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カラフの色彩  作者: 緒明トキ
青き日の憧憬
4/22

家主の逡巡


――もしかして、ジローが何をしているのか知る権利があるんじゃないか?


 一応家主であるイチは、淡く焦げ目の付いたクロワッサンにかぶりつきながら考えた。

 ぼんやりと眺めている朝のニュース番組では、先ほどから特集が始まっている。

 『一緒に暮らしていたルームメイトは殺人鬼! 夜な夜な包丁を持って路地を徘徊』という、さわやかさのかけらもない話題だ。イチはコーヒーを啜る。

「コーヒーならほら、こっちにあるからな。また飲みたかったらここな」

「はあ……私よりジローが飲むべきなんじゃないですか」

「いいんだよ、昼は寝るだけなんだから」

 眠たげにスクランブルエッグを咀嚼していたジローにむにゃむにゃと返され、イチは眉間にしわを寄せる。

――この男は、一晩中何をしているんだろう。

 知っておいた方がいいのかもしれない、と意を決して、さりげなく尋ねてみることにした。

「ジロー、夕べはどこへ行っていたんですか?」

「ああ、まあ……ちょっとな」

「ちょっと?」

「そう」

 あからさまにはぐらかされ、イチは疑いを強くする。怪しい。

「言えないようなところなんですか?」

「まあな。……じゃあヒント。夜しか行けないとこ」

「夜しか……?」

 真剣に考え込むイチを横目に、ジローはにやりと笑った。

「ま、そんなに気にすんなよ。別に犯罪になるようなことはしてねえから」

「してたら、警察には全く知りませんでしたと言います。脅えた様子で」

「ほんっといい根性してるよな、イチ」

 呆れたような視線を受け流してテレビを見ると、特集が終わって芸能ニュースへ移るところだった。右上の時刻を見て立ち上がる。

「じゃあそろそろ出ます。今日は遅くなるので、出かけるときは鍵をかけておいてください」

「おう、任せとけ。食器は置いてっていいぞー、ついでに全部洗っちまうから」

「助かります」

 流しに食器を運んで、歯磨きをしようと洗面所へ向かう。と、後ろからジローが追いかけてきた。

「悪いイチ、忘れてた! 今日ゴミ出し頼むわ!」

「え、あ、はい」

 廊下ですれ違うと思い、イチは避けるために玄関へ降りた。

 通り過ぎる時、ジローは苦笑する。大げさだったかと、イチは唇を引き結んだ。

 自分の潔癖症は、特に対人距離に関しては重症なのかもしれない。

「おいおい、相変わらずだな」

「何がですか?」

「いや、いいわ」

 とぼけて見せると、ジローは気を悪くした様子もなく、気を付けてな、と言ってリビングへと引っ込んでいった。

 なんとなく気まずく思いながら、ジローが置いて行ったゴミ袋を玄関に押しやって洗面所へ向かう。

「……あれ?」

 ふわりと、知らない匂いが鼻をかすめた。ジローだろうか。

 普段は気にならなかったが、洗剤などとは違って少しきつめの、香水のような匂いがした。

 今さら香水でもつけ始めたのか、と不思議に思いながら、イチは歯ブラシを手に取った。



 制作に使っている蒸し暑い教室に入って、すぐに片っ端から窓を開けた。

 そよそよと風が入り込んだのを確認してからやっと大きな肩掛けを椅子に下ろして、イチはペットボトルのふたを開ける。

 買ったばかりの冷たい麦茶が、あっという間に喉を滑り落ちて行った。

 生き返ったような気持ちで小さく息をつくと、教室の扉が開く音がして振り返る。

「あれっ、いっちゃん! おっはよー!」

「おはよう、志村さん」

 やたらと高いテンションで入ってきたのは、目を引く華やかな容姿の美女――志村英子だった。

 感性の天才と称される彼女は、情熱的で感性に訴えかけるような絵が評価され、学内外のコンクールで何度も賞をとっている有名人だ。

 イチも優等生で学内での評判は高い方だが、精巧かつ緻密、そして繊細な画風は志村とは正反対だった。

 奔放で突拍子もないことをする活動的な志村と、潔癖だが冷静で落ち着いた様子のイチは、しばしば対照的な実力派女子二人として話題に出される。だが、当人同士はなぜか馬が合うようで、気付けば一緒にいるような仲になっていた。

