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カラフの色彩  作者: 緒明トキ
晩夏の斜陽
18/22

彼女の絵

 イチは、並べた瓶を眺めて小さく息をついた。

 迷いなくいくつか色を選んで、手元に寄せる。

 浮かぶのは、今でも思い出せるあの色。おそらくこの世にはない、完全なる新しい色。

 だが、そんなものは問題ではないのだ。イチは絵筆をとった。



 初めて会った時の濡れた髪、光の下でぼんやりと浮かび上がるような姿。心臓が止まるかと思ったあの日、武器にしようと思った傘は台風で殉職したのだった。

 ぬるい風でかすかに運ばれてくる煙草の香りと、手の節の陰影。独特のぼんやりと窓の外を眺めていた時の、深く濁ったような髪の色。

 軽口を叩いて笑って、イチの皮肉にむっとした表情を浮かべた。ころころと変わるそれは、本人の口以上に饒舌だったようにも思える。

 台風の日、ばきばきの傘を片手に怒っていた姿。

 家についてお互いの肩がびしょ濡れだったのを、示し合わせたように話題にしなかったこと。

 食事時、なにやら楽しそうにこちらを見ていたことも覚えている。

 朝食にはコーヒー。夕食のふっくらとしたハンバーグ。

 ネオンに映える鮮やかな色。朝方の眠たげな姿。

 案外綺麗好きで、テレビを見ながらモップをかけていた姿も思い浮かぶ――。


 焼きつけようと思ったあの色だけではない、こんなに覚えている。

 思っていたよりも自分はジローのことが好きだったらしい。イチは知らないうちに微笑んでいた。

 パレットの上に並べた色の塊は、どれも見慣れたものだ。

 だが、これで十分なのだとイチは知っていた。


 美術館のあの青い絵の前で立ち尽くした姿。

 夕焼けにぼんやりと照らされる、呆けたような顔。迷子になったかのような心細い背中。

 口元だけ吊り上げる、諦めたような笑い方。

 嬉しいような悲しいような、感情がごちゃ混ぜになった顔。


 そして、あの瞬間。


 窓から落ちるその時、確かに彼は笑っていた。

 ポストカードを持ったまま、すり抜けたイチの手を見送りながら、ジローは落ちて行った。

 きっとそれは、言葉にはできない感情だったのだろう。ジローは、生まれて初めて見るような、色々なものから自由になった人間の顔をしていた。


 あの日、あの瞬間。ジローは何もかもから自由になった。

 初めて他人へと伸ばしたイチの手からも逃げ切って、鮮烈なイメージと共に、ジローはあの部屋から消えた。


「――ちゃんと、描きますから」

 イチが欲しいと思ったすべてを、いとしいと思ったすべてを、包み隠さずに全部、キャンバスに並べてみせる。

 誓うようにイチは言う。

「私がちゃんと、全部描きますから」

 だから。

 だからどうか、だなんて、乞うような台詞は思い浮かばなかった。

「だから、覚悟しておいてくださいね」

 イチは、猫のような目をうっそりと細めて、獲物を追うような気持ちで呟いた。

 誰に言ったつもりかは自身もよくわかっていない。

 だが、逃してたまるかという心のままに、イチはあの一瞬を追う。


 筆は、止まらなかった。





 その日はひどく冷静だった。

 前日やりきった全てを過信することなく、後始末まできちんと行った。丁寧な作業は、それが習慣になっていることを表している。

 ただ、珍しく完成が待ち遠しかった。

 昨夜は子どものようにそわそわと落ち着かず、いつもより早く家を出た。

 秋が着々と近づいているようで、朝の空気がだいぶ涼しく感じられる中、足を止めることなく自転車をこいだ。

 学校に着いて、真っ先に作品を置いた教室へ向かう。守衛に借りた鍵で開けた引き戸の先に、それはあった。

 イチは静かに息をのんだ。

 朝の光の中で眺めたそれは、完璧だった。


 イチは思わず唇を噛んだ。泣いてしまいそうだったからだ。

