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カラフの色彩  作者: 緒明トキ
青き日の憧憬
11/22

同居人の昔話


 宮瀬次郎には、三つ年下の弟・渡井幹人がいた。

 宮瀬は父方の、渡井は母方の姓だ。




 母親はジローが幼いころに病気で亡くなった。その後しばらくは、画家だった父と弟のミキと三人で茜沢に住んでいた。

 最初の内はよかった。母の存在を、役割を補い合うようにして、協力し合って暮らしていた。

 しかし、そんな生活は、段々と駄目になっていった。

 母がいなくなったことに一番耐えられなかったのは、父だった。いつしか仕事もせずに酒におぼれ、幼いジローと弟のミキに暴力をふるうようになった。


 結局、ジローが高校に入学したころ、兄弟は母方の祖父母に引き取られることになる。しかしジローは厳格な祖父母が待つ家に帰りたくないからと外で遊び、バンドの活動にのめりこんでいった。

 対するミキは、絵画の世界へと傾倒していく。


 派手好きで奔放なジローにはもちろん、娘の夫を見てきた祖父母は、おとなしいミキの趣味にもいい顔をしなかった。

 兄とは違い、祖父母を家族として重んじていたミキは、高校時代に何度も絵画展で入賞しているにも関わらず、美術の世界へ進むのを諦めようとしていた。

 しかしそこで、急逝した父の遺産が転がり込んでくる。

 ミキはその金で美術の道へ進み、ジローは音楽で生計を立てていこうと家を出た。

 兄は運よくメジャーデビューを果たし、弟は、透明感のある不思議な雰囲気の絵が大学入学前から話題を集めており、進学後はめきめきと頭角を現していった。



 十年前、ジローのバンドは知る人ぞ知るような存在にはなったものの、ボーカルの子育てのために一時活動休止状態になった。

 そこで、バンドのメンバーとルームシェアをしていたジローは仕方なく、弟のところへと転がり込んだ。


 そのアパートの名は、アルカンシエル茜沢。部屋は303号。イチが今住んでいる部屋だった。


 潔癖で天才肌のミキは、そのころすでに画家として仕事を持つようになっていた。

 しかし、その鉄面皮も相まってジローとそりが合わず、顔を合わせれば皮肉の応酬になるような仲だった。

 気に入らないことがあれば鍵をかけて自室にこもったり、偏食で食事にまったく手を付けなかったりと、集団生活の時期が長いジローは扱いに苦労していた。


 だが実は、そのころすでにミキは長いスランプに悩まされていた。

 絵を描くという行為に楽しさを感じるどころか、その意味すら見失っていたという。


 そんな弟の様子が、夏の終わりに急におかしくなる。

 ずっと部屋にこもって出てこない。これ以前は、何か気に入らないことがあっても一日すればたいてい顔を出していたのだ。

 かと思ったら、黙々と、とりつかれたかのように絵を描き始めた。

 何枚も破り、塗りつぶし、捨てた。

 ジローは何もできなかった。鬼気迫る様子に、いつかの父を思い出していた。


 兄は、恐怖と気味の悪さに押しつぶされて、干渉できなかった。


 その年の冬、ミキは一枚の絵を何かのコンクールに応募した帰り、車に轢かれて死んだ。

 みんなただの事故だと言うが、ジローにはそうは思えなかった。

――あんなに追い詰められていたんだ、自殺したっておかしくない。

 毎日、罪悪感に苛まれた。自分には本当に何もできなかったのか。

 自分は兄なのに、たった一人の弟のことを見ないようにして、結局死なせてしまったのではないか。

 申し訳なくて恐ろしくて、ジローは泣くことさえできなかった。




「あの『憧憬』は、その最後の絵だ。俺は怖くて仕方がなかった。あれにはきっとミキの絶望が描かれてるんだと思うとたまらなくなって、明るいところでは見られなかった」

 ちゃんと見たことがない、というのは、そういうことだったのか。イチはぼんやりと考える。

 ジローは、ゆっくり煙を吸い込んで、ため息のように吐く。

「本当は今日だって怖かった。でもな、イチ、お前が行こうって言ったんだ。お前がいなかったら……俺はいつまでも、あの絵と向き合うことができないままだっただろうな」

「ジロー……」

「あれがあんなに綺麗な絵だなんて、思ってなかった」

 ジローはゆっくりと目を閉じる。

 あの透き通るような青を思い出しているのだろうか。イチは静かに絵筆を握りしめた。

 美術館で兄を迎えたのは、絶望とは程遠い、夏の日の青だった。

 呆然と立ちつくしていた姿を思い出し、イチは目を細める。

「イチ、俺はきっと、お前のことをどこかでミキと重ねてたんだ。お前もミキも潔癖で天才肌で、時々おかしな無茶すんだ。だから絶対見逃さないように、今度こそ守ってやんねえとって思ってた」

「……私はそんな無茶、しません」

「そうだなぁ」

 思わず口をはさむと、その憮然とした表情を見て、ジローはくつくつと笑った。

「確かにイチはミキや俺なんかよりも、よっぽどしっかりしてんな」

 反論しようと口を開くもなんとなく躊躇われて、イチは黙ってジローを睨みつけた。ジローは窓の外を眺めながら一度深く呼吸して、ポケットから黒い携帯電話を取り出した。

「……ほんとはな、これのパスワードを探してたんだよ」

「パスワード? 忘れたんですか?」

「いや、これはミキのなんだよ。あいつ、これに日記つけてたんだ。もしかしたらあの時のミキの状態についてなにかわかるんじゃねえかと思ってな、未練がましくずっと探してんだよ」

 ジローは口元を歪めて、自嘲気味に続ける。

「四桁の数字なんだが、誕生日も駄目だし絵が完成した日も違った。ずっと、いろんなとこで手がかりを探してたんだ。きっとここに、ここで暮らした日々の中に答えがあると思って」

「答え?」

「ああ。俺が赦されるかどうかの答えがな」

 イチは、言ったきり黙ってしまったジローを睨みつけた。

 ジローはただ、「答え」とやらに裁かれたいのだと思った。日記に「ジローが救えたはずの弟」の記述があることを望んでいる。諦めたような顔からは、救いや赦しを乞うている感じはしない。

 それをなぜか、腹立たしく思った。同じところに立って息をしている気がしない。手が届く気が、しない。

 ジローは複雑な表情をしているイチには気づかないようで、窓の外に煙を吐きながら力なく笑った。

「でもまあ、今年も多分駄目だな……。なんか悪いな、こんな重苦しい話しちまって」

「……いえ、気にしないでください」

 乾いた声で答えて、イチは絵筆をぎゅっと握った。心臓が音を立てている。

 自分は、目の前にいる彼を描かなくてはならないのだ。言い聞かせるように頭の中で繰り返す。

 そして、ゆっくりと口を開いた。


「……ジロー、今度は私の昔話を聞いてください」



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