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カラフの色彩  作者: 緒明トキ
青き日の憧憬
2/22

残暑の候

一番下に友人のね ちゃんからいただいた第一章のコンセプトアートを載せています。

イメージを壊されたくないという方はご注意ください。

 足取りも重く階段を上って、鞄から取り出した鍵を刺し、少し力を入れながら回した。煮詰まりすぎて夕飯のメニューよりも次回のコンクールのことを考えている自分に嫌気がさす。小さくため息をつきながらドアを開けた。

 中に入って、眉根を寄せる。誰もいない廊下に明かりがついていた。つけっぱなしのままで出てしまったのだろうか。

 中から鍵をかけて、靴を脱ごうと身をかがめると、廊下の先からかちゃりと扉の開く音がした。

 とっさに顔を上げる。一人暮らしのこの部屋に、自分以外の人間がいるはずがないのだ。

 どうしてこの可能性に思い当らなかったのかと、黙って唇を噛んだ。不審者が隠れているのかもしれない。心臓がばくばくと音を立てている。

 扉に背をつけ、いつでも後ろ手で鍵を回せるようにしながら黙って廊下を睨みつけていると、突然「それ」が現れた。

「おー、シャワー借りたぞ……って、あれ? 誰だ?」

 一瞬、我が目を疑った。

 素っ裸の男が、自分の家の風呂場から出てきたのだ。

 不審者に驚いて逃げるよりも早く、頭は本能的にと言っていいほどの速さで我が家に訪れた不審者への嫌悪感を訴えた。

「――っ、汚い!!」




 自転車を押すのは主義に反する。

激坂と称される日暮坂をほとんどつま先立ちのようになりながら漕ぎきって、朝倉衣智は大きく息をついた。

 止まった途端にじわりと汗がにじむ。それを手の甲でぬぐって、ペダルに足をのせ直した。

茜沢美術大学三年のイチは、奨学金がかかった秋の学内コンクールに、ここ一か月ほど苦しめられている。

 残暑の中、授業もないのに毎日大学に通い詰めているのも、まだ何を描くかすら決まっていないからだった。今回の締め切りは来月末で、テーマは『新しい色』だ。

――『新しい色』ってなんだ。

 生ぬるい風に吹かれながら、イチは目を細めた。

 夕陽が沈んだばかりの空はまだいくらか明るいが、すぐに暗くなってしまうだろう。丁度夕飯時だ。ゆっくりとペダルを踏み込む。

 イチは、電車が苦手だ。潔癖症のきらいがある彼女には、人混みの中大勢の他人と密室にいなくてはならないなんて、とても耐えられない。

 そのため、今住んでいるアパートに引っ越すまでの二年間は、雨の日も雪の日も自転車で四十分ほどかけて大学に通っていた。

 引っ越してからまだ半年も経っていないが、激坂はともかくとして通学時間が半分ほどになり、昨年よりはだいぶ快適な生活を送っている。

 茜沢東公園をぐるっと回るように進んで、道路を渡ってすぐのアパート。

 アルカンシエル茜沢の三〇三号室が、イチの部屋だった。


 足取りも重く階段を上って、鞄から取り出した鍵を刺し、少し力を入れながら回した。煮詰まりすぎて夕飯のメニューよりも次回のコンクールのことを考えている自分に嫌気がさす。

