教え子の悩み
「朝倉せんせー、こんにちは!」
「あ、健斗くん、こんにちは」
いつものように駅前の絵画教室に行くと、小柄な男の子が真っ先に駆け寄って来た。
走ったせいでぴょんぴょんはねた髪は、茶色と金髪が混ざったように見える。彼の父親はイギリス人だそうだ。
「駄目だよ、走ったら」
お人形さんのような顔でにこにこと見上げてくる健斗に苦笑すると、悪びれずにごめんなさいと弾んだ声で言った。
「ねえ、先生は宿題終わった? ぼくちゃんと全部終わらしたんだよ、じゃないと行かせないってママが言うから」
「うーん、そうだね、先生はまだかな。もうちょっとなんだけど」
「ええー、まだあ?」
核心を突かれてぎくりとしたイチにお構いなしに、健斗は不満げに言う。
彼は「言えば何でも素早く正確に描く」イチに、無理難題をふっかける遊びが気に入っているのだ。 イチに出題しようと思っていたのか、手に持っていた重たげな海洋生物図鑑をへなへなと下げて唇を尖らせる。
「あらあら健斗さん、あなたまだ途中だったでしょ」
突然後ろからかけられたまろやかな声に、健斗は飛び上がった。
「お、大先生!」
「駄目じゃないの、途中で投げ出して来ちゃ。集中して終わらせちゃいなさいって言ったでしょう」
「……はーい」
教室長でもある大先生にはさすがに敵わないのか、健斗はおとなしく戻っていった。
その背を見送りながら、大先生はころころと笑う。
「健斗さんはちょっと騒がしくていけないわねえ。元気なのはいいんだけれど」
「先生……」
「で? あなたは学内コンクールの作品にどれだけかける気なのかしら」
会って二言目に言われるとは思っていなかったイチは、思わず目を伏せた。
この人は相変わらず、柔らかな声色で遠慮がない。
イチは少し迷って、それから大先生を真っ直ぐ見つめた。
「そのことで、先生に相談があるんです」
「あら、わたくしが何か言ったところで、あなたの絵が魅力的になるわけではないわよ」
「聞いてくださるだけでいいんです。自分でも混乱していて……」
ジローのこと、例の色のこと。
六浦には遠慮をして言えなかったことも、幼いころからお世話になっているこの先生になら言えるかもしれない。
イチの必死ともとれる様子に何かを察したのか、大先生はおっとりと頷いた。
「それならいいんだけれど。そうね、今日は大人の人たちも七時でおしまいだし、そのあとちょっとお話しましょうか」
「ありがとうございます」
「あらあら、思いつめちゃって。若いわねえ」
ほほほ、と上品に笑って、大先生は教室の中へと入っていった。
夏でも重ね着にこだわっている大先生は、そのせいかシルエットはマトリョーシカのようだ。色合いも淡いものが多く、柔和そうな雰囲気を醸し出している。どことなく優雅な仕草は、お嬢様だったかららしい。
が、言うことは時折、聞いている方がひやりとするほど辛辣だったりもする。それは物言いがきついからではなく、的確に本質を突くからだ。
イチは幼いころからこの七海先生の絵画教室に通っていて、その率直なアドバイスや懐の深さから、とても頼りにしている。
しかし今は、彼女の言葉は恐ろしくもある。
イチは覚悟が揺らがないよう、スケッチブックが入ったカバンのひもをぎゅっと握った。
「で、あなたがそんなに悩んでいるのはどうして?」
出された紅茶を一口飲んでから俯いて黙ってしまったイチに、大先生は優しく尋ねた。
いつもはきはきと考えを述べるイチには珍しく、答えを出しかねているようだ。どうやらだいぶ困惑しているらしい。
ふと顔を上げて、歯切れ悪く話し始めるも、淡々と静かな自信に満ちていたその瞳は、ひどく揺らいでいた。
「先生、あの、私は……まだ色を塗れないでいるんです。コンクールの締め切りは近づいているのに」
「あら、どうして? あなた、そういうの得意だったじゃない」
「はい。見たまま描くのは得意です。そのまま塗るのも。でも、駄目なんです」
「スランプなの?」
問うと、スランプ、と一度小さく口の中で呟いて、ゆっくりと首を横に振った。
「……いいえ。いや、そうなのかもしれません。でも、下描きも他の部分の色も決まっているんです。ただ本当に、どうしても色を決めかねている所があって」
「まあ」
どうも要領を得ない。
とりあえずモチーフについて尋ねると、鞄取り出したスケッチブックを渡された。
大先生は、丸みを帯びた指でページをめくる。真ん中のページあたりから、同じ人物ばかり何枚も描いてあった。
彼がモチーフだとすぐにわかった。顔立ちや体格など、細かいところまで描きこまれている。
相変らずよく見ていると感心していると、思いつめたような声でイチは言った。
