真実の愛に賛成いたします。こちらが十年分の見積書でございます
十年ぶんの見積書を書くのに、三晩かかったそうです。
難しいのは金額ではなく、項目を立てるほうでした。全1話。
アルブレヒト様が話し始めたとき、わたくしは最後の桁を合わせ終えたところでございました。
三百二十七、と読み上げて、羽根ペンを置きます。秋の小作料の残り、十一戸ぶん。督促の手紙は先週出しましたから、来月には揃うはずでございます。
「ヨハンナ」
「はい」
「話がある」
「伺っております」
わたくしは帳面を閉じて、膝の上に重ねました。応接間の扉のところに、もうお一人いらっしゃるのは気づいておりました。淡い色の髪の、まだお若い方でございます。男爵家のリーゼロッテ様。夏の茶会でご挨拶をいたしました。
「僕は、真実の愛を見つけた」
アルブレヒト様は、そう仰いました。十年前に婚約を申し込んでくださったときより、ずっと迷いのない声でございました。
「君との婚約は、家同士が決めたものだ。十年、待たせてしまった。だが人の心は」
「賛成いたします」
言葉がお止まりになりました。
「……なんと」
「真実の愛に、賛成いたします」
わたくしは繰り返しました。反対する理由がございません。愛のない婚姻がどれほど帳簿を痛めるかは、この十年で嫌というほど見てまいりました。北の分家がそれで潰れたのは、七年前でございます。
リーゼロッテ様が、扉のところで小さく息を吐かれました。安堵なさったのだと思います。この方はきっと、わたくしが泣くと聞かされていらしたのでしょう。
泣いたことは、一度だけございます。四年目の冬でございました。麦の値が崩れて、小作の三戸が年を越せそうにないとわかった夜に、帳場で一人になってから泣きました。あれは婚約とは関わりのない涙でございます。数字が合わないときに人は泣くのだと、あのとき知りました。
三戸は、翌年の春に持ち直しました。種籾の貸付を年利なしにしていただくよう、わたくしがアルブレヒト様の父君にお願いいたしました。お願いに行くのに、書付を三度書き直しました。一度目は感情が入りすぎておりましたので。
「そう、か。……ありがとう。君は、いつも聡明だ」
「恐れ入ります。つきましては、こちらを」
わたくしは膝の上の帳面の下から、一枚の紙を出してお渡しいたしました。
封はしておりません。読んでいただくために作ったものでございます。
「……見積書?」
「はい。十年分でございます」
アルブレヒト様は紙を目の高さに上げて、それから、卓に置き直されました。項目が多うございますから、手に持ったままでは読みにくいのでございます。
一、帳簿の記帳および照合。十年分、四千百六十日。
一、小作料の徴収ならびに督促。年四回、通算四十回。
一、王都商会との取引仲介。二十七件。うち六件は先方へ出向いております。
一、冬季飼料の手配。十年分。凶作の年は二度、手配先を二軒から五軒に増やしております。
一、東の橋の修繕見積の作成および石工との折衝。三度。
一、夜間作業に要した蝋燭代。実費。こちらは領の支出に計上しておりませんので、家計から出ております。
「ヨハンナ、これは」
「まだ続きます」
一、借入の交渉。二度。金利をそれぞれ一分五厘、二分下げております。
一、使用人の給金台帳の作成。九年目から。
一、亡くなられた奥様の遺産目録の作成。一度。
アルブレヒト様の指が、紙の縁を押さえておりました。爪の先が白くなっております。
「……そんなつもりでは、なかった」
「存じております」
わたくしは頷きました。本当に、存じております。この方は一度も、わたくしを働かせているとお思いになったことがない。「君は数字が得意だから」と仰る。得意なことをしているのだから、それは楽しみであって労働ではない、と。
十年、そう思っていらした。それだけでございます。
この見積書を作りましたのは、先月でございます。三晩かかりました。
難しかったのは金額ではございません。項目を立てることでございます。「気を配ったこと」は項目にできません。「憶えていたこと」も項目にできません。冬の飼料の手配先を憶えていることには値段がつきませんので、わたくしはそれを落としました。落としたぶんを数えると、書いた項目より多うございました。
書けたものだけを書いてございます。ですからこの紙は、十年の全部ではございません。
