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カラフの色彩  作者: 緒明トキ
晩夏の斜陽
17/22

彼女たちの活路


 もしジローの髪の色がこの世のものでないのなら、どうするべきなのか。

 イチは黙ってスケッチブックを眺めていた。

 混ざり合った色とたくさんの線だけが、今現在イチの手元に残されているジローの全てだ。




 何よりも忠実さを重んじる普段のイチだったら、すぐにでも次を探すだろう。

 静謐で、美しく、ありのままの姿で誰もがうっとりとため息をつくような、今までイチが描いたことがない色彩のモチーフを見つけて絵にするだけでいいはずだ。

 だが、今回ばかりは違った。この世のものでなくとも、どうしても描きたいモチーフがあるのだ。


『イチ、ありがとな』


 イチは、あの時の光景を今でも鮮明に思い出すことができる。

 ジローが窓から落ちて消えたあの瞬間の記憶は、イチをとらえて離さない。

 あれが欲しい。描きたい。いや、描かなくてはならない。

 義務とも思えるような強烈な欲求とは裏腹に、イチの筆はやはり進まなかった。

 いざ立ち向かってみたところで、方法がわからないむなしさを噛みしめる。どうしたらあの日をこの白いキャンバスに閉じ込めることができるのだろう。


――と、隣り合っている教室の方から突然バンという大きな音が響き、イチはびくりと肩を震わせた。

 何か大きな板のようなものが倒れたらしい。心臓がばくばくと音を立てている。

 胸を押さえながら隣の教室へと続くドアを睨みつけていると、何度か物が倒れたような音がして勢いよく原因が飛び出してきた。


「ああーうるっさい! 一個倒れたら他も倒れるとか馬鹿じゃん!? 常日頃からこつこつ片づけろっての! ……あれ、いっちゃん?」


 一人で騒ぎながら現れたのは志村だった。

 イチに気づいてぱっと笑みを浮かべるも、その顔はどことなくやつれているように見える。

 服装にもいつものビビットカラーはなく、くすんだような灰色のスウェットにぺったりとしたサンダルという姿だ。

 自分以外に人がいると思っていなかったイチは驚いて尋ねた。

「志村さん、朝からいたの?」

「えっ、いたよ? いっちゃんいつ来たの?」

「ちょっと前かな。お昼買ってきたから」

「マジ? 全然気づかなかったわ、座ったまま寝てたから。静かだったでしょ?」

「物音一つしなかったよ、すごい音がして志村さんが出てくるまで」

「あー、あたしもあれで目が覚めたんだ。ほら、寝ながらなんかびくっとしたらしくてさ、はずみで画板蹴っ飛ばしたっぽいんだよね」

 けらけらと笑いながら近づいてきた志村は、イチの顔を覗き込んで首を傾げた。


「……なーんか、いっちゃんも行き詰ってるっぽいね」


 イチは黙って苦笑する。

 志村とイチは常に顔をつき合わせて何かをしてきたわけではない。だが、確かにお互い絵を描くためにこんなに何かをすり減らしたことはなかったかもしれないと、イチはぼんやり思った。

「あっ、そうだ。ドーナッツ食べない? 駅前で一個百円だった」

 言いながら志村は踵を返し、小走りでドーナッツが入った紙袋を持ってきた。志村は基本的に返事を聞かない。

イチは礼を言って、チョコレートがかかったものを一つもらった。

 何か返せるものはないかと鞄を探ると、先ほどもらったばかりの豆乳パックが出てきた。

 少し悩んだが、家にもまだ階下のおばさんからもらったものもあることを思い出し、「もらいものだけど」と豆乳ココアを差し出した。

 志村は「マジ? ありがとう!」と笑顔でストローを刺し、そのままずるずると飲み始める。

 あっという間にスリムになったパックを眺めながらドーナッツを頬張っていると、志村がしみじみと言った。

「いやあ、いっちゃんでも思い悩むもんなんだねえ。あたし、けろっとした顔でさくさく描いちゃうのかと思ってたわ」

「……そう? 志村さん、他人のこと言えないと思うけど」

 けろっとあんな絵を描いて、ボツにするくせに。

 いつかの絵を思い出して苦々しく思いながら返すと、志村はきょとんとした顔で首を傾げた。

「あたし? あたしはいつだって全力投球だよ。 ほら、芸術って爆発らしいじゃん? あたしも日々爆発する勢いでカロリーをはじめとした色んなもん削って描いてるよ、こう見えて!」