 真っ赤なパンプスをかつかつ鳴らして教室を横切り、志村はイチの近くの椅子に勢いよく腰を下ろした。

 肩にかけていた鞄を机に下ろして、ぐっと身を乗り出す。

「ねえねえ、なんかおもしろいことない? コンクールのことで頭がいっぱい過ぎて、あたしほんっとおかしくなりそう!」

「おもしろいことって……」

 近すぎる距離にじわじわと身を引きながら、イチは一瞬ジローを思い浮かべる。

 だが、他人にうまく説明できるような間柄ではないことに気づいて、慌てて脳裏から消し去った。傍から見たらだいぶおかしな関係だ。

 しかし志村は一瞬黙ったイチを見逃すほど鈍くはない。形のいい唇を笑みの形に吊り上げて、ますます顔を近づける。

「あー! なになにいっちゃん、今なんか悩んでんの? そういうのあんまよくないって!」

「い、いや、別に……」

「気になるなら行動しちゃったほうが早いよ絶対! ただでさえコンクールって魔物に苦しめられてんだからさあ」

「そ、そうかな?」

「そうそう!」

 志村に押し切られるような形で頷いてはみたものの、自分が出した条件に触れることになる気がする。

 少し逡巡して、イチは馬鹿らしいと小さく息をついた。

 志村の言う通り、今は大切なことが他にあるのだ。こんなことで悩んでいる暇はない。帰ったら聞いてみればいいだけの話だ。

 志村は大げさに頷きながら、よく通る大きな声で情けない声を上げる。

「あぁあー、あたしも今結構行き詰ってんだよね! ピカソさんみたいに一色を多角的に見てみようかと思ってたんだけどわけわかんなくなっちゃって、テーマを『知恵熱』にしてみたんだけどやっぱやかましくてさ」

 一度ため息をついて、前髪をかき上げながらイチを見る。まつげが長い。

「ね、いっちゃんはどう思う?」

「よくわかんない」

「だぁよねっ! あたしも!」

 けらけらと笑う志村に、素面でこのテンションか、といつものことながら呆れざるを得ない。

 ジローの悪ふざけを平常心で流していられるのも志村との訓練の賜物かもしれないな、とイチは冷静に鞄を開いた。

 志村も隣でうんうん唸りながら色鉛筆をごりごりとスケッチブックに押付けていたが、昼ごろに「本格的なインドカレーが食べたい!」と大騒ぎしてからいなくなってしまった。

 イチも結局それほど進まないまま、四時前には教室を後にすることになった。



 毎週金曜日は、駅前の絵画教室にボランティアとして通っている。

 学校帰りの小学生から仕事終わりの大人まで、それぞれが描きたいものを描くような自由な場所だ。

デッサンなどの基礎を真面目に勉強したい生徒には、主催者であるおばあちゃん先生かイチのような美大生が一応の監督となって指導もしている。

 大抵は子供の相手を受け持っているが、今日は「美大受験を考えている女の子にアドバイスをしてあげなさい」とお達しが下り、イチは九時過ぎまで居残っていた。

 結局、片づけが終わる頃には九時半を回っていた。

 晩御飯を食べ損ねたイチは、コンビニにでも寄ろうかと自転車を押す。

 ふときらびやかな光が目について視線をやると、道路の向かい側の明るすぎるネオンが目に飛び込んできた。いわゆる繁華街というやつだ。

 イチは、ちかちかする目を細めて通り過ぎようとした。――と、見慣れた背中を見つけて思わず足を止める。

 目を凝らして見つけたのは、どんな光のもとでも色褪せない、あの色。

「……ジロー?」

 思わずつぶやいて身を乗り出すが、間を通り過ぎたタクシーであっという間に見えなくなってしまった。

 見間違いではなかった、と思う。あの色を間違えるわけはないし、背格好もジローそのものだった。

「あ、香水って」

 もしかしてあそこで移ったものなのだろうか。考えて、思わず納得する。

 そうか、夜しか行けない所というのは繁華街だったのか。確かに、夜しかやっていない店が多いだろう。

 コンビニに寄ることも忘れて、イチは自転車に乗ってペダルを踏んだ。

 温度を感じさせない風は気持ちがいいはずなのに、何とも言えないもやもやした感じが胸を満たしていく。

 繁華街で香りが移るようなことをしているジローが不潔に思えるからだろうか。いや、そこではない。

「――そっちにつてがあるなら、うちに泊まらなくてもいいんじゃ……」

 口に出して、これだ、と顔を上げる。

 恋人がいるならそこに泊まればいし、駅前に来るならホテルでいいはずだ。

 まさか不倫でも、と思って、イチはぶるりと身を震わせた。うちで修羅場なんてことになったらどうしよう。

 なんにせよ、ジローには事情をきかなくてはならないようだ。幸いにも明日は土曜日。時間はたっぷりある。

 空腹のまま帰ったイチは、冷蔵庫にカルボナーラが入っているのを見つけて、複雑な思いでフォークを突き刺した。

 一口食べて、思わず頬が緩む。

 もしかしたら、あの色だけではなくてこの料理も惜しいかもしれない。



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