

「まだ? お前にしては随分のんびりしているな。あの天才はいいとして、そろそろ詰めなくてはまずいんじゃないのか、朝倉」

「……まあ大体は頭の中でできてるから、平気かな」

「ならいいが」

 鋭い指摘に内心冷や汗をかきながら、イチはなんでもないように答える。別に六浦が敵だというわけではない。ただ、誰にも弱みは見せたくない。

 確かに焦りは覚える。結局『新しい色』は見つけただけだ。まだ触れることさえできずにいる。

「六浦くんは何を描いてるの?」

「俺か? 俺は今回は鳥を描いている」

「鳥?」

「ああ。綿毛みたいなやつだ」

「へ、へえ……」

 真顔で言われると、確かにギャップを感じる。六浦が描いているのは、おそらくひよこのような生き物だろう。

 学校祭などでは、触れてみたくなるような六浦の絵はとても人気がある。とくに女性や子供にだが。

 イチは結局、六浦と一緒に昼食をとった。

 子供好きの六浦から絵画教室について尋ねられ、それに答えているうちに、外が段々と暗くなっていたことに気付いた。

 そういえば、六浦の椅子の背もたれには深緑の傘がかけられている。

「あれ、今日って雨だっけ?」

「なんだ、知らなかったのか? なんでも足の速い台風が近づいているとかで、午後からは降水確率七〇パーセントだとどこの局でもやっていたぞ」

「え、そうなんだ。折り畳みしかないや」

「時間が経つにつれて風が強くなっていくらしい。折り畳み傘なら殉職覚悟で帰るしかないな」

 イチが頷くと同時に、突然雨が降り出した。驚いて二人で窓へ目を向ける。

 雨粒が簾のように地面へと落ちていく。思ったより本降りだ。どうやら自転車では帰れなさそうだ。

 固まったイチに気づいたのか、表情は変えないまま六浦は気遣うように言う。

「朝倉は自転車通学だったか? 東茜沢なら電車ですぐだぞ。俺は今日もう帰るが、乗るなら一緒に行くか?」

「……うん、そうしようかな」

 天気予報を見なかったことを後悔しながら、イチは頷いた。

 スケッチブックが入った鞄を持ちながら、長時間小さな折り畳み傘で外を歩きたくはない。

 電車は苦手だが、いつも電車通学の六浦と一緒なら大丈夫だろう。比較的空いている車両を教えてもらおう。

 が、駅に着いたイチは自分の考えが甘かったことを思い知るのだった。




「――大丈夫か、朝倉。顔色が悪い」

「平気。ちょっと、人混みが苦手で」

 平日の午後らしからぬ満員電車に揺られながら、イチは必死で目の前の手すりにしがみついていた。本当はあまり触りたくないのだが、揺れた時に他人に倒れこむよりはよっぽどいい。

 大学の最寄り駅近くで、水道管が破裂して断水が起こったらしい。近くの高校や会社が午後から休みにした関係で、電車の中は湿った服を纏った人間がぎゅうぎゅうに詰まった状態だった。

 近くに見ず知らずの他人がいるのは本当に苦手だ。寒気がおさまらない。

 色々なものが混ざり合ったようなにおいも、淀んだような空気も駄目だ。さすがに気絶するほどではないが、本当に嫌だ。イチは唇を噛んだ。

 イチの潔癖症は、別にトラウマだとか幼いころの経験だとかからきているものではない。ただ理由もなく、幼いころから苦手だったのだ。

 仲のいい友達にもべたべた触られるのは嫌だった。そもそも他人というものに近づかれたくないようなきらいもあった。

 だからこそ、つんと澄ました態度で心理的にも距離を置きたがったのかもしれない。

 六浦はイチを庇うように後ろに立って壁に手をついている。少しでもスペースを空けられるよう体を引きながら、気遣うようにイチの顔を覗き込んだ。

「駄目そうなら次で降りるか?」

「いや、あと二駅だからいい。……ほんとに大丈夫だから」

 苦笑すると、六浦は何か言おうと口を開く。

 と、急に車内が大きく揺れた。

 イチの体がぐらりと傾き、人ごみの中へ飛び込みそうになる。やばい、と思った瞬間腕をとられて、強く後ろへ引かれた。六浦だ。

 胸に背中をぶつける形でなんとか持ち直す。が、イチも六浦も目を見開いて固まっていた。

 六浦が腕をとった瞬間、イチの体が大げさなほどびくりと震えたのだ。

 恐怖のような驚きのような感覚に締め付けられて、心臓はまだばくばくと音を立てている。腕にじわりと鳥肌が浮かんだ。

 六浦もその反応に驚いたのか、腕を掴んだまま動かない。が、すぐに手を放して元の位置に戻った。

「あ、わ、悪い……」

「いや、ご、ごめん、こっちこそ……びっくりしただけで」

 真っ白になっていた頭がはっきりしてくる。

 イチは恥ずかしさに目を伏せた。助けてくれた六浦に対して、無意識だとは言え、なんて失礼なことを。

 沈黙する二人を乗せて、電車は東茜沢――イチの目的地に到着した。

 扉が開いて、イチが降りる。何か言わなくては。拳を握って、イチは振り返る。

「六浦くん、あの、さっきはありがとう。じゃ、また学校で」

「ああ」

 ぎくしゃくしたやり取りの後、イチが歩き出そうとすると、急に名前を呼ばれた。

「朝倉」

「え?」

 振り返ると、眉を寄せた不安げな顔の六浦と目が合った。

 六浦がそんな顔をする必要は全くないのに、とイチは苦笑する。言葉を探すように黙り込んでいた六浦は、決意したように言う。

「ま、またな」

「うん」

 閉まっていく扉の奥に微笑みながら軽く手を振って、イチは今度こそ歩き出した。

 ひどい態度をとったのはイチの方だ。

 他人との接触がひどく苦手なところは、幼いころから全く変わっていない。改札へと向かいながら鳥肌がおさまらない二の腕をさする。

 わかっていたはずなのに、何をどう勘違いして今日は電車に乗ろうなんて思ったのだろう。親しい六浦がいるから大丈夫だとでも思ったか。

 イチは自嘲気味に息をついて、ポケットから切符を引っ張り出す。

 それを改札に飲み込ませながら、イチはふと思った。

――あれ、そういえばなんでジローは平気なんだ?

 小さな水色の傘を開きながら、同居している怪しい男を思い浮かべる。

 こんな自分がどうして赤の他人と、しかもかなりうさんくさい異性と一つ屋根の下で生活していられるのだろう。

 だいぶ弱くなった雨の中、イチは我が家へと向かった。


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