 ぐっと拳を握って力説してから、志村は急に肩を落として大きなため息をついた。

「でーも今回は駄目だなあ。いつもはもっとこう、思うままにやってもしっくりくるのにさ……」

 がしがしと頭をかくと、結ばれていた長い髪が軽やかに跳ねて肩口に落ちた。

 どうやら真剣に悩んでいるらしい。イチは豆乳を一口飲んだ。

「あたしはあんまし国語得意じゃないし頭も悪いから、言葉でうまく伝えらんないんだよね。だからあたしが言いたいこととか感じたこととか、これだ! って思うような絵にするんだけどさ」

 志村は一度言葉を切る。何かを考えているのか、手がせわしく握って開いてを繰り返していた。

 志村の感情に身を任せたかのような作品は、美術系の人間以外にも評価されている。それはきっと大先生が言う「魅力」がある絵だからだろう。

 彼女は、絵画に詳しくない人々に対しても訴えかけるような、強烈な「何か」がある絵を描く。イチは今、それを羨ましくも思っていた。

 と、志村がぱっと顔を上げて手を打った。


「あ、わかった! 納得いかないんだよ! なんつーか、一個だけじゃないじゃん!?」

「え、何が?」

「いろいろ! 気持ちとか!」


 首を傾げているイチに、志村は身振り手振りをまじえてたどたどしく説明を続ける。

「ほら、なんていうかさ……例えば、楽しいことって楽しいだけじゃないじゃん。遊園地とか行ってさ、楽しいけど疲れたなーとか、帰んなきゃなーとか、明日学校だわーとか、そういうのも一緒にあるっしょ?」

「うん」

 志村は立ち上がって、演劇か何かのように大げさに腕を広げた。

「でも、だから楽しいわけじゃん! なんとなく寂しい感じっていうか、そういう、楽しくないのが透けて見えるからいいなって思うんじゃん!」

「ああ……うん、そうかも」

 イチが頷くと、志村は「だよね!?」と目を見開いた後、急に元気をなくしてしょんぼりと椅子に腰かけた。

 顔を覗き込むと、志村は眉を下げて情けない声を上げる。

「そこなんだよなあ……そういうのがないんだよ……。どう描けばそういう、ごちゃごちゃした気持ちが伝わるのかわかんないんだよねえええ……ああああぁぁ難しいいいぃぃ」

 おかしな声を出しながらぎゅっと目を瞑り、体を前に倒して頭をぐしゃぐしゃかき混ぜていたかと思うと、志村はがばっと起き上がって生クリームたっぷりのドーナッツをひっつかんだ。

