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真実の愛に賛成いたします。こちらが十年分の見積書でございます

作者: 霜月りつ
掲載日:2026/08/05

十年ぶんの見積書を書くのに、三晩かかったそうです。

難しいのは金額ではなく、項目を立てるほうでした。全1話。


 アルブレヒト様が話し始めたとき、わたくしは最後の桁を合わせ終えたところでございました。


 三百二十七、と読み上げて、羽根ペンを置きます。秋の小作料の残り、十一戸ぶん。督促の手紙は先週出しましたから、来月には揃うはずでございます。


「ヨハンナ」


「はい」


「話がある」


「伺っております」


 わたくしは帳面を閉じて、膝の上に重ねました。応接間の扉のところに、もうお一人いらっしゃるのは気づいておりました。淡い色の髪の、まだお若い方でございます。男爵家のリーゼロッテ様。夏の茶会でご挨拶をいたしました。


「僕は、真実の愛を見つけた」


 アルブレヒト様は、そう仰いました。十年前に婚約を申し込んでくださったときより、ずっと迷いのない声でございました。


「君との婚約は、家同士が決めたものだ。十年、待たせてしまった。だが人の心は」


「賛成いたします」


 言葉がお止まりになりました。


「……なんと」


「真実の愛に、賛成いたします」


 わたくしは繰り返しました。反対する理由がございません。愛のない婚姻がどれほど帳簿を痛めるかは、この十年で嫌というほど見てまいりました。北の分家がそれで潰れたのは、七年前でございます。


 リーゼロッテ様が、扉のところで小さく息を吐かれました。安堵なさったのだと思います。この方はきっと、わたくしが泣くと聞かされていらしたのでしょう。


 泣いたことは、一度だけございます。四年目の冬でございました。麦の値が崩れて、小作の三戸が年を越せそうにないとわかった夜に、帳場で一人になってから泣きました。あれは婚約とは関わりのない涙でございます。数字が合わないときに人は泣くのだと、あのとき知りました。


 三戸は、翌年の春に持ち直しました。種籾の貸付を年利なしにしていただくよう、わたくしがアルブレヒト様の父君にお願いいたしました。お願いに行くのに、書付を三度書き直しました。一度目は感情が入りすぎておりましたので。


「そう、か。……ありがとう。君は、いつも聡明だ」


「恐れ入ります。つきましては、こちらを」


 わたくしは膝の上の帳面の下から、一枚の紙を出してお渡しいたしました。


 封はしておりません。読んでいただくために作ったものでございます。


「……見積書?」


「はい。十年分でございます」


 アルブレヒト様は紙を目の高さに上げて、それから、卓に置き直されました。項目が多うございますから、手に持ったままでは読みにくいのでございます。


 一、帳簿の記帳および照合。十年分、四千百六十日。

 一、小作料の徴収ならびに督促。年四回、通算四十回。

 一、王都商会との取引仲介。二十七件。うち六件は先方へ出向いております。

 一、冬季飼料の手配。十年分。凶作の年は二度、手配先を二軒から五軒に増やしております。

 一、東の橋の修繕見積の作成および石工との折衝。三度。

 一、夜間作業に要した蝋燭代。実費。こちらは領の支出に計上しておりませんので、家計から出ております。


「ヨハンナ、これは」


「まだ続きます」


 一、借入の交渉。二度。金利をそれぞれ一分五厘、二分下げております。

 一、使用人の給金台帳の作成。九年目から。

 一、亡くなられた奥様の遺産目録の作成。一度。


 アルブレヒト様の指が、紙の縁を押さえておりました。爪の先が白くなっております。


「……そんなつもりでは、なかった」


「存じております」


 わたくしは頷きました。本当に、存じております。この方は一度も、わたくしを働かせているとお思いになったことがない。「君は数字が得意だから」と仰る。得意なことをしているのだから、それは楽しみであって労働ではない、と。


 十年、そう思っていらした。それだけでございます。


 この見積書を作りましたのは、先月でございます。三晩かかりました。


 難しかったのは金額ではございません。項目を立てることでございます。「気を配ったこと」は項目にできません。「憶えていたこと」も項目にできません。冬の飼料の手配先を憶えていることには値段がつきませんので、わたくしはそれを落としました。落としたぶんを数えると、書いた項目より多うございました。