 こんな言葉を使ってはいけないかもしれないと知りながらも、完璧だと思った。


 その絵には、いつものイチの絵のような整然とした美しさはない。

 ただ、幾重にも塗り重ねられた色の奥には、確かにジローがいた。

 親しみが持てるような笑みを浮かべた男が、窓の外のぼんやりとした暗闇に吸い込まれていくような絵だ。

 色合い自体はそれほど暗くはなく、ともすれば窓から外に出て行こうとしているだけのようにも見える。

 だが、そこには確かに、焦燥と絶望があった。

 鮮明かつ具体的に描かれた男は、曖昧な闇に背を任せながらも、ひどく幸せそうなのだ。

 彼は望んで窓の外に消えようとしている。だからこそ、この男には絶対に手が届かない。

 イチは、ちゃんと描けたのだと思った。

 あの日、呆然と手のひらを見つめたイチが見たもの、味わった感覚。窓の外から引き上げたかったジローという男が、その絵の中にはあった。

 ぼやけた視界を乱暴に拭って、イチは踵を返した。

 これをコンクールに出そう。出さなくては。イチは知らず知らずのうちに笑みを浮かべていた。




 出品票を書いて、手順に沿って提出したところまでは覚えている。

 無意識に片付けなどをしていたらしく、気付いたら夕方になっていた。

 教室から出ると、同じようなタイミングで隣から人が出てきた。

「――志村さん?」

 思わず声をかけると、グリーン系のアイシャドウをきらめかせて、華やかな美人が振り向いた。

 以前話した時とは大違いで、彼女もどこかすっきりしたような顔をしている。目が合うと、顔いっぱいに笑みを浮かべて近づいてきた。

「わあ、いっちゃんじゃん! なになに、提出終わったの?」

「うん」

「やったね、お疲れ! あたしもなんだ!」

 ぐっと親指を立てた志村に微笑んで、「お疲れさま」と返す。

 背の高い志村は、いたずらっぽく笑みを浮かべてイチの顔を覗き込んだ。

「で、どうよ? ちゃんと描けた?」

「……うん、描けた」

 頷いて、猫のような目で志村を睨みつけるように見上げる。

 おお、と志村は顔の横で勢いよく手を合わせて声を弾ませた。

「マジか! やったじゃん、大逆転じゃん! ……で、何で泣いてるん? 不完全燃焼? 発送ミス?」

 ぐっと眉間にしわを寄せて耐えるように志村を見上げていたイチは、努力の甲斐なくぽろぽろと涙をこぼしていた。きょとんと見つめてくる志村に、イチは絞り出すように言った。

「……完璧だったよ」

「お?」

「私は、完璧だったと思ってる」

 鼻の先をほんのり赤く染めながらはっきりと言って、イチは口元を手で覆った。

 イチの言葉に、志村は顔を輝かせる。クールなイチは、おしゃべり好きな志村とは対照的に、あまり作品の出来について話したがらないのだ。

 そのイチが完璧だと言うのだ、よほど満足がいく絵が描けたのだろう。志村は感心したように声を上げる。

「おお……!! ならいいじゃん! お疲れお疲れ! いやー、何があったかわからんけど、このFカップを貸してやろう! ほれ、泣け!」

「Fもあんの……」

「おうともよ!」

 けらけら笑う志村に肩を組まれ、イチは一瞬体を強張らせたが、すぐに力を抜いた。志村の自称Fの胸が肩に触れて暑苦しい。

「で、すっきりするまで泣いたら今度はあたしの話も聞いてよね!」

「……いいよ」

「そうこなくっちゃ! よっし、打ち上げしよう打ち上げ!」

 陽気に鼻歌を歌いながら大股で歩く志村に、イチは涙をぬぐいながら引きずられるように歩く。

 暑苦しい。

 が、悪くない、かもしれない。

 全部誰かに話したいような、黙って泣いていたいような気持ちだった。


 


 夏がもう終わる。





第二章終わりです。

ついでに夏も終わりです。

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