 半泣きでもぐもぐと咀嚼している様子を見て、イチは眉をひそめた。

 志村の変わり者っぷりに拍車がかかっているように見えるが、つまるところイチと同じような悩みを抱えているようだ。


 イチも志村も、どう描けばいいのかわからずに苦しんでいる。

 きっと答えは違うだろう。だが、もしかしたら活路は見えるかもしれない。


 イチはドーナッツを一口かじって考える。

 全力で描く志村は、だからこそ人の共感を得る作品を生み出すことができる。志村自身がわからないことも、「わからない」という気持ちごとキャンバスにぶつけるのだ。

 が、自分はどうだ。

 綺麗だ、欲しいと思ったものを正確に描くことを心がけてきた自分は、見た通りに線を引いて的確な色を的確な場所に置くだけで、絵を描いた気になっていたのかもしれない。

――それでは、手に入れた宝物をケースに入れて他人に見せびらかすのと変わらないのかもしれない。

 イチは自分の手を見つめた。指先が空をかいた記憶がよみがえる。今現在ドーナッツを持っているこの手では、結局何も掴めなかったのだ。

 それを描かなくてはならないのではないか。イチは目を細めた。

 彼だけは、この絵だけは、ケース越しの展示物で終わらせたくないのだ。


「――志村さん、私、この絵だけは絶対に最高の出来にしたいと思ってるんだ。私が描かなくちゃいけないと思ったから。きっと、私にしかできないから」


 目の覚めるような『新しい色』をイチに叩きつけて、赤の他人の癖に勝手に面倒をみて、心配して、挙句勝手に満足して、跡形もなく消えていった幽霊。

 色や存在を鮮明に思い出せるのも、こんなにも欲しいと思っているのも、おそらくイチだけだろう。

「志村さんの言う通り、ぴったりの一つを探してちゃ駄目なんだよね。このままじゃ、描きたいものをそっくりに描けたとしても、私は納得できない」

 イチは、スケッチブックの表紙を指でなぞった。あの色がジローなのではない。イチが覚えているすべてがイチの描くべきジローで、手に入れたいと思っている幽霊なのだ。

 志村が鼻水をすする音が教室に響く。喧騒が遠い。

「志村さんの話を聞いてて思ったんだけど、私、全部描かないといけないんだね。見た通りのこと、見た通りの色。あと、空気とか雰囲気とか、私がそれをどう思うのかとか……そういうのを、私が思う色と線で、全部」

 そういう意味では、今までの絵は忠実ではなかったのかもしれないとイチは思う。

 ガラスケースに自分の心情を展示して何になる、という感覚だったのだ。

 イチは、白いキャンバスを見ながら続ける。

「私は、誰かに伝えるためじゃなくて、自分の中でとっておきたいものを描く。だから、私が欲しい『それ』になるように描かないと、本当は正解じゃないんだ」

 志村の話を聞いて、やっと気づいた。大先生が言わんとしたこともわかった気がした。

 適切な色、適切な線。それだけでは、完璧な絵は描けないのだ。

 イチは微笑んでいた。今なら描ける気がする。


「えええ!? ちょ、なんかずるいよいっちゃん、晴れやかな顔しちゃって! あたし、なんかいいこと言ったっけ? 自分じゃ気づかなかったんだけど!」


 涙と鼻水でせっかくの美人を台無しにしながら、志村は勢いよく立ち上がる。

 確かに自分だけヒントをもらうのはフェアでないかもしれないと、真面目なイチは眉間にしわを寄せた。何か志村にプラスになるようなことを言えないだろうか。いや、無理そうだし、豆乳をもう一本でもいいだろうか。

 頭を悩ませていると、ふいに朝に聞いた話を思い出した。

 それは確か、ある感覚派の画家の話だったはずだ。

「志村さん、参考程度に聞いてほしいんだけどね。『他人に見せる絵』だと思って描くとか、どうかな」

「……うん? もうちょっとわかりやすく言って」

「えっと、なんて言うか……志村さんの表現したい気持ちとか感覚を、もっと見る人にわかるように描いてみるとか」

「わかるように……」

 ううん、とイチは小さく唸る。

 志村が言うように、言葉にするというのはなかなか難しいかもしれない。

 ええと、例えば、とはっきりしない前置きをしてから、志村を真っ直ぐ見た。

「どうして志村さんは『それ』を描きたいと思ったの?」

「……それは――」

 言いかけて、志村は口をぱくぱくさせた。言葉が出ないらしい。

 眉間にしわを寄せてみたり眉を下げてみたり赤くなったり青くなったりとなんだかせわしない。

 彼女にもなにやら複雑な事情があるらしい。

 こんなところも自分と少し似ているかもしれないと思いながら、イチは苦笑交じりに続けた。

「なんだか色々あったみたいだし、折角だからそういう過程も入れてみたらいいんじゃないかな。志村さんはきっと、楽しいって気持ちだけで描きたいんじゃないよね?」

 尋ねると、志村はぶんぶん首を縦に振る。

 そして、何事かぶつぶつ呟いていたかと思うと「……過程……どうして、か……。うん、それ、いいかも!」とぱっと表情を明るくして立ち上がった。勿論、ドーナッツの紙袋を持つのを忘れてはいない。

「よっしゃあ、なんか描けそう! ていうか描いてみたい! 楽しみ! ありがとう、いっちゃん!!」

「いや、こっちこそ、ありがとう」

「どういたしまして! これが終わったら打ち上げしよう!」

「うん、行こうか」

「やった! それも楽しみだなー、頑張るぞー!!」

 どうやら豆乳パックを渡す必要はないようだ。気分を上向きに切り替えたらしい志村は、スキップをしながら鼻歌まじりに隣の教室へと消えて行った。

 

 イチはその背を見送って、勇ましい気分でキャンバスに目をやった。

 描いてみたい、楽しみ、という志村の気持ちがわかる気がする。イチは道具をとりに行こうと立ち上がった。

――ジローを描こう。あの日々の、あの時の全てを。





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