 書けたものだけを書いてございます。ですからこの紙は、十年の全部ではございません。


「金が、要るのか」


「いいえ」


 わたくしは、紙の一番下をお示ししました。


 項目の列の、そのさらに下。


 一、値引。十年分の好意。全額。


「……全額」


「はい。ですから、請求額はございません。ゼロでございます」


 アルブレヒト様が顔を上げられました。何か仰ろうとして、口が動いて、それから止まりました。


「わたくしは十年、好意でしておりました。好意は請求できません。ですから請求はいたしません」


 窓の外で、庭師が落ち葉を掃いている音がしております。


「ただ」


 わたくしは、そこで一度だけ息を継ぎました。


「値段のつくものだった、ということは、書いておきたかったのでございます。ゼロと書くためには、まず総額を出さなければなりませんので」


 総額は、紙の中ほどに書いてございます。金貨で四百二十七枚。この十年、ヴァイデン伯爵家が誰にも払わずに済ませてきた額でございます。


 リーゼロッテ様が、いつのまにか卓のそばまで来ていらっしゃいました。紙を覗き込んで、それから、わたくしを見ました。


「これ……全部、お一人で?」


「はい」


「来年からは、どなたが」


 わたくしは答えませんでした。答えるのはわたくしの役目ではございません。


 アルブレヒト様が、リーゼロッテ様の名を呼びました。低い、困った声でございました。


    ◆


 わたくしは三日後に、荷物をまとめて実家へ戻りました。父はケラー商会の帳場に机を一つ空けてくれました。


 いまは自分の名で、帳簿を請け負っております。年契約で、前金をいただいております。仕事は思ったよりございました。この辺りには、帳簿の読める者が本当に少のうございます。


 最初のお客様は、川向こうの製粉所でございました。三代続いた家で、帳面は先代の書き方のまま止まっておりました。粉の出入りと薪の出入りが同じ頁に混ざっておりましたので、まずそこを分けました。


 分けただけで、去年どこで損が出ていたかがひと目でわかるようになりました。ご主人が、頁を見て少し黙ってから、来年もお願いしますと仰いました。


 前金は銀貨で八枚でございます。金額よりも、前金という言葉のほうがうれしゅうございました。先に払っていただけるということは、値段がついたということでございますので。


 三月ののち、ヴァイデン伯爵家から手紙が届きました。


 冬の飼料の手配先がわからない、王都商会の担当者の名前がわからない、東の橋の石工が今年もう来ているはずだが記録が見当たらない、と。文字が乱れておりました。


 わたくしは返事を一行だけ書いて出しました。


 ――見積書をお送りいたします。


 値引の欄は、今度は空欄でございます。


ゼロと書くためには、まず総額を出さなければなりません。

書きたかったのは、そこだけです。


この「霜月りつ」名義では、声を荒げずに、記録だけで答える人たちの話を書いております。どれも一話で終わります。


・言い訳の日付を通行簿で確かめた話 『「急な仕事」と仰った日、街道は雪で閉じておりました』

 https://ncode.syosetu.com/n3120mo/

・断罪の場で三年ぶんの議事録を読み上げた話 『断罪の前に、議事録を三年分だけ読み上げてもよろしいですか』

 https://ncode.syosetu.com/n3145mo/

・三年ぶんの炭の数で答えた話 『わたくしが何もしていないと仰るなら、この屋敷の炭は誰が数えたのでしょう』

 https://ncode.syosetu.com/n3130mo/

・呼ばれ方が変わった日を数えていた話 『あなたがわたくしを「おい」と呼び始めた日を、全部書き留めております』

 https://ncode.syosetu.com/n3127mo/

・「すぐ駆けつけた」を旅程表で検算した話 『「駆けつけた」と仰いますが、王都からここまでは馬で二日でございます』

 https://ncode.syosetu.com/n3125mo/

・診断書に書かれていない一行を読んだ話 『妹君の診断書に、安静を要すとはどこにも書かれておりません』

 https://ncode.syosetu.com/n3152mo/

・持参金の返還額を関税表どおりに計算した話 『持参金はお返しに及びません。関税表どおりに計算いたしますので』

 https://ncode.syosetu.com/n3137mo/


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