「その人、幽霊かもしれないんです」
「幽霊?」
真面目なその子には珍しい話題だと思わず聞き返すと、神妙な顔で頷かれた。
どうやらふざけているわけではないらしい。大先生も自然と姿勢を正す。
「今まで見たことがないような髪の色をしている人で、モデルをお願いしたんです。でも先日、目の前で窓から落ちて……いや、落ちたと思ったんですが、影も形もなくなってしまって……。あの、でも、落ちていく時に手を伸ばしたんですが、すり抜けてしまいました」
言葉を選びながらたどたどしく説明した後で、イチは自分の手を見て、落胆したような声で言った。
大先生は驚いてイチを見つめる。イチは昔から、人から距離をとる子だったはずだ。
なるほど、と大先生は微笑んだ。潔癖な彼女の中で何かが変わったのは間違いないようだ。
「どうやら彼は、あなたにとってとても特別な人みたいねえ」
「特別……なんでしょうか」
「あなたがそんなに悩んでいるんだもの、わかるわよ」
ころころと笑うと、イチは困ったように眉を下げた。たいていの困難はあっさり切り抜けてしまうせいか、イチは弱った時はすぐに顔に出る。
大先生は、いたずらっぽく微笑んで見せた。
「ねえイチさん、あなたはとっても真摯に絵を描くわね。それってとっても魅力的だわ。でも、わたくしのようなひねくれたおばあちゃんには、それじゃちょっと退屈なの」
「……はい」
それは、イチがずっと言われてきたことだった。丁寧、綺麗。でも、それだけの絵。それだけの、退屈な絵。
目に見えて沈んだイチに、大先生は微笑んだまま続ける。
「そのままで綺麗だと思うのなら、見たものをそのまま描くのもいい。わたくしがあなたにそう言ったわね」
「はい」
イチはそれを覚えている。そして、今までずっと実践してきた。
真摯なまでにそのスタイルを貫き通し、それで結果を出してきたのだ。
「それを一途に突き詰めていったあなたは、正確に描く技量も人に美しさを感じさせる感覚も、人一倍培われている。でもね、それだけじゃ駄目なのよ」
紅茶を一口飲んで、笑みを深める。
今まで触れてきた芸術作品を思い出しながら、大先生は教え子に言った。
「強い思いがこもった作品は、時には技量の壁を飛び越えて、とっても魅力的なものになるのよ。必ずしもその感情を共感できるわけではないけれど、歴代の巨匠たちの素晴らしい作品は、誰かに何かを伝えてきたからこそここまで残っていると、わたくしは思っているわ」
イチはつられるように頷いた。
絵画を始めるきっかけとなった美術館の絵も、イチ自身言葉にはしないものの、不思議な魅力があるのだろう。
勿論彼女自身の絵にもその素養はある。だが、どうも物足りないのだ。大先生は言葉を続ける。
「あなたの絵はとても精密で美しいわ。でも、何というのかしらね。自分の感情を決して見せることはないから、潔癖で高慢な印象があるわね。少なくとも親しみやすくはないわ」
「……でも私は、自分の感情なんて……」
言いかけて、イチは目を伏せた。
自分の感情なんて描きたくない。そんなもので、愛すべき光景を濁らせたくなどない。
言葉にされなかった感情を察して、大先生は目を細めた。この教え子は、良くも悪くも潔癖なのだ。
「そんなに難しくはないのよ、イチさん。綺麗に描こうとしなくたっていいのよ。というか、綺麗じゃないものが描けなくては、画家としては失格ね」
イチの眉間にしわがよる。どうやら心当たりはあるようだ。
大先生は気取った調子のまま、考えてごらんなさい、と唇をつり上げた。
「ねえ、彼はあなたにとってなんなのかしら? あなたは彼をどう思っているの? あなたには、彼がどういうふうに見えているの?」
「ジ……その人のことを、ですか?」
困ったような顔でイチが尋ねると、その通り、と大先生はにっこり笑って見せる。
「ええ。わたくしは、いいえ、鑑賞者はそれを知りたくてたまらないのよ。下世話でしょう? そんな奴らには、綺麗なものばかり見せる必要はないわ」
幽霊だろうが宇宙人だろうが関係ないの、と呟くように続けて、大先生はスケッチブックを返した。
「あなたを変えた彼のことを、ちゃんと描きなさい。いいわね、朝倉衣智」
きちんとお片付けなさい、と幼い生徒に言いつけるように、少し気品のある高慢さで言って、自信に満ちた微笑みを浮かべる。
こんな時の大先生は、一つの返事しか許さない。わかっているのか、イチは真っ直ぐこちらを見た。
「はい、七海先生」
「よろしい」
大先生はぱっと優しげなおばあちゃんに顔を戻して、おかわりはいかが、とポットを持ち上げた。
この子にはきっといい絵が描ける。
確信めいた思いを隠したまま、おずおずと頷く生徒のカップを引き寄せた。