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カラフの色彩  作者: 緒明トキ
晩夏の斜陽
16/22

友人の立ち位置


 また、教授に大口を叩いてしまった。

 自分を追いつめていく自身に少し呆れながらも、少し晴れやかな気持ちで階段を下りる。



 今日は学食でなく教室で昼食をとる予定だ。

 サンドイッチを二つとり、隣の棚で、安いからと飲んでいるうちにはまってしまった豆乳を探す。

 と、脇からいきなりレジ袋を差し出された。


「やる」

「は?」


 振り向くと、いつものように真面目な顔の六浦が真っ直ぐにこちらを見ていた。

 袋に視線を移すと、中に入っているのは大学生協の豆乳パックシリーズだった。六浦はそれを袋ごとイチに渡してくる。

 誕生日でもないイチは、驚いてそれを押し返した。

「え、いいよ。私、六浦君から物をもらうようなことは別に――」

「……昨日は悪かったな」

 なんとなく元気がないような六浦に謝られ、イチは手を止める。

 六浦が言う「昨日」に心当たりがない。昨日は何があっただろう。イチは不思議に思って尋ねた。

「昨日? 六浦君、何かしたっけ?」

「朝倉は俺と話した後、思いつめたような顔をしていただろう」

「話……ああ、幽霊のこと?」

「そうだ。真剣に悩んでいたんじゃないのか? 以前の電車の件もそうだが、どうも俺は鈍くていけない」

 あの色の話か、と思い当ったイチは、肩を落とした六浦を見上げて眉を下げた。

「ごめん、本当になんでもないんだ。なんだか気を遣わせちゃったみたいで、寧ろ私の方が申し訳ないんだけど……」

 イチが言い終わるかという所で、六浦はいつになく困ったような顔で慌てたように口を開いた。


「いや、朝倉が俺に気を遣う必要はない! 俺が勝手に気にしているだけだ」

「えっ、そうなの? 私を?」

「は?」


 自分は六浦に何かしただろうか、とイチは少し考えて、ふと思い当った。

――そうか、友達が少ないから悪目立ちしているのかも。

 先生になりたいような面倒見のいい六浦のことだ、イチのようなタイプを放ってはおけないのだろう。

 確かに六浦は、交友関係が広いにもかかわらず、イチや志村のような一匹狼タイプによく声をかけている。

 だからか、と一人で納得していると、目の前の六浦もなぜかフリーズしていた。

 不思議に思ったイチが「六浦君?」と声をかけると、六浦ははっとしたように背筋を正した。

「い、いや、俺が気にしているというのは、別におかしな意味ではないからな! ただ、不快な思いをさせたかもしれないと思って、きちんとけじめをつけようと、今日はこれをだな……!」

「あ、うん。もらっていいならいただくけど」

「そうしろ、ほら!」

 勢いよく豆乳パックシリーズが入った袋を差し出される。

 イチは苦笑しながら、持ち手にするりと手首を滑り込ませた。


 と、袋を持っていた六浦の指が、イチの手首に触れる。


 六浦は身を強張らせた。過去の経験からも、イチは他人に触られるのが苦手だと知っていたからだ。

 しかし、当のイチは気にする様子もなく、自分の手に移った袋の中を確かめながら微笑んだ。

「あ、結構入ってるんだ。ありがとう、六浦君」

「あ、ああ……」

 驚いたように目を見開いている六浦に、イチは首を傾げた。

 袋の中身と六浦との間で視線を行き来させて、ああ、と小さく頷く。

 そして、袋からパックを一つ取り出して六浦に差し出した。

「プレーン二個入ってるね。自分用のも間違えて入れた?」

「い、いや、違う! 全部お前のだ! 俺はただ――」

「ただ?」

 六浦は、言葉を探すように視線を彷徨わせる。

 そして、いぶかしむような調子で言った。


「朝倉、人に慣れたのか?」


「……うん?」

「……いや、なんでもない。忘れてくれ」


 早口で続けて、言った本人は気まずそうに目をそらした。

 犬猫のような物言いをされた気もするが、イチはそういえば確かにと目を見開いた。思わず先ほど六浦の指が触れた手首を撫でる。

 普段はちょっとした接触でも気になってむず痒くなるはずなのだが、本当に意識していなかったようだ。自分の潔癖症にいささか辟易していたイチは、まるで普通の人みたいだと少し嬉しく思った。

