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カラフの色彩  作者: 緒明トキ
青き日の憧憬
12/22

秘密の番号


「昔話?」

「はい。昔と言っても、それこそ十年ほど前ですが」



 言いながらイチは、絵の具のチューブを抜き取った。

 ふたを開けてパレットに出しながら、イチは淡々と続ける。

 それは、誰にも話したことがない、秘密の昔話だった。


「十年前の夏、私は両親と茜沢に住んでいました」


 イチの脳裏によぎるのは、父母の争う声だ。

 もしかしたら、物心ついたころからそればかり聞いていたかもしれない。

「ここの近くではないんですが、茜沢中央小に通ってたんです。絵を描くのが好きだったので、部活には入らずに、私が今ボランティアで行っている絵画教室の先生の所へ毎日通っていました」

 ちらりとジローとパレットを見比べて、イチは筆を洗った。これではない。

「そのころ、先生はまだ自宅で教室を開かれていました。ここから五分ほどのところなんですけどね。私は家へ帰りたくなくて、毎日入り浸っていました」

 いつも苛立っている母と、いつも不機嫌な父。

 二人が揃えば喧嘩ばかりだったから、緊張感しかないあの家へ帰りたくはなかった。

「でもある日、あの美術館に行ってから、今度は公園に通い詰めるようになりました。……葉っぱの色が変わるのを、見たかったんです」

 幼いイチは、鮮烈なコントラストに心を奪われた。

 そして、近くにいた学芸員に問い詰めた。あれはどこの公園なのか、どうやっていけばいいか、と。

 イチは自嘲気味に唇をつり上げた。

「本当に馬鹿な子どもでした。あれはフィクションなのに、あまりに精密に描かれているものだから、勘違いしたんです」

「無邪気でいいじゃねーか」

「現実逃避ですよ」

 そうかねえ、と笑みを含んだ声を無視して、イチは息を吐いた。

 ここからが、大切な秘密の話なのだ。


「――その時、公園で声をかけてきたお兄さんがいたんです。どうしたの、具合でも悪いの、って」


 やわらかな声、優しげな顔立ち。どこか現実味のない、不思議な雰囲気の人だった。

 イチは今でもしっかりと覚えている。からりと晴れた夏の日の、夕方だった。

「話し相手になってくれて、絵を褒めてくれました。お兄さんが自分で描くこともありました。本当にうまかったんです。子供向けの可愛い絵柄ではなくて、まるで図鑑のような絵でしたけど」

 思わずイチは微笑んでいた。

 浮世離れした彼との時間は嫌いではなかった。寧ろ、家で辛い思いをしていた分、彼という非現実が救いだった。

 今思えば、不用心だとしか言いようがない。しかし、あの頃は本当に楽しかったのだ。

 イチが失言をした、あの日までは。

「――ある日私は、何の気なしに彼に大好きな絵のことを話したんです。漢字が読めなくて、題を知らなくて……説明だけしたら、彼は次の日に見に行ってきたらしくて」

 朗らかに微笑んでいた次の日。彼は、初めて見るような冷たい目をしていた。

「『あんな絵は芸術とは言えない』と言われました。『あんな作品に惹かれるなんて、きみには才能がない』とも」

 大好きだった青年のあまりの変貌ぶりに呆然と立ち尽くしたイチは、自分が泣いていることに気づき、逃げるように走って帰った。

 恐ろしかったわけではない。ただ、傷ついた。傷ついた自分が情けなくも思えた。


 その日の夜、自分の頭の中の声が随分とうるさいと思っていたら、次の日の朝、疲れたような顔の母から引っ越しを告げられた。一晩中怒鳴り合っていたようだった。

「次の日からもう荷造りが始まりました。父はもう一度も顔を見せませんでした。その二日後には母の実家へ行くことが決まっていたんですが、頭の中はあのお兄さんのことでいっぱいでした」

 幼いころから、イチは負けず嫌いだった。

 才能がどうだと言われたとしても、絵を描く楽しさを知ってしまっていたその時、もうすでに諦める気はさらさらなかった。

「私は、見たまま描くのが好きです。それは昔からずっとなんですが、正確に描くために観察すると、それがどれだけ綺麗なのかよくわかるんです」

 葉の丸み、指の曲線、服のしわ。目に入るそれらは、いつだって完璧だった。

 気づくたびにイチはますます描きたいと思った。

 そのもののように描けたのなら、完璧で綺麗な世界の一部を手に入れられるような気がしたからだ。

「とにかくあのお兄さんに一矢報いてやろうと思ったんです。だから、引っ越す日の朝に、スケッチブックを公園のベンチに置いて行ったんです。まだ覚えてますよ、油性ペンで表紙の裏にしっかり書いたんです」

