彼の色
「どうした、顔色が悪いぞ」
「……六浦君」
夢かうつつかわからないまま、とりあえず大学に来ていたらしい。
六浦に声をかけられて初めて、イチは自分が学食の隅の席で定食を食べ終わっていたことに気付いた。末期かもしれない。
まだ半分以上中身が残っているパックの豆乳カフェオレを啜っていると、トレーを持った六浦が向かいに座った。
律儀に手を合わせて食べ始めた六浦と窓の外とで視線を行ったり来たりさせてから、イチは覚悟を決めて尋ねてみることにした。
「六浦君、あのさ、幽霊って見たことある?」
「は?」
「幽霊」
麻婆豆腐をレンゲにすくったまま固まった六浦は、どことなくげっそりした様子のイチに首を傾げた。
「……いや、俺はないが、実家は寺だ。何かあるのなら行くか?」
「うーん、今どう、ってわけじゃないんだけどね、ちょっとね……」
窓の外を見ながら、イチはため息をついた。
昨晩のジロー転落事件の顛末は、意外すぎるものだったのだ。
ジローが窓の外に消えて行った後、イチは慌てて下に降りた。が、案の定誰もいなかった。
そこで、夜分にすみませんと真下に当たる部屋を訪ねると、長く住んでいるおばさんに、眉をひそめて言われたのだった。
「ついにあなたも見たのね」と。
「十年前に若い男の人が事故で死んでから、あの部屋に住む人は不幸続きなのよ。病気になったり、大けがしたり……そうそう、六年前はそれこそ、転落事故があったのよ。それで男の人が亡くなったらしいわ。私はその時期、実家に帰っていてわからないんだけどね」
十年前の事故とは、きっとミキのことだろう。
それよりもイチが気になったのは、六年前の転落事故だ。もしかして、もしかしてジローは。
青ざめたイチに気をよくしたのか、おばさんは芝居がかった仕草で声をひそめた。
「――それで、今度は幽霊が出るようになっちゃったんですって。この時期、夏から秋にかけて、誰もいないはずなのに電気が付いたり音が聞えたり、男の姿が見えるっていう話もあってね。もしかしたら最初の事故死した人じゃないかとか、そもそもその幽霊のせいで不幸事が続くんじゃないかっていうんで、お祓いとかもしてもらったみたいなんだけど」
「はあ……」
「でも、なんだったかな、学者さんは長く住んでたかしらね。ほら、あなたの前の。まあ夏場はほとんど家にはいなかったみたいだし、気づかなかったのかもしれないわね」
気の抜けた返事しかできなくなっていたイチは、ぼんやりとお礼を言って部屋へと戻った。
新たなゴシップを手に入れて上機嫌らしいおばさんは、大変だったわねえと言ってパックの豆乳アソートを帰り際に持たせてくれたのだが、それに気づいたのは翌朝目覚めてからだった。
イチは、宮瀬次郎のことについて考えていた。正確には、宮瀬次郎幽霊説についてだが。
誰もいない部屋に帰ってから、ジローが使っていたはずの部屋を見るが、生活の跡はなかった。ベッドも使われた形跡がない。
そんな馬鹿な、とイチは必死でジローの行動を思い返す。
――ジローは透けてもいなければドアをすり抜けもしなかった。……あれ?
イチはふと違和感に気付いた。ジローはドアをすり抜けてはいない。
すり抜けたのは、イチの手だ。
風邪のときも、窓から落ちるときだってそうだった。イチはジローと一緒に暮らしていたくせに、一度も接触していないのだ。
イチは思わず口元に手を当てた。
――ジローは潔癖症なんじゃなくて、もしかして。
「幽霊みたいなんだけど、信じられないっていうか……買い物とか料理とか普通にしてたみたいだし」
「どういうことなんだ……? そういう妖精なら聞いたことがあるが」
「私にもさっぱり……」
ひとしきり二人で悩んで、イチが豆乳カフェオレを飲み切った頃、六浦が食事を終えて手を合わせた。
セルフサービスのお茶を一口すすって、そういえばと六浦は顔を上げた。
「朝倉、その幽霊は何色だったんだ?」
「は?」
幽霊に色なんてあるのかと思いめぐらすが、灰色とか水色とか紫とか、透明でもやもやしたイメージしか浮かんでこない。ジローに至っては普通の人間にしか見えなかった。
六浦は茶碗を置いて、いつもの真面目くさった調子で続けた。
「この世には、人間には見えない色があるんだ。確か亀とか、特定の生き物には見えるような色らしい。実は幽霊やら未確認生命体やらはその色をしているのではないかという説がある。信憑性はあまりないようだが」
朝倉は色に敏感だから見たかと思った、と続けて、六浦は一度眼鏡を上げた。
イチは、唐突に「その色」の存在を思い出した。
ジローだけが持っているかもしれない、あの、不思議な髪の色。あれがもし「その色」だとしたら。
イチは耳元に響く心臓の鼓動を打ち消すように尋ねた。
「そ、んな色、あるの?」
「ん? 幽霊の色は知らんが、その色はあるぞ。確か今現在、世界では二人ほど見える人間がいるらしい」
六浦は「先生」と呼ばれているだけあって博識だ。六浦があるというのならあるのだろう。
イチは思わず強く拳を握っていた。「その色」は確かに「新しい色」かもしれない。――しかし。
イチの気持ちを代弁するかのように、六浦が薄いお茶をすすりながらつぶやく。
「もしそんな色を描くとしたら、災難だな。どうすれば作れるのかなんて見当もつかん」
「……そうだね」
思ったより乾いた声が出て、イチは思わず空の紙パックを啜る。
そして、途方に暮れている暇なんてないはずだと、それをくしゃりと握りつぶした。




