謎の男
男は、宮瀬次郎というらしい。
本人からのたっての希望で、『ジロー』と名前呼びをしているが、年はイチよりだいぶ上だ。
ジローが食器を片づけているうちに、イチはイーゼルと椅子を用意する。
頼んでもいないのに朝晩食事を作ってくれるジローに、イチは内心複雑な思いを抱いていた。味に不満はない。今日の生姜焼きも本当においしかった。
が、釈然としない。餌付けされているような、自分がそれほど料理上手でないことを見透かされているような、そんな気がするのだ。
スケッチブックと鉛筆を小脇に抱えて、リビングに移したイーゼルの上に乗せる。鼻歌を歌っているジローを横目で見やって、イチは窓辺にモデルのための椅子を置いた。
潔癖症の自分にしてはうまくいっている共同生活に、イチは内心驚いていた。
身の安全に関しては不安が残るが、最悪の場合は唯一内鍵がついている自室にこもろうと考えている。
もしジローが金品目当ての強盗だったとして、学生の部屋を狙うだろうか。
確かにマニアックな叔父さんのコレクションはかなりたくさんある。が、それほど価値はないと本人が言っていたことだし、幅をとるのでいっそ盗んでくれてもいいとイチは思っている。
犯罪組織の温床にしようにも、人通りが少なくないこの辺りでは隠れ家にはならないだろう。一通り指名手配犯の情報は確認したが、それらしき人物もいないようだった。
もしかしたらジローに何らかの変な趣味があって、イチに暴行をはたらこうと考えているのでは、と思いもしたが、それが目的なら長々と潜伏する意味はないはずだ。
そもそも、イチの体型は魅力的とは程遠い。細身で華奢と言えば聞こえはいいが、つまりは女性らしさが全くないということだ。短く切った髪と相まって、遠目からは少年に見られることもある。
――いや、やっぱりそれだけはないな。
一人うんうんと小さく頷いて、今日は水彩絵の具でも使うかと部屋へ戻る。
リビングへ帰ってくると、一仕事終えたジローが、椅子に腰かけて窓の外へ煙を吐いたところだった。
窓を開けるなら煙草を吸ってもいい、と言ったイチの言葉を忠実に守っているあたりも、一応好感はもてる。イチは向かいの椅子に腰かけた。
「では、今日もお願いしますね」
「おう」
ちらとこちらに目をやったジローがにやりと笑う。
愛想がいいとは言えないな、と思いながら、イチは無心に手を動かした。元々描くのは速い方だ。あっという間に下描きが終わって、今日も色の模索に入る。
例の『新しい色』はなかなか手ごわかった。何をどう混ぜても、どこかが違う気がするのだ。
久々に味わう彩色での苦しみ。イチはそれを楽しくも感じていた。
「……なあ、ほんとにこれだけでいいのか?」
「何がですか?」
イチはパレットから目を上げずに返す。
手はせわしなく絵の具のチューブの間を動いている。
この時間のイチは、手は止めないが逆に尋ねたことにはしっかり答えてくれる。
それに気づいたジローは、勝手にこの時間を『質問コーナー』として、普段はつんけんしているイチとの普通の会話を楽しんでいた。
「こんな楽な労働でいいのかっつってんだよ。泊めてもらってる身だし、食費ももらっちまってるし……料理だけじゃなくて掃除や洗濯だってやるぞ?」
「いえ、それは結構です。私の奨学金取得に協力してくだされば」
「なんだ、芸術家の癖にがめついな」
「先立つものは必要ですから」
「おいおい、道楽であってこその芸術だろ?」
「パトロンがいてこその道楽ですよ」
「そういうもんかねえ」
しっくりこないのか、ジローは一度煙草をくわえる。
イチはイチで、どうもうまくいかないパレットを睨みつけていた。
一度作ってしまえば、その色を再現できる自信はある。
だが、スケッチブックを見てもパレットを見ても、その色にたどり着くどころか近づいている気もしない。イチはため息をついた。
「ジロー、あなたの髪は、それ、染めてるんですか?」
「俺? いや、今は染めてねえけど」
携帯灰皿に灰を落として、ジローは顔を上げる。
「あ、でもあれだ、昔はむちゃくちゃ染めてたな。そのせいで割と痛んではいるはずだ。そういや、地毛に見えねえって知り合いに呆れられたな」
どう染めてどう痛めばそんな色になるんだ、と問い詰めたい衝動を抑え込んで、イチはジローを真っ直ぐ見る。
どうせ、ジローに聞いてわかることではない。イチが見つけなくては意味がない。
焦りと同時に、イチには自信もあった。きっとこの色を手に入れることができたら、奨学金は私のものだ。忠実にジローを描けば、勝てる。
「私、あなたみたいな不思議な色の髪の毛の人を初めて見ました」
「そうか? ああ、まあそうかもな。イチは染めたことなさそうだもんな」
「はい。染めるお金があったら画材が買えますから」
「はは、なんつーか、勤勉だよなあ」
目を細めると、きゅっとしわが寄った。
ジローはよく笑う。よくふざけるし、よく歌う。
陽気なことをいくつもする癖に、相変わらずどうも印象がほの暗いというか、うさんくさい。なぜだろう。イチは内心首を傾げた。
時間はあっという間に過ぎて、気付けば九時を回っていた。
「今日はこれくらいにしましょう。お疲れ様でした」
イチが片づけを始めると、ジローも立ち上がって伸びをする。
長々やっても仕方がないと考えている短期集中型のイチは、その日の収穫がどうであろうと、大抵二時間ほどであっさり終わらせてしまう。
ジローが髪をかきあげた様子に、なんとなく悔しくなって、すぐに流しへと向かった。ライトに照らされて波打つあの色。どうすれば手に入るのだろう。
「じゃ、出て来るな」
「あ、はい。シャワーを使う時は時間に気を付けてくださいね。格安で部屋が多いアパートですから、壁がそれほど厚いわけではないので」
「わかってるって。そっちこそ戸締りしっかりしとけよ」
「大丈夫です」
だろうなと笑って、ジローは玄関へと姿を消した。
これがうさんくさく感じる原因かもな、と思いながら、イチは蛇口をひねった。
ジローは、夜な夜などこかへ出かけている。
どこへ行っているのかは聞いていないし、干渉はしないと言った手前聞く気もない。だが、不思議ではある。
いつの間に帰ってきているのか、イチは知らない。朝方には朝食と共にイチが起きるのを待っているのだ。明け方には帰っているのだろうか。
そういえば、ジローは以前叔父さんからもらったという合鍵を持っていた。だからか、帰宅時にイチが起こされたことは一度もない。
色々と考えながら片づけを終え、シャワーを浴びて部屋へこもった。
パソコンの前に座り、ジローのことを書いたメールを眺める。返事がいつ来るかは分からないが、叔父に真偽を確かめようと思って用意したものだ。
送信という文字へとカーソルを合わせ、イチは画面を見つめた。
今のところ、害はない。それに、叔父さんの知り合いではなかったとしたら、あの色を手放すことになる。どちらかというと今は、その方が惜しい。
危険な考えかもしれないことはよくわかっていた。が、イチには後がない。描き続けるには、奨学金が必要なのだ。
考えた末に、イチはメールを破棄してパソコンを閉じた。
ジローとの関係を壊さないことにしたのだ。イチにはまだ彼が必要だ。あの色を手にするまでは、いくら怪しくても、近くにいてもらわなくてはならない。
内鍵をしっかり確認して、イチはベッドにもぐりこんだ。
絵の具の匂いが、指先を染めている。