 小さくため息をつきながら、ドアを開けた。――と。


「おうイチ、お帰り! 飯にする? 風呂入る? それともじ・ろ・う?」


 お玉片手に満面の笑みで尋ねてくる自称三十八歳男性に、イチの顔は無意識のうちに強張っていた。

 すぐに扉を閉めてしまいたくなったが、ぐっと堪えて玄関に足を踏み入れる。靴を脱ごうと身をかがめると、おいしそうな匂いが鼻をかすめた。

 台所から顔をのぞかせている男――ジローは、何かを期待するような目でじっとイチを見つめている。

 十歳以上年下のイチは、猫のような目を鋭くして冷たく返す。

「いい年して自分のこと名前で呼ばないでください、気持ち悪い。ご飯を食べたいので手を洗ってきます」

「おいおい、定番のボケに対する反応がそれかよ! そこは嘘でも『もちろんジローにするぅ』っつう所だろ!」

「そういうのは間に合ってます」

「俺は足りてねーよ!」

 後ろでぎゃんぎゃんわめいているのを聞きながら、イチは鞄を持ったまま洗面所へと向かった。

 蛇口をひねって、首筋を伝う汗を咄嗟に濡れ手でぬぐう。ひんやりとした感覚に目を細め、反対の手で自分のタオルを掴んだ。

 もう一つ残ったタオルを眺めて、案外自分も順応が早いと小さくため息をつく。

 あの男――ジローがここに住みついて、そろそろ三日が経とうとしていた。

 



 始まりは、まだ蒸し暑さが残る夕方だった。

「――っ、汚い!!」

「は、ああ!? いきなり入ってきて汚いってなんだ、汚いって!!」

 男の反論を完全に無視して、イチは眉を吊り上げた。

「とりあえず服を着てください! そして出て行ってください! ここ、私の家ですから!」

「ああ? あのアフリカオタクの家じゃねえのかよ!」

「叔父さんは今タンザニアに研究に行ってます! あああ、そんな恰好で廊下を歩かないでください! 水滴が落ちる! ていうか近づいてこないでください! 服を!! 着ろ!! 早く!!」

 自分が引っ越してくるまで住んでいた叔父の話を出され、無意識に警戒を解いた部分もあるかもしれない。

 いつも冷静で落ち着いていると長年通信簿に書かれ続けてきたイチは、初対面の男に生まれて初めてと言えるほどの剣幕でまくしたてた。それも、咄嗟に掴んだ靴べらを浴室に向けて振り回しながら。

 不審者は妙齢の女子の苛烈な怒りを目の当たりにして、驚いたように目を見開いたまま立ちすくんだ。そして何度か瞬きをして、自分の格好に気づいたのか、のそのそと浴室へ引っ込んでいった。

 おとなしく従いはしたものの、少し長めの髪から廊下へ水滴を滴らせて歩く姿に、イチは思い切り顔をしかめた。汚い。後で拭かなくては。

 男が浴室へと消えてから、イチはさっとリビングへ飛び込んだ。

 叔父の知り合いらしいが、突然入り込んで素っ裸のままうろつくなんて怪しすぎる。

――いや、むしろ叔父さんの知り合いならあり得るか。

 変わり者の叔父を思い出して、イチはため息をついた。

可愛い人形が欲しいと言った幼い姪っ子に、アフリカ奥地の怪しげな人形をプレゼントするような男だ。家で服を着ない主義の友達がいることくらいは何らおかしいことではない。