 すっかり色が薄くなった象やキリンが見守る中、イチは勇ましい気持ちでそれを手放した。



「『ひっこします。わたしはずっとかき続けます。後藤いち』って」



 黙っていたジローが、ふと声を上げた。

「……後藤? 朝倉じゃねえのか?」

 イチは顔を上げて、「言ってませんでしたっけ」と首を傾げる。

「朝倉は母の旧姓です。せっかく漢字を覚えたのにと勿体なく思って、わざと後藤にしたんです」

「へえ……」

 考え込むように顎に手をやったジローを横目で見ながら、イチは絵筆を動かした。これも違う。

「彼と描いたすべてをそこへ置いて行きました。いつか彼が舌を巻くような絵を描こうと、引っ越してからは新しいスケッチブック片手にあちこち出かけたものです」

 精巧に描けば描くほど、対象がよくわかって、手に入れた気になった。

 イチはきっと、貪欲だった。スケッチブックに描き続けた景色も、欲しいから描いたのだ。

 それで言ったら、今のこの努力もそれに通じるものがあるかもしれない。もっとも、今は他にも描く理由がある。

「私は、誰かのために描くんじゃありません。自分のために、プライドと探究心のために描き続けると決めたんです。一人でも多くの人をぎゃふんと言わせてやりたいし、一つでも多くのものをきちんと理解して手に入れたいんです。つまり私は、私のためだけに絵を描いて生きていきたいので、母から学費を出してもらうわけには――」

 珍しく独り言のように喋り続けていたイチは、静かすぎるジローに違和感を覚えて顔を上げた。

 と、ジローは携帯を開いたまま固まっている。

「……ジロー?」

 声をかけても動かない。

 何かあったのだろうか。道具を脇のテーブルに置いて近づくと、ジローの頬をぼろりと涙が伝っていった。

「じ、ジロー!? どうしたんですか一体!」

 慌てて顔を覗き込むと、ぎゅっと眉根を寄せて、困ったような顔でジローは笑った。



「――お前がずっとあいつを助けてたんだな、ゴトウイチ」

「え?」



 と、途端に窓から強い風が吹き込んで、部屋の中の紙を巻き上げた。

 テーブルの上のスケッチブックがべらべらとめくられていく。

「わっ、ちょっと!!」

 他に挟めていた紙と一緒に、ジローにあげようと思っていたミキの絵のポストカードが風にさらわれて舞い上がった。

 目の前を横切ったそれに慌てて手を伸ばすと、気づいたジローが窓に背をつけながらそれを指先で掴んだ。


 瞬間、何かが折れる音がした。


 ジローの体が突然窓の外に傾く。その背中に、くの字型の白いものが万歳をするように落ちて行ったのが見えた。

 窓のストレッチャーが外れたことを咄嗟に理解して、イチはジローに手を伸ばす。

「ジロー!!」



――が、胸元を掴んだと思った右手は、ジローの体をすり抜けた。



 呆然と目を見開く家主を見ながら、ゆっくりと傾いていく同居人は、かみしめるように名を呼んだ。

「イチ」

 ジローは、柔らかく微笑んだ。

「ありがとな」


「ちょっ――」

 もう一度手を伸ばすが届かず、体勢を崩したイチは慌ててサッシを掴む。

 ジローはそのまま窓の外へと落ちて行った。

「じ、ジロー!?」

 一旦体重を後ろに戻してから、イチは窓から身を乗り出して下を覗き込む。

 そして、小さく息をのんだ。


――誰もいない。


 イチは植え込みに目を凝らす。記憶をたどるまでもなく、たった今目の前で、人が落ちたはずだった。

 混乱しながらも、イチはこめかみに拳を当てて考える。

 そういえば何か、例えば人のような重いものが落ちた音もしなかった。

 いつもの植え込みには、ねじがついたままのくの字型のストレッチャーが突き刺さっている。

 そしてイチは、じわじわと現実味のない結果をのみこんだ。

 今落ちて行った男は、どこにもいなくなっていた。

「……ジロー?」

 ぽつりと名を呼ぶが、誰も答えない。

 

 風に遊ばれていた紙が床にこすれる音と虫の鳴き声だけが、夜を満たしていた。




 ここで一章終了です!

 おっさんが消えるなんてファンタジーですね! とか言い張ってみます。

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