彼の日記
八月●日
友達ができた。いち、というらしい。珍しい名前だ。
兄さんは僕に気を遣って色々世話を焼いてくれるけれど、僕自身どうしたらいいかわからない。
仕方がないのでとりあえず散歩をしてみることにした。
近場をぶらついた帰り、家の前の公園で、スケッチブックを持った女の子に会った。
年の割に落ち着いている、青いワンピースの子だ。
声をかけたら、話し相手になってくれた。実は、友達になったなんて、僕が勝手に思っているだけだ。
あの子には不審者だと思われているかもしれないし、明日からもう来ないかもしれない。でも、楽しかった。
いちはとても絵がうまい。僕はあのくらいの年の頃、虫ばかり描いていた気がする。
いちは絵を描くのが好きだと言っていた。僕は今、絵を描くのが苦しくてたまらない。
だからだろうか、なんだかあの子が羨ましい。
でも、あの子と絵を描くのは楽しかった。犬を描いたらとても喜んでくれた。
また会えるだろうか。今度会う時は、僕も紙と鉛筆を持っていこうと思う。
八月×日
いちは美術教室に通っているらしい。
その関係で、美術館にもよく行っているらしい。あの公園の絵があるという。それが好きで、あそこに来たと言う。
僕はきっとその絵に感謝しなくてはならないのだろう。いちと引き合わせてくれた一枚なのだ。
絵のある場所を教えてもらった。いちはまだその作品の名前が読めないのだという。
そういえば、あの子はまだ子どもだったんだなと思った。僕の頭も、たいがいおかしいのかもしれない。
今日は木と車を描いた。今度は自転車を描くという約束だ。確かに、車より見た目が複雑かもしれない。
スケッチブックがもう終わりそうだ。蝉がうるさかった。
それにしても、いちの青いワンピースはとても眩しい。本人も気に入っているらしく、よく着ている。
夏場は全体的に白くくらんでいるからか、瑞々しく見えていいと思う。
あれを選んだといういちのお母さんは、趣味がいいのかもしれない。
僕は今、あの姿を描いてみたいと思ってもいる。少し。
八月▲日
いちにひどいことを言ってしまった。馬鹿じゃないのか。僕は本当に本当に最低な奴だ。
あの人が、父が描いた絵をあの子が好きだったという、ただそれだけのことなのに。
あの子が誰の絵を好きだろうと、僕がどうこう言う権利はない。ないはずだ。でも僕は、ひどいことを言った。
負けたような気がしたのだ。
絵と人間は別物のはずなのに、僕よりあのろくでもない父のことを好きだと言われた気がした。
大人気ない。最低だ。いちはきっと傷ついたと思う。泣いてしまっただろうか。
きっともう来てくれないだろう。そう思っているくせに、謝るチャンスが欲しいとも考えている。
どうして僕はいつも、歩み寄ってくれる人に対して優しくできないのだろう。不安定すぎて嫌になる。
どうかもう一度いちに会えますように。虫のいい話だとは思っている。でも、願わずにはいられない。
次に会ったら、絶対に謝るから。ちゃんとずっと優しくするから。どうか。
八月▼日
今日は来なかった。
蝉が大人しくなってきた。夕方はやたらと情緒たっぷりの鳴き方をする。やめてほしい。
八月■日
今日も来なかった。
夏休みはまだ終わっていないはずだ。雨でもない。それでも来ないなら、答えはもう出ているはずだ。
見なくなってから特に、あの青いワンピースが頭から離れない。あの鮮やかさばかりが増す。
八月◆日
いちが引っ越してしまった。
あんなひどいことを言った僕に会いに来てくれたらしい。あの子のスケッチブックを見つけた。
「ずっとかきつづけます」と書いてあった。
僕が「才能がない」だの「おかしい」だの言ってしまったことを、やはり気にしていたのだ。
でもあの子は、ずっと描き続けると言った。いちは僕よりずっと強い。対する僕は、情けない奴だ。
このままでは会えない。もっと腕を磨かなくては。中身も磨かなくては。
僕もずっと描き続けなくてはならない。
再びいちに会って、ちゃんと目を見て謝るためにも。
八月◎日
やはり、いちを描こうと思う。
僕を救ってくれたあの子を描く。
苦しんだ夏の日と、そこから掬い上げてくれたいちを忘れられない。忘れたくない。
いつかまた会った時に、どれだけ救われたか伝えたいのだ。
その時ちゃんと言葉にできるように、いちを忘れないような絵を描こうと思う。
○月*日
いちの絵が完成した。
コンクールに出すなんて久々だ。明日にでも送ろうと思う。
どこかで見てくれたらいい。今もちゃんと描き続けているだろうか。いや、僕は実のところ疑ってなどいない。
絵を描いているだろういちが、いつかこの絵に出合いますように。
僕もいつかあの子に会えますように。いや、きっと会いに行こう。
絶対、いちに謝る。
それまで僕も、ずっと描き続けようと思っている。