しかし、真偽のほどを確かめるために叔父に連絡をとろうにも、そもそも電波のある場所にいるかすらわからない。

 とりあえず、武器となりそうな傘を靴べらの代わりに持つ。イチはソファの陰にそれを隠し、静かに呼吸を整えた。

 穏便に済めばいい。服を着て、出て行ってくれればそれでいい。だが、いざとなったら刺す。

 イメージトレーニングを繰り返しながら、イチはゆっくり息を吐いた。

 しばらくして、よれたシャツにダメージジーンズといった格好で先ほどの男が現れた。

首にかけられているタオルは、商店街のくじ引きで当ててからまだ一度も使っていないものだ。これは洗濯だな、とイチは拳を握った。

 全体的にだらしない格好をしているうえに無精ひげまで生えていることで、風呂上がりのはずなのに不潔に見える。年齢は、それこそ叔父と同じくらいだろうか。

 つい人を観察する癖があるイチは、ちらりと視線をやってそこから簡単に分析していく。

 男は四十手前にしては垢抜けているというか、適度な筋肉の付き方や垣間見えるピアス、腕時計などがどうも女慣れしている気がして、そこもなんとなく不潔な感じがする。

 いや、それ以前にあの奇妙な置物や極彩色の織物が大好きな叔父の友人らしいということが信じられないのだが。

 得体のしれない、しかも思う限り『不潔な人間』を家に上げてしまっていることに耐え難いストレスを感じていたイチは、ふと男の髪を見て目を見開いた。

 とれかけのパーマが毛先に僅かに見て取れる。だが、問題はそこではない。

――なに、あの色。

 蛍光灯の光に照らされて、うねる髪が独特のつやを帯びている。

 その色は、何とも名状しがたい不思議な色合いをしていた。

 赤に近いようで、青も混じっているようだ。黄色や緑にも見える。だが、決して濁ってはいない。

 衝撃を受けてじっと髪を見つめていると、男は居心地が悪そうに首を傾げた。

「あー、家主さん? とりあえず座っていい?」

「え、あ、どうぞ。そっちにお願いしますね、そっちに」

 小さなテーブルをはさんで向かい側を指す。

 男はどっかりと座りこんで、ひとまず落ち着いたというように息を吐いた。

「はい、どうも。で? あのアフリカオタクは今いねえわけ?」

「叔父さんは今タンザニアに行ってます。長期滞在だそうで、今年いっぱいは帰ってこないということでした。失礼ですが、叔父さんのお友達ですよね? 叔父さんから聞いていなかったんですか?」

「ん? まあな。俺は毎年この時期に来て泊まってく感じだったからな……それこそあいつから聞いてねえわけ? 夏の終わりのあたりにイケメンが泊まりに来るって」

「いえ、全く」

 さらりと返すと、男は「マジか」と眉間にしわを寄せた。イチも誰がイケメンか、と同じような顔をする。

 男の顔立ちは元々整っているようだし、確かに若いころは文句なしのイケメンだったのかもしれないが、どことなく感じられる怠惰な雰囲気というか退廃的な感じというか、生き生きとしていないところがかなり大きな欠点のように思われる。

 つまり、全体的にどうもいかがわしいのだ。

「とりあえず俺、ここ以外に泊まれるようなとこないんだわ。悪いんだけど二週間くらい泊めてくれねえか?」

「無理です」

「ま、まあそうだろうけどよ……でも、ほんと困ってんだよ」

「心中お察しします。が、無理です」

「そう言わずにさあ。この辺にホテルとかねえよな? 駅前じゃ遠すぎるし……迷惑かけねえからさ、頼むよ」

 男は、イチが見る限り、本当に困り切った様子で頭を下げた。それを見て、無理です、と言おうとした口を閉じる。

 イチの心を揺さぶっているのはその懇願ではない。視線は、顔を覆うように揺れた髪に釘づけだった。

――なんだろう、あの色。

 考え込むイチに、脈ありかと男はたたみかけるように続ける。

「いや、もちろん俺はいかがわしい真似とかしねえよ? 彼氏とかお友達とか来るんなら大人しくしとくし、家事全般得意だし、年頃の女の子への配慮はできるだけ――」

「いえ、結構です」

「あ、さいですか……」

 ぴしゃりと遮られ、男は気まずそうに口を閉じた。

 対照的に、イチは淡々と言う。

「あの、泊まってくださってもいいですよ」

「…………は?」

「ですから、うちに二週間泊まってくださっていいと言ってるんです」

「は、ああ!? マジか! 助かる! ありがとう!」

 椅子から立ち上がった男が喜色満面で差し出した手を一瞥して腕を組み、イチは真っ直ぐ男を見る。

「ただし、条件があります」

「え」

 少々緊張した様子の男を意に介せず、イチは威圧的に目を細めた。

「必要以上にお互い干渉しないこと、家を汚さないこと。無いとは思いますけど、私に危害を加えないこと。そして、一日に二時間ほど私と過ごすこと。つまり――」

 猫のような目が捉えているのは、安っぽい蛍光灯の光に揺らめく、見たこともない色。無意識のうちに唇は弧を描いている。

 大丈夫だ、きっとこの男は断らない。イチは宣告する。

「私の絵のモデルになってくれるなら、泊まってもいいですよ」

 芸術家の端くれであるイチは、意図せず転がり込んだ『新しい色』を、なんとしてでも描きたいと思ったのだった。





挿絵(By みてみん)

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