青い絵のこと
暇を持て余したイチは、閉まる直前の売店で、例の青い絵のポストカードを購入した。
ジローがいたく気に入っていたように思われたからだ。
ベンチに腰かけてしばらくすると、閉館のアナウンスが響いた。
気に入ったからと言って、あまりにも長すぎる。さすがに連れてこようかと立ち上がったところで、展示室からふらふらとジローが現れた。
遅いですよ、と声をかけようとして、なにやら様子がおかしいことに気付く。夢見心地というか、上の空というか、なんだかぼんやりとしている。
「ジロー、大丈夫ですか?」
「あ? ああ、平気だ。ずっと首上げてたからちょっと疲れたな」
唇を曲げてにやりと笑ったつもりか、ジローは情けなく歪んだ顔で力なく言った。
まったくもって平気そうには見えないが、ここで問い詰めても仕方がない。イチはとりあえず帰路に就くことにした。
空はもう紫から紺に変わっている。
じりじりとした暑さも和らいで、ただ歩いているくらいではそれほど汗も出てこない。夕飯前の買い物時なのか、人通りも心なしか多いようだ。
美術館を出てから、ジローは貝のように口を閉ざしていた。
自分の風邪がうつったかもしれない。そうであればまず家までたどり着かなくては。そんな義務感と申し訳なさから、イチも黙々と歩く。
いつかジローを見かけた繁華街を通りかかって、ぽつぽつと灯り始めたネオンの光が目の端をかすめた。ふと振り返ると、後ろをついてきているジローの髪の色がちらちらと揺らいでいるのが見えた。
――あの色は、上にどんな色が重なっても不思議と際立って見える。
その不思議さにも慣れてきた自分に気づき、イチははっとする。
ジローが来てから、もうすぐ二週間だ。
イチがあの色を手に入れないうちに、ジローは帰ってしまうかもしれない。
家について、ジローが出がけに作っておいたカレーを食べる。
熱を測る必要はないと、同居人は頑として体温計を受け取らなかった。食欲もあるようだし、風邪ではないのかもしれない。
久々に昼間出歩いて少し疲れたのかもしれない、というのがジローの説明だった。
食卓はいつになく静まり返っていたが、先に食べ終わったイチが決心したように口を開いた。
「ジローはそろそろ帰るんですよね?」
「あ? ああ、そうだな」
急に話しかけられて驚いたのか、ジローは肩を震わせて顔を上げた。
イチはその返事を聞いて、きびきびと食器をまとめて立ち上がる。
「では、今日は早いうちに始めましょう。なんだか疲れているようですし、なるべく早めに終わらせますから」
タイムリミットを思うと、今まで何をのんびりやっていたのだろうと自分を叱咤したい気持ちになる。得体のしれない他人であるはずのジローと仲良くなったと思って、あまつさえその好意に甘んじていたのだ。
――今日でどうにかしないと。
これ以上迷惑はかけられない。自分のせいで体調を崩してしまうなんて、目も当てられない。
イチは今日これからの方針を頭で組み立てる。
――混ぜすぎると濁るから、なるべく明快な組み合わせで考えよう。
今までの経験から、多くの色を何度も混ぜてたどり着けるような色ではないということはわかっている。
考えながらいつものように道具を準備していると、流しに立っているジローが目に入った。一度洗った皿に、泡の付いたスポンジを近づけている。
イチは慌てて声をかけた。
「ちょ、何してるんですか? それもう洗いましたよ!」
「え? あ」
はっとして自分の手元を見ると、ジローは「悪い」と言いながら皿を戻した。
イチはため息をついた。明らかにおかしい。
――美術館、失敗だったかもしれないな。
そういえば、自分が良かれと思ってやったことで成功したことはほとんどなかった。イチは思い返して渋い顔をする。
良かれと思って買ったポストカードは、はたして渡すべきだろうか。
「イチはほんとに絵がうまいな。天才だ、天才」
「ど、どうしたんですか、いきなり」
イーゼルに立てかけたスケッチブックを覗いて、しみじみとジローが言う。
イチは気味の悪いものを見るような目でジローを見る。しかし、その視線すらゆるゆるとした笑みにのみこまれてしまった。
「でもって、スランプとかわかりやすくていいな。わけわかんねえ行動とるわけでなし、イラついて閉じこもるわけでもなし」
「は? どういうことですか」
「そのまんまだよ。なんだ、可愛いな」
イチは、ぶわりと鳥肌がたった腕を押さえた。ジローがおかしくなった。
なんとしてでも今日は早く終わらせて寝てもらわなくては、と決意を新たにしたイチなどお構いなしに、ジローは定位置にどっかり座り込んだ。
にやにやしながら煙草に火をつけるジローに、もしかしたら今ならあの絵のことを聞けるだろうかとイチは逡巡する。
気味は悪いが、話が通じるだけましだ。イチは意を決して声をかける。
「ちょっと意味がわかりませんが……わかりやすいと言えば、人のことは言えないんじゃないですか」
「俺? なんで」
「あの絵ですよ。どういうことなんですか、あれを見てから随分様子がおかしいじゃないですか」
無論、今もだ。
問われたジローは、何度か瞬きをしてから、ああ、と思い当ったように目を細めた。
「あれ? ……あれはなあ」
迷うように大きく息を吸い込んで、長く吐く。
白い煙が、窓から外へ逃げて行った。
「そうだな、言っちまうか」
ジローは少し目を瞑って何事か思案していたが、決意したように真っ直ぐイチを見た。
「あれは、俺の弟――ミキが描いた絵なんだよ」
「――え」
イチは目を丸くする。あの絵を描いた画家は、若くして事故で命を落とした天才だったはずだ。
驚いているイチを見ながら、ジローはまるで罪を告白するように、柔らかな声色で淡々と話し始めた。