「金が、要るのか」
「いいえ」
わたくしは、紙の一番下をお示ししました。
項目の列の、そのさらに下。
一、値引。十年分の好意。全額。
「……全額」
「はい。ですから、請求額はございません。ゼロでございます」
アルブレヒト様が顔を上げられました。何か仰ろうとして、口が動いて、それから止まりました。
「わたくしは十年、好意でしておりました。好意は請求できません。ですから請求はいたしません」
窓の外で、庭師が落ち葉を掃いている音がしております。
「ただ」
わたくしは、そこで一度だけ息を継ぎました。
「値段のつくものだった、ということは、書いておきたかったのでございます。ゼロと書くためには、まず総額を出さなければなりませんので」
総額は、紙の中ほどに書いてございます。金貨で四百二十七枚。この十年、ヴァイデン伯爵家が誰にも払わずに済ませてきた額でございます。
リーゼロッテ様が、いつのまにか卓のそばまで来ていらっしゃいました。紙を覗き込んで、それから、わたくしを見ました。
「これ……全部、お一人で?」
「はい」
「来年からは、どなたが」
わたくしは答えませんでした。答えるのはわたくしの役目ではございません。
アルブレヒト様が、リーゼロッテ様の名を呼びました。低い、困った声でございました。
◆
わたくしは三日後に、荷物をまとめて実家へ戻りました。父はケラー商会の帳場に机を一つ空けてくれました。
いまは自分の名で、帳簿を請け負っております。年契約で、前金をいただいております。仕事は思ったよりございました。この辺りには、帳簿の読める者が本当に少のうございます。
最初のお客様は、川向こうの製粉所でございました。三代続いた家で、帳面は先代の書き方のまま止まっておりました。粉の出入りと薪の出入りが同じ頁に混ざっておりましたので、まずそこを分けました。
分けただけで、去年どこで損が出ていたかがひと目でわかるようになりました。ご主人が、頁を見て少し黙ってから、来年もお願いしますと仰いました。
前金は銀貨で八枚でございます。金額よりも、前金という言葉のほうがうれしゅうございました。先に払っていただけるということは、値段がついたということでございますので。
三月ののち、ヴァイデン伯爵家から手紙が届きました。
冬の飼料の手配先がわからない、王都商会の担当者の名前がわからない、東の橋の石工が今年もう来ているはずだが記録が見当たらない、と。文字が乱れておりました。
わたくしは返事を一行だけ書いて出しました。
――見積書をお送りいたします。
値引の欄は、今度は空欄でございます。
ゼロと書くためには、まず総額を出さなければなりません。
書きたかったのは、そこだけです。
この「霜月りつ」名義では、声を荒げずに、記録だけで答える人たちの話を書いております。どれも一話で終わります。
・言い訳の日付を通行簿で確かめた話 『「急な仕事」と仰った日、街道は雪で閉じておりました』
https://ncode.syosetu.com/n3120mo/
・断罪の場で三年ぶんの議事録を読み上げた話 『断罪の前に、議事録を三年分だけ読み上げてもよろしいですか』
https://ncode.syosetu.com/n3145mo/
・三年ぶんの炭の数で答えた話 『わたくしが何もしていないと仰るなら、この屋敷の炭は誰が数えたのでしょう』
https://ncode.syosetu.com/n3130mo/
・呼ばれ方が変わった日を数えていた話 『あなたがわたくしを「おい」と呼び始めた日を、全部書き留めております』
https://ncode.syosetu.com/n3127mo/
・「すぐ駆けつけた」を旅程表で検算した話 『「駆けつけた」と仰いますが、王都からここまでは馬で二日でございます』
https://ncode.syosetu.com/n3125mo/
・診断書に書かれていない一行を読んだ話 『妹君の診断書に、安静を要すとはどこにも書かれておりません』
https://ncode.syosetu.com/n3152mo/
・持参金の返還額を関税表どおりに計算した話 『持参金はお返しに及びません。関税表どおりに計算いたしますので』
https://ncode.syosetu.com/n3137mo/