 ジローとの共同生活はどうやら、他人との距離を縮めるちょっとしたリハビリになったらしい。

 体温計や買った覚えのない調味料だけではなく、イチ自身にも実益はあったようだ。本人には一度も接触していないが、馴れ馴れしさは人一倍だったからだろうか。

 まるで親しい友人か家族のように『おうイチ、おかえり!』と家主を迎えたり、風呂上がりに限りなく全裸に近い服装でほっつき歩いたりしていた男を思い返して、イチは思わず微笑んでいた。


「――まあ、慣れたかもしれないね」


 以前の自分では考えられなかった共同生活を経たのだ。ショック療法というやつかもしれない。

 視線を六浦に戻すと、あっけにとられたような顔でこちらを見つめた。

 珍しい反応に首を傾げると、わずかに眉間にしわを寄せた六浦が、言葉を探すように視線を彷徨わせた。

 ちらりとそちらに目をやるも、夏休み明けの書籍セールの垂れ幕が、冷房とは言えないようなぬるい風に揺られているだけだった。

 「ああ、まあ、なんだ」という六浦の声に視線を戻すと、顎に手を添えた六浦が真面目な顔でこちらを見ていた。

 心なしか、眼鏡の奥の瞳が鋭く光っている。先生というより名探偵に見えなくもない。

 六浦は、厳かとも言えるような調子でゆっくりと言葉を吐き出した。


「……俺はお前のファンなのかもしれないな」

「え?」


 ファン。

 送風機以外の意味で六浦の口から出ないだろう言葉が聞こえ、イチは空調のことかと一瞬天井に目を走らせた。勿論それらしきものはない。

 イチがファンの意味をのみこめないでいるうちに、六浦は、ああそうか、と一人頷いて、どことなく晴れやかな表情で微笑んだ。

「そうだな、俺はお前のファンなんだ。だからお前の動向が気になるし、応援したいと思うんだな」

「……突然どうしたの、六浦くん」

 六浦の言わんとする所を理解したイチは、自分の行動を少し恥ずかしく思いながら尋ねた。

 問われた本人はやけに明瞭な調子で答える。

「いや、気にするな! 俺が自分で納得しただけだ。いや、しかし、やはりそうだな、うん」

 六浦はふっきれたように一度大きく頷いて、真っ直ぐにイチを見た。

「確かに俺お前の友人だし、ともすればライバルかもしれない。だが、それ以前に俺は朝倉のファンだから、お前と話すのを楽しいと感じるし、お前の作品もとても好ましく思っている」

「え、あ、ありがとう?」

「礼には及ばない。それよりいいか、朝倉」

 六浦はそこで一度言葉を切って、困惑した様子のイチに対して、断言するように続けた。

「どんな作品でも、お前が描くならそれはきっと素晴らしいんだ。納得がいくように描け。俺は――」

 眼鏡の奥の切れ長の目を僅かに細めて、六浦は微笑んだ。


「俺はお前の作品を、心から楽しみにしている」


 言い切って、どこかすっきりしたような顔で六浦は一度目を閉じた。そして小さく息を吐くと、イチが何も言えずにいるうちにぱっと瞼を開けて、またな、と言って足早に立ち去ってしまった。


 目を丸くしたままその背を見つめていたイチは、なんとなく気恥ずかしくなって頭をかいた。

 ファンだなんて、初めて言われたのだ。イチの絵を楽しみにしているとも言っていた。

 イチはふと自分の手を見つめた。ずっと、自己満足で描いてきた絵のはずだった。だが、それを楽しみにしてくれている人がいた。

 なんとなく嬉しくなったが、それを押し殺すようにして、いつもの静かな自信に満ちた瞳で微笑んだ。


「うん。私は、ちゃんと描くから」


 楽しみにしてて、と言うほどの勇気はない。

 だが、胸を張れるような絵を描こうと思った。

 全てを尽くして、晒して、そうして描いた絵を見て欲しいと思った。


 自動ドアを抜けて、イチは教室へ向かう。

 散歩に来ている親子の声やサークルの練習の音が遠く感じられる。

 穏やかな喧騒から隔離されたような教室棟は、相変わらず別世界